第2話 フレッシュミックスパーティー

「まとめるとダンジョンに挑む者たち通称ダイバーたちに、なんらかの良い祝福と加護をもたらす。これが悪疫をもたらす【ジャマーカード】と対をなす【カバーカード】だ。中でも癒しの効果を持つカバーカードはその能力の差異はどうあれ希少だと言われている。学園都市の各区の保健室が繁盛するわけだな。では、本日の講義はここまで。以後の質問は受け付けない。要領の悪いことはお互いになるべくしないことで世の中は上手く回っていく! では以上、解散」


 学園都市エデン北区、第四校舎でのカードに関する講義の時間は終わった。黒板に書かれたチョークの文字は、剥がれて宙をただよい、窓の外へと流れ消えていった。


 まだノートを書き写し終えていないある者は、流れる文字を掴み損ない、頭を抱えた。


 そんな様子も気にせず、講義をしっかりと終えた先生は、教室の中の壇上からはけていった。


「トリノ先生!」


「なんだ質問は受け付けないと言ったろ」


 廊下を走り追いかけてきた慌ただしい生徒が一人。金刺繍の緑のローブ姿へと追いついた。


 すると、淡い黄色のヒールを履いた背丈の大きな先生はゆっくりと振り返り、冷静に対応した。


「質問じゃなくて、その、わたし、保健室のヒユ先生からこの講義を受けるよう紹介されて。今日の講義、すごく勉強になっちゃって!」


 その白髪の女生徒は質問をしにきたわけじゃないという。本来ならば講義時間外に生徒の相手をしないが、少し顎に手を当て考えたトリノ先生は、今、耳に入った台詞・情報に何かを思い当たったようで。


「あぁ、もしかすると第六保健室のヒユ・エイシアか? そういえばアレは要領の良すぎる優秀な生徒だったな。優秀な生徒のことは少ないながらこの頭のすみに覚えているぞ。あぁ、ということは、彼女は後釜を見つけたのか?」


「ふぇ?」


 どうやらトリノ先生はヒユ先生の知り合いだったらしい。生徒ということは、教え子ということだろう。だが、後釜の意味がイルナには分からずにいると。


「いや? ──なるほど。もしかすると、これは一種の仕返しか。ふむ、ならば、何か講義での質問があればいつでも私のラボに来るといい」


「え? トリノ先生、質問は受け付けないって??」


 首を傾げたイルナと同じ方向に首を倒し、トリノ先生はイルナの目の奥をじっと見つめる。すると、また何か思い当たったようで、少し柔らかな口調に変わり、イルナの思いもよらぬことを同時に口にした。


 質問を受け付けてくれるというが、それは講義の終わりに放ったトリノ先生の言動とは真逆のことだ。イルナはますます疑問に思い、今度は首を反対側の右に倒した。


「過去に質問が大好きな生徒がいてね、それはもう誇張じゃなく三日三晩追い回されたものだ。あまりにも困憊したものだから要領の良いヒユ生徒にも一時、私の代わりを頼んだことがあってね。キミは……そう、それにどことなく似ている。そのくりくりの赤い目つきがね、一時トラウマになったのだよ。ははははは」


「ふぇ!? ど、どういうこと!? ……ですか?」


 またイルナ傾げた方向に首を倒し追うトリノ先生。そしてまたよく分からないイルナの知らない昔話のようなことを、すらすらと思い出しながら言う。


「いやただ、一見、見込みがなさそうな生徒でも。諦めない心というものは、大事なものだとその時私は生徒たちから学んだのだ。だからこれは、その時の一種のお返しだ」


 赤目をじっと見つめられたイルナがかわりに、先生の黒目の上の長いまつ毛の長さを数えていると、


 トリノ先生は翼のような形をした左の黒髪を開き、そこに挟んでいた小さな名刺を一つ、イルナへと手渡した。


 次々と、何か分からないままも聞いたり受け取ったり。困惑するイルナの目に映るトリノ先生の紫口紅をした唇が、わずかにその口角を上げていた。


「ふぁ、ふぁい? ありがとうございます?」


 きっと悪い人ではないのだろう。イルナがそう納得し礼を言うと、トリノ先生の背は手を振るかわりに、右、左と、黒髪の翼を揺らし、廊下の突き当たりを曲がって去っていった。


「トリノ先生……ヒユ先生のせんせい? それでこれは──」


 イルナはその場でぼーっと立ち尽くし、考え込むも、結局分からず。表も裏も何も記されていない謎の白紙の名刺を、胸元に抱えていた教科書の間に挟み込んだ。







 トリノ先生の講義を終えた第四校舎から、本をかかえイルナが帰路へとついていたところ。


 横から腕を突然引っ張られた。イルナは強い力で突然右に引き寄せられ、驚き右にそのまま振り向いた。


 目の前のそこには、イルナもこの学園都市に来てからよく知る赤髪の女の子が一人立っていた。


 同じ校舎の別の先生の講義を受けていたカミュ・ラキラは、知り合いのイルナ・ハクトのことを見つけ、妖しく笑った。




 道端から、路地裏へ。連れられていったイルナは、カミュに詰め寄られ質問を投げかけられていた。


「そろそろ自分探しの時間は終わって、戻る気になったかしら」


「カミュちゃん……わ、わたしはやっぱり。荷物持ちじゃなくてちゃんとダンジョ──」


「今、そんなこと喋っていいなんて、私言った?」


「そ、そんな……あ!?」


 壁際のそれ以上にイルナは下がれない。緑がかったその瞳がじっとイルナの赤目を見つめて離さない。赤髪の彼女のかもしだす不思議な雰囲気・魔力からは逃れられず。


 やがて赤髪の彼女は目線を斬り、顔と顔が資金ですれちがった。


 ひどく近く覆い重なる体。深みのある臙脂色のローブが、安っぽい色合いの緑のローブを隠した。


 イルナが抱えていた本は胸元からこぼれ落ち。


 壁にぴったり圧されたイルナは、首筋にじんわり流れた刺すような痛みに、唇をきゅっと噛み締め、黙る────。


 流れる。とても静かな時間が、昼の陽光もわずかな狭い陰の中で、重なり二人に流れる────。



 カミュ・ラキラは目を瞑り味わう。その白肌のうなじに、歯を突き立て、唇を添える。そんな秘密の行為に耽る。


 流れていく甘美な味はこの世のものとは思えない。大人しくも生意気でドジなただの白髪の少女にも、取り柄の一つがあるとするならば、彼女に通うその赤。愛飲するトマトジュースよりもクセになる魔の滾る旨味、口内にひろがり鼻腔を抜けていきくすぐりつづける濃密な芳香。



 そんな至福の食事の時間に終わりはない。カミュ・ラキラの気の済むまで、彼女の中に疼く彼女のソウルメイトカード満たされるまで終わることはない。


 腰を引き寄せ、獲物のか弱い白兎を逃すことはない。首筋から吸われゆく行為に徐々に痺れ脱力し、瞼は重くとろんと閉じかけ、抵抗する力も入らない。


 イルナ・ハクトの時間はカミュ・ラキラの支配する時間である。イルナに流れる全てがカミュに同期する。そんな長い長い二人だけの秘密の時間に────────乾いた音が足元に鳴った。


 カミュは静寂を間抜けに裂いたその音に目を開け、忽然と足元にころがった橙色の石を訝しみ見た。


「おい、」


「なに? 誰?」


 カミュが今振り返る路地裏の光の方からゆっくりと歩き現れた、黒髪黒ローブ。青く鋭い目つきが、変に重なった二人のことを睨んでいる。


 臙脂色のローブで口元を拭ったカミュは、平然とした様子でいきなりやってきた馴れ馴れしいこの男が何者であるか聞き返した。


「別に。ただ何してやがるのかなって気になった。散歩中にこそこそと気配が目に入って目障りだったからな。これがダンジョンのモンスターならぶっ飛ばしてるところだ」


「は? イカれてるの?」


 男は路地裏に何かいる気配が目に入って鬱陶しかったのだと言う。


 だが、そんな理由は聞いたことがない。カミュにとって難癖そのものである。不愉快そうに男に言葉の棘を向けた。


 しかしイルナには、その皮肉っぽい声を聞き、その高い立ち姿を見て、そこに立つ男が誰のことだか分かったらしく。


「ま、マカミくん!? なんで……ご、ごめんなさい!!」


 驚いた様子のイルナは彼の名前を一度口にし、なんとその場を逃げ出し駆けていった。落ちていた本を慌てて拾い直し、それを抱えて、彼の横を目もくれず俯きがちに走り抜けた。


 白髪を乱れさせ、暗い路地裏の中を去っていく。


「って、おい!」


 マカミくんは振り向くが、白髪の彼女は一度も振り返らずに去っていった。もうイルナ自身、その場にいることが、まるでいたたまれないように


 思いがけないイルナの起こした反応と行動に、唖然とするマカミくんは特に後を追わず。仕方なしにその場に残っていた赤髪の女生徒に話しかけた。


「お前、アイツの友達?」


「関係ないでしょ。チッ──」


 そう冷たく吐き捨て、マカミくんを一瞥したカミュも路地裏を去っていく。


「なんだあいつら? ……おかしいな?」


 マカミは去りゆく赤髪の女のことを訝しみ睨むが、あの二人が結局ここで何をしていたのかは、分からない。


 マカミくんはおもむろに落ちていた橙色の石を拾いあげる。そして、また石の近くに落ちていた謎の白紙の札を拾いあげた。


「ますます、なんだこれ? ──ハッ、ま、どうでもいいがな。んなこと」


 石を手の上に投げ遊ばせながら、マカミくんは用もあやしい人影もなかなった狭苦しい路地裏を後にした。







「飛び入りして遊ぶにも、たいした実技は今日はどこもやってねぇな。チッ──ターミナルにでも行ってみるか。あの水の【アタックカード:】を今のうちにもっと試しておかないとな」


 学園都市エデンに入学する際にもらった【ダイバーカード】。ダイバーとはダンジョンに挑む者たちのことであり、このカードは万能な情報端末や身分証明としての役割を果たす。


 マカミくんはそんなダイバーカードを指でいじりながら、学園都市内で今空いている講義・実技の内容を確認するが、特にどれもお気に召さなかったようだ。


 暇を持て余すことになってしまったマカミくんが、曲がりくねた昼の野道を真っ直ぐにすすむ。眠気を誘う燦々な陽射しに、いつものあくびを大きくしかけたその時──


「いやー、ここのアイスクリームは冷たくてうまい。当たり前にうまいとはこのことだ。いいね、当たり前。こう暑いと、当たり前がいちばん当たり前に欲しいものだ」


 人気のない道端にはアイスクリーム屋の旗が揺れている。移動型キッチンカーが一台停まっていた。マカミくんがなんの気なしに通り過ぎようとしたそこに、不必要なボリュームに声を上げ、アイスクリームの下手な感想をのたまうヤツがいる。


 爽やかな夏の予感を告げる青いスーツを纏い、青くてポップなシルクハットを被った謎の高い背丈。カラフルなアイスクリームを七段積んだコーンを片手に、キッチンカーの前に立っていた。


(なんだこいつ──)


 マカミくんは思わず振り返る。サクラにしてももっと気の利いたマシなことを言えるヤツを雇った方がいい、と思いながら訝しんでいると。


「おや、あなたは……。はっは、ソウルメイトカードの調子はどうですか? 何かこれまでとはちがう成長の兆しは見つけられましたか?」


 マカミくんが目を合わせたと思ったら、ゆっくりと振り向いたソイツの目はなく面はない。まるで真っ白いキャンバスのようだ。常人が長く見つめていると少し不安になりそうなほどの、無貌の者であった。


 しかも、ますます怪しいことを面なしのしたり顔で言う。


 他人のことを見透かすような発言と、その面に、マカミくんは思わず──


「おい、お前。なにもんだ?」


 マカミくんは突然、左手から水縄を鋭くしならせた。その縄がみるみると伸びゆき、アイスクリームを片手に持っているその怪しい男の手首を結び、掴んだ。


「私が何者か? その真意は私自身が一番聞きたいものですが。この面のことはさておき、アレだけ壇上で完璧にカンペを読み上げたみんなの大好きなこのヌッペ・フモフのことを知らないとは」


 ヌッペ校長は今、左手に巻きついた縄の先に重しのように付いていた水のカードを一枚、おもむろに手に触った。


「──おや? はははは、なるほど、なかなか鋭く厳しいソウルメイトカードを使っていらっしゃる。いいでしょう、予定とはちがいますが、そんなキミに興味がわきました。このままお相手いかがかな? もちろんハンデとして、私はこのアイスを片手に食べながらということで」


「ハッ、おもしれぇ……。舐めていられるなら──やってみやがれ!!」


 マカミくんは水の縄を一気に強引に引き寄せ、ふざけた青スーツの男が空に打ち上がる。


 コーンから引き剥がれた溶けかけのアイスクリームのお手玉が舞う。元気な若さに力強く釣り上げられたヌッペ・フモフは、宙を走りながら笑った。







 振り下ろした水縄は一本に保たれることなく解け、降って来たにわか雨に黒い傘を差す。


 白いのっぺらぼうの男は、息ひとつ上げず。逆に肩で息をする黒髪の少年に、ひとりでに浮かぶ黒傘の下で拍手をし称賛の言葉を投げかけた。


「それがあなたのソウルメイトカードの力ですか。実に素晴らしい! 動きにもキレがある。手持ちの傘がなければ濡れていたところでした。──しかし、キミは振り回しているようでそのカードに振り回されているようにも見えますね」


「ハァハァ……あ? 何が言いたい」


 他人のことをよく喋るのっぺらぼうの男に、マカミくんは顔をしたたる汗と水飛沫の混じるものを拭いながら聞き返した。


「キミの真のソウルメイトカードはもっと別のところにあるということですよ。その左から垂れ流す水遊びだけでは、ボクが見るに、本質にはまだまだと言ったところですね?」


「ソウルメイトカードの本質……なんだと? ──」


 四段重ねになったコーンの上の溶けかけのアイスをこぼさないように舐めながら、そののっぺらぼう、ヌッペ・フモフ校長はつづけた。


「いやいや、余計なお節介でした。お気になさらず。では、ともにダンジョンの果てを目指せるような更なる成長を期待していますよ──〝マカミくん〟。そうそう、そこのアイスクリーム屋はイチオシですよ。とくに【ダークチョコ、ストロベリー、オレンジソーダ】、喉を乾かせてしまったお礼です。よければ友達にも宣伝してあげてください、はははは」


 そう言いながらヌッペ・フモフ校長先生は、マカミくんの落としものであった白い札を胸元のポッケから取り出し投げ返した。そしてアイスクリーム屋の店主に代金を渡し、野道を悠然と鼻唄を口ずさみながら歩き去っていく。


「な、なんだアイツ……強さがまるで見えねぇ……」


 マカミくんはヌッペ・フモフ校長の誘いに乗り、対峙して分かった。目を凝らしても何者か判別の付かないそのまっさらな白い面のように、まるで彼の強さの底が見えないことを。


 マカミくんが見ることができたのは、今も熱い砂に溶けてゆく黒と赤と橙のアイスクリームもどき。七段あったアイスクリームを四段にしてやるのが精いっぱいであった。


 ひどく乾いた喉に、マカミくんには今、キッチンカーのアイスクリーム屋の店主が天使のように微笑んでいるように見える。吸い寄せられるように、熱され過ぎた頭とへろへろの足取りで、冷気と甘い匂いの漂う其処へと歩いている途中──


「ん、──こいつは?」


 何か違和感を感じ取ったマカミくんは、手に持っていた白い札を見つめる。何の変哲も絵も模様もなかった四角いそれが、異様に光り輝き、白い海のように渦巻いていた。







 イルナ新入生がトリノ先生の講義を受けてから三日後の朝、西区ダンジョン前エレベーターターミナルにて。


 この日のイルナは情報端末であるDダイバーカードに掲示されたイベント情報をたよりに、待ち合わせ場所の階段を数歩降りた円形のスペース、通称【憩いの円環】に午前9時30分の時間通りに集合した。


 イルナがDカードで知った目玉のイベントタイトルは「フレッシュミックスパーティー」。その肝心の内容はというと、普段組んだことのない者同士でダンジョンに向かうためのパーティーを組み申請すると、各々のDカードに学園ポイントを付与されるというものであった。主に新入生同士のパーティー作りを促進するためのものであるが、同時に学園都市内の色々な施設で使える学園ポイントもつくというので、ただでパーティーを組むよりもなかなかお得なイベントであるということだ。


 さらに、この「フレッシュミックスパーティー」で組んだパーティーは、不思議とそのまま末永い恋愛関係に発展したり、学園に今も名を残すほどの優れたパーティーを一部排出しているのだとか、色々な良い噂もある伝統のイベントなのだとか。


 しかし、イルナが勇気をだし声をかけようとすると、何やらイルナを中心に人の輪が水面に浮かぶ波紋のように避けて広がる。


 そんなおかしな感覚に見舞われてしまったイルナにどこか奇異の視線が集まる。そして次第に、新入生たちは口々にざわつきだした。


「白い髪? ねぇ……アレってひょっとしてアレじゃない?」

「あ、私も噂に聞いた。あの子、盗み癖があるらしいよ」

「パーティーの荷物持ちもそれでやめさせられたとか」

「え、普通にやなんだけど。なんでいるの? そんなの」

「なんか貧乏くさそうなローブきてるし、やりそうかも……」

「スタイルに合ってないのに長い杖もってえらそうだし。あ、その盗んだ金で買ったんじゃない? きゃはは」


「え!? そっ、そんなこと!」


 やがてイルナのことを離れて囲う新入生たちの訝しみ見る視線は、鋭く軽蔑の意を含んだものに変わっていった。


 そんな共通する敵を一人作り出して結束が深まったのか、続々とパーティーが決まり、新入生たちが階段を上ってイルナの周りからはけていく。


 ざわつく声が耳に遠のいていく。円形広場に独り立ち尽くし、取り残されてしまったイルナは──


「わっ、わたしと…………はぁ……うーうん! 一人でもッ、がんばらないと! あ、──もちろんキャロットもね!」


 去りゆく人たちを見つめ吐いてしまった落胆のため息も、イルナはすぐに髪が揺れるほど己の首をぶんぶんと左右に振った。


 気持ちをリセットするように強く左右に振り続け、イルナは最後には一人で深く一度頷いていた。挫けていてはいけないと、目を見開き下を向かずに前を向く。


 そんな時、ソウルメイトのキャロットが急に、イルナの側から元気良く飛びでてきた。


 もちろん彼女は一人ではない。ソウルメイトという心強い仲間がいる。イルナはそんな身の周りを跳ね出したキャロットと、腰をかがめて微笑みながら遊びだした。


 イルナが夢中にしばらくそうして遊んでいると、キャロットは突然耳をピンと立てた。キャロットの今振り向いた音の鳴った方向に、イルナも一緒に振り向いてみると──


 円形スペースのそこには、見たことのある橙色の石が一つ転がっていた。


 そしてゆっくりとその橙に歩き近付く影をイルナが見上げると、そこにはもっと見たことのある黒髪黒ローブの姿が立っていた。


「ふぇ? ま……マカミくん? なんでここ……に」


 少し気まずい。イルナは彼を目にし最初は驚きながらも、次第にそんな表情に翳り変わっていった。


「お前さ」


「な、なに(ちかい!?)」


 立ったまま何も言わずにいたマカミくんは、またおもむろに歩き出し、急にしゃがみ込んだ。そして彼のことを唖然と見上げていたイルナの目の前に現れたのは、マカミくんの面。鼻先と鼻先が触れそうなほどに近く、青く鋭い眼がたじろぐイルナのことをじっと前のめりに睨んでいた。


「目と鼻と口があるんだな?」


「ふぇ!? そそそ、そんなのあるに決まってるし!!」


 マカミくんがそんな当たり前ことを突拍子もなく言うものだから。イルナは彼の至近に迫るはなさない視線と、まつ毛の数まで見える詳細な彼の面の情報にパニックになりながらも、当たり前に返し答えた。


「ハッ。面があるなら、ちょっとそのしょぼい面かせよ」


 しゃがんでいたマカミくんは急に勢いよく立ち上がった。


「ふぇっあわっ!? つ、──ツラぁ?? ……ってしょぼくないし!! ──あ!? またわたしのキャロットに何してるのマカミくーーん!!」


 後ろに驚き倒れたイルナは、打った頭を抑えながら起き上がる。


 イルナが目を離している隙に、マカミくんは飛びかかってきた兎の耳を片手に持ちながら、既に小階段に足をかけ上っていた。


 イルナは慌てて落ちていた大事な古杖を拾い、その振り返らない彼の背を追い、ダンジョンに向かうパーティー募集をしていた【憩いの円環】を後にした────────。

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