第四十四話:無色のエピローグ
世界は、ようやくその熱狂から、醒めようとしていた。
テレビの画面の中。キャスターが冷静な、しかしどこか、興奮を隠しきれない声で、事件の終結を伝えている。
『……アノニマス事件の主犯格とみられる、橘美咲容疑者は、昨夜未明、市北部の潜伏先にて、身柄を確保されました。警察は、殺人教唆及び監禁等の容疑で、近く送検する方針です。これにより、世間を震撼させた一連の事件は、事実上解決したと見てよいでしょう……』
その淡々としたナレーションを、広瀬未央は自室のベッドの上で、ただ無感情に聞いていた。
解決。
なんとシンプルで、なんと空虚な言葉だろう。
あの、血と狂気に塗れた数週間が、たった一言で過去の出来事として処理されていく。世界は、いつも通り、次の新しい悲劇を求めて、回り始めるのだ。
◇
その日の午後。
未央は、溝口に呼ばれ、再び警察署の取調室にいた。だが、そこはもはや彼女を尋問するための場所ではなかった。
「……君のお陰だ、広瀬さん」
溝口は、山のように積み上げられた捜査資料の向こう側で、深く頭を下げた。
「君がいなければ、我々は永遠に、あの母親の心の闇にたどり着くことはできなかっただろう。礼を言う」
「……いいえ」
未央は、静かに首を振った。
「橘美咲は、どうなりましたか」
「完全に黙秘している。だが問題ない。綾波玲子が、すべて話した。彼女が、橘美咲から受け取っていた、あの手紙。その中に隠されていた、暗号化された犯行指示のすべてをな。彼女は、もう逃げられない」
溝口は、そこで一度、言葉を切った。
「君のことだが……」
その声には、わずかなためらいがあった。
「君が行った、数々の行為。ハッキング、不法侵入、そして我々警察を欺き、利用したこと。それらは、本来、罪に問われるべきものだ。だが……」
「……」
「上からの指示だ。今回の君の協力は、公式記録には残さない。匿名による、有力な情報提供、という形に処理される。佐伯先生の力と……我々の現場判断、というやつだ。世間にとって、君はただの勇敢な証人。ヒーロー、だよ」
その言葉は、未央の心に、何の慰めももたらさなかった。
ヒーロー。
その仮面の裏側で、自分がどれだけの嘘と罪を、重ねてきたのか。
彼女は、ただ静かに、その不都合な真実を飲み込んだ。
「……陽菜は?」
最後に、どうしても聞いておかなければならない名前を、口にした。
「……警察病院の医療施設に留置されている。母親の逮捕を知っても、彼女の状態に変化はない。おそらく彼女は、もう二度と我々の世界には戻ってこないだろう。彼女自身の心が、それを拒絶している。……芸術家、橘陽菜は、あの日あのステージで、完全に死んだんだ」
未央は、そうですか、とだけ答えた。
「あの邸宅にあった絵画はどうなりますか」
「すべて証拠品として押収した。裁判が終われば、倉庫の中で何十年も眠り続けることになるだろう。そして、いずれは廃棄されるか……あるいは百年後くらいに、どこかの物好きな美術史家が掘り起こして『悲劇の天才画家の、失われた作品群』なんて、論文を書くのかもな」
「……最後の、あの空白のキャンバスは」
その問いに、溝口は少し不思議そうな顔をした。
「ああ、あれか。あれは、妙なことになっていた。突入時の混乱の中で、誰かがぶつかったのか、あるいは橘美咲本人が、最後に暴れたのか……ズタズタに切り裂かれて、使い物にならない状態だったよ」
空白の、傑作の結末。
それは、誰にもわからないまま、闇に葬られた。
◇
溝口は、取調室を出る未央の背中に、声をかけた。
「広瀬さん」
「……君は、物事の行間を読む目を持っている。それは得難い才能だ。決して、それを失うな」
「……はい」
「だが、気をつけろ。君が覗き込んだ、あの深淵はな……いつだって、こちらを覗き返してくる。二度と、あれに飲み込まれるなよ」
それは刑事としてではなく、一人の大人としての不器用な、しかし誠実なアドバイスだった。
◇
長く、そして狂気に満ちた、夏の最後の日。
未央の部屋は、綺麗に片付いていた。壁のホワイトボードは取り外され、そこにはただ白い壁紙があるだけだった。
郵便受けに、一通の分厚い封筒が届いていた。
『一般財団法人 佐伯翔記念芸術ジャーナリズム振興財団』から。
中には、帝都の有名私立大学の合格通知書と、正式な奨学金給付の決定通知書が入っていた。彼女の未来への、切符だった。
未央は、机に向かった。
そして、あの一冊のノートを開く。
『匿名のアトリエ』
そのタイトルが記された、最初のページ。そこに書き連ねられた、アノニマスの神話から始まる物語の、数行。
彼女は、そのすべてに一本の赤い線を引いた。
そして、次の真っ白なページに、新しいペンで、最初の一文を書き記した。
『これは、佐伯翔という、一人の少年の物語である』
真実を語る。
それは、神話をなぞることではない。
怪物になった少女の、罪を暴くことでもない。
最初に声を上げた、一人の人間のその声に、耳を澄ませることから始まるのだ。
未央のジャーナリストとしての本当の戦いは、今、この一文から、静かに始まった。
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