第三十六話:過去という名の共犯者
時間を少し巻き戻そう。
これは、法廷闘争が始まる少し前のことだ。
あの狂乱の創星祭から、一週間余りが過ぎた。夏休みは、まだ半分以上残っている。だが、彩星芸術学園の生徒たちにとって、その夏はもう終わっていた。学園は、いまだ警察の管理下にあり、生徒たちは、自宅での自習を強いられていた。テレビをつければ、アノニマス事件の特集がうんざりするほど流れている。そのどれもが、真実からはほど遠い憶測と、扇情的な言葉で塗り固められていた。
広瀬未央の新しい日常は、この歪んだ現実と向き合うことから始まった。
その日の午前、彼女の元に一通の分厚い書留郵便が届いた。差出人は『一般財団法人 佐伯記念芸術ジャーナリズム振興財団』。設立されたばかりの、そのいかめしい名前の財団からの、最初の通知だった。
中には、未央を第一期特別奨学生として認定する旨の通知書と、大学卒業までの学費、及び生活費の、一切を保証するという契約書が同封されていた。
「……本当に、いいの? 未央」
契約書にサインをする娘の姿を、母親が不安そうな顔で見つめている。
「これは、ただの奨学金じゃないのよ。あの佐伯剛三という人物からの、見えない鎖になるんじゃ……」
「わかってる」
未央はペンを置くと、静かに言った。
「これは契約。私が真実を書くための力を手に入れる、代償。でも、これしかないの。私が、前に進むためには」
彼女は、迷いのない手つきで、契約書に自らの名前を、記した。
そのインクが乾いた瞬間、彼女はもはや、ただの高校生ではなくなった。一人のジャーナリストの卵として、そして佐伯剛三という獅子の牙として、生きることを選んだのだ。
早速、財団の代理人を名乗る弁護士から、電話があった。
剛三からの、最初の指令だった。
「佐伯先生は、君にただ記憶だけで物語を書かせるつもりはない、とのことだ。君にはまず、徹底的な調査を行ってもらう。最初のテーマは、橘美咲。彼女のすべてだ」
弁護士は、淡々と告げた。
「彼女の生い立ち、画壇での経歴、当時の評論、交友関係。そのすべてを掘り起こし、レポートとして提出してほしい。必要な資料へのアクセス権限は、こちらで用意した」
電話の後、未央のパソコンに一つのログインIDとパスワードが、送られてきた。それは、日本のあらゆる美術雑誌のバックナンバーや、過去の展覧会記録を網羅した、巨大なデジタルアーカイブへと繋がる、魔法の鍵だった。
未央は、自分がこれから足を踏み入れようとしている世界の巨大さを、改めて実感した。
◇
その頃、溝口と相田は、橘美咲が収容されている療養施設で、分厚い壁と対峙していた。
美咲の病室。彼女は、車椅子の上で、静かに窓の外を眺めているだけだった。同席したやり手の弁護士が、鋭い視線で刑事たちを牽制している。
「……橘さん」
溝口は、あえて穏やかな声で語りかけた。事件のことは、一切口にしない。
「あなたの、二十年前の作品を何点か拝見しました。素晴らしい画だった。特にあの、『受難』と題された一枚は」
その言葉に、それまで人形のように動かなかった美咲の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
「あの作品で、あなたは大きな賞を取れると言われていた。だが、結果は違った。あの時の審査員の一人が、佐伯剛三氏だったそうですね。彼は、あなたの芸術を、理解できなかったのでしょうか」
「……」
「あなたの芸術は、娘さんに見事に受け継がれた。いや、娘さんは、あなたの芸術を完成させた、と言ってもいいのかもしれない」
その時だった。
美咲の口元に、ふっと、笑みが浮かんだ。それは、聖母のように穏やかな、しかし、見る者を凍りつかせるような、冷たい笑みだった。
弁護士が、即座に間に割って入った。
「溝口警部。その辺で、おやめください。依頼人は、療養中の身です。これ以上の尋問は、彼女の健康を著しく害する」
溝口は、それ以上追及しなかった。だが、彼は確信していた。この女の、精神疾患は真実であると同時に、最強の鎧でもある。そして、その鎧の隙間から垣間見えた、あの冷たい笑み。それこそが、この怪物の本質なのだ、と。
◇
未央は、書斎に籠っていた。佐伯剛三から与えられたデジタルアーカイブの深海で、彼女は過去の亡霊たちの声を、拾い集めていた。
橘美咲。
若き日の彼女は、まさしく天才だった。数々の賞を総なめにし、その未来は輝かしいものに思えた。
だが、当時の評論記事を読み込んでいくと、いくつかの共通した指摘があることに、気づく。
『圧倒的な技術力。だが、その完璧さ故に、彼女自身の声が、聞こえてこない』
『古典的な、テーマへの異常なまでの固執。特に、聖母や聖女といった、女性の殉教の図像に、彼女は取り憑かれているかのようだ』
そして、未央は運命の記事を、見つけた。
二十年前。美咲の心を折った、あのコンクールの批評記事。
そこには、こう書かれていた。
『……橘美咲氏の作品は、聖女アガタの殉教を描いた大作だ。その技術力は、他の追随を許さない。だが、残念ながらそこに描かれているのは、苦痛の完璧な模倣であり、その本質である魂の救済への理解が、完全に欠落している。それは、感情の伴わない、あまりにも冷たい絵画だ……』
聖女アガタ。
その名前に、未央の心臓が、大きく脈打った。
彼女は、急いでアノニマスの作品リストを検索する。
――あった。
陽菜が、アノニマスとして初期に発表し、その名を一躍世に知らしめた、代表作。
それは、現代の渋谷を舞台に、傷ついた一人の少女を聖女アガタの図像に重ね合わせた、あまりにも痛々しく、そして美しい作品だった。あの作品は、評論家たちにこう絶賛されていた。
『現代に蘇った、魂の救済の物語だ』と。
そういうことだったのか。
陽菜は、ただ母親の画風を、模倣していただけではなかった。
彼女は、母親が成し遂げられなかった芸術を。母親が「感情が、欠落している」と酷評された、その作品を。
本物の人間の、苦痛と絶望を「絵の具」として使うことで、完璧な芸術作品へと「昇華」させていたのだ。
それは、二十年の時を超えた、母と娘による共同の復讐であり、そして、歪んだ芸術の完成だった。
未央が、その恐るべき真実に戦慄していた、その時。
パソコンに、一通の暗号化されたメールが届いた。
差出人は、佐伯剛三。
『調査は進んでいるようだな、広瀬さん。君の才能は、私の想像以上だった』
『だが、気をつけろ。君が暴こうとしている過去は、橘家のものだけではない。橘美咲には当時、複数のパトロンがついていた。君が、その古傷を暴くことを、快く思わない人間たちがいる』
『獅子の縄張りに、踏み込んだのだ。ハイエナどもの視線には、常に注意を払え』
メールは、そこで終わっていた。
未央は、背筋を冷たい汗が伝うのを、感じていた。
自分が戦おうとしている相手は、もはや一族だけではなかった。
その闇は、もっと深く、そして広く、この社会の根に繋がっているのかもしれない。
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