第二十三話:破られた聖域

 その一報は、一本の、短い電話によって、橘陽菜の元にもたらされた。


 深夜、自室のベッドの上で、次の作品の構想に耽っていた彼女のスマートフォンが、けたたましく震えた。ディスプレイに表示されたのは、『綾波玲子』の名前。こんな時間に、彼女から電話があるなど、ありえないことだった。

 陽菜は、胸騒ぎを覚えながらも、冷静に、通話ボタンを押した。


『……陽菜ちゃん!』


 電話の向こうから聞こえてきたのは、玲子の、パニックと恐怖で完全に裏返った、悲鳴のような声だった。


『警察が……! 警察が、私の部屋に……! どうして!? なぜ、ここが!?』


「落ち着いて、玲子さん。何があったの、正確に話して」


 陽菜の声は、不思議なほど、静かだった。だが、その頭脳は、すでに、考えうる全ての可能性を、猛烈な速度でシミュレートし始めていた。


 玲子は、途切れ途切れに、状況を説明した。数時間前、警察が、家宅捜索の令状を手に、彼女のマンションに踏み込んできたこと。部屋中のありとあらゆるものが、ひっくり返され、押収されていったこと。特に、画材や、パソコン、そして、橘美咲との長年の手紙のやり取りなどが、根こそぎ、証拠品として持ち去られたこと。


『……私は、どうしたらいいの!? 陽菜ちゃん! 美咲ちゃんは!?』


「母さんには、まだ連絡しないで」


 陽菜は、即座に命令した。


「いい、玲子さん。よく聞いて。あなたは、何も知らない。ただ、昔からの友人の、病気の相談に乗っていただけ。画材のことも、彼女に頼まれて、代わりに買ってあげたことがあるだけ。それ以上でも、それ以下でもない。わかる?」


『で、でも……!』


「わかってくれるよね?」


 陽菜の声は、氷のように冷たく、有無を言わせぬ響きを持っていた。玲子は、電話の向こうで、小さく、頷くことしかできなかった。


 電話を切った後、陽菜は、しばらく、闇の中で、じっと動かなかった。

 警察が、動いた。それも、こちらの予想を、遥かに上回る速度と、正確さで。神保町の画材店の件が、漏れただけではない。彼らは、綾波玲子という、自分の計画における、最も重要な、しかし、最も脆弱な一点を、的確に、突き破ってきた。


 これは、偶然ではない。

 誰かが、いる。


 警察の内部に、あるいは、そのすぐそばに。自分の思考を読み、自分の計画の、さらに先を行こうとしている、もう一人の、プレイヤーが。


 広瀬未央。

 その名前が、陽菜の脳裏に、はっきりと浮かび上がった。


 あの、従順な駒を演じていた、親友。彼女が、裏で、ここまで大胆な手を打っていたというのか。

 陽菜の口元に、ゆっくりと、笑みが浮かんだ。それは、怒りや、焦りから来るものではなかった。

 心からの、歓喜の笑みだった。


(面白い……!)


(面白いじゃない、未央……!)


 あなたは、ただの観客ではなかった。あなたもまた、この舞台を、自分の作品にしようとする、もう一人の、芸術家だったのだ。


 素晴らしい。

 なんと、素晴らしい展開だろう。

 自分の完璧な脚本に、こんなにも、刺激的なノイズを、入れてくれるなんて。


 陽菜は、ベッドから、静かに立ち上がった。

 もはや、悠長に、点描画を描いている時間はない。

 警察が、玲子から、決定的な証拠を引き出す前に。未央が、次の一手を打ってくる前に。


 このゲームを、終わらせる。

 最高の形で。最も、美しい、フィナーレで。


 彼女は、ターゲットを変更した。

 中地勇斗のような、空虚な「点」では、もはや、この高ぶるインスピレーションを、満たすことはできない。


 もっと、この物語に、相応しい、生贄が、必要だ。

 この、狂ってしまった舞台の、幕を引くための、最後の、そして、最高の「作品」が。


 陽菜の瞳が、狂気と、純粋な芸術への渇望で、爛々と輝いていた。

 彼女は、スマートフォンを手に取ると、ある人物に、短いメッセージを送った。


 それは、警察でも、玲子でも、母親でもない。

 このゲームの、もう一人のプレイヤー。

 彼女が認めた、たった一人の、ライバルへ。


『未央。ゲームのルールを変えましょう』


『最後の作品を、創るわ。あなたと、私の、共同制作よ』


『最高の舞台を、用意して。待ってる』



 ◇



 そのメールが、広瀬未央の元に届いたのは、夜が、白み始める、少し前のことだった。

 玲子の家宅捜索のニュース以来、彼女は、一睡もできずに、陽菜の次の一手を、予測しようと、思考を巡らせていた。

 そして、その、あまりにも、挑発的なメッセージ。


 未央は、全身の血が、逆流するのを感じた。

 陽菜は、気づいている。自分の、すべてに。

 そして、彼女は、逃げるどころか、こちらを、自らの最後の芸術に、取り込もうとしている。


 共同制作。

 その言葉が、未央の心を、不気味に、ざわつかせた。


 最後の作品とは、何? 最高の舞台とは、どこ?

 わからない。だが、一つだけ、確かなことがある。


 陽菜は、暴走を始めた。

 警察の包囲網も、自分の妨害も、すべてを、自らの芸術のための、演出として、楽しんでいる。


 これは、もはや、犯罪ではない。

 二人の、芸術家による、狂気の、殺し合いだ。


 未央は、震える手で、返信を打った。

 彼女には、もう、退路はなかった。この、悪魔の招待状を、受け入れるしか、道は残されていなかった。


『ええ、いいわ』


『最高の舞台で、あなたを、待ってる』


 その返信を、送った瞬間。

 未央は、自分が、もう、ただの人間ではいられなくなったことを、はっきりと、自覚した。

 悪魔を狩るために、自分もまた、悪魔になるしかない。

 友人の命も、自らの未来も、すべてを、この狂ったゲームの、チップとして、差し出すしかないのだ。

 空が、白んでくる。


 彩星芸術学園に、新しい、そして、おそらくは、最後の朝が、訪れようとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る