第二十話:第三の亡霊

 橘美咲。

 その名前は、広瀬未央の中で、巨大な絶望と同義になった。


 だが、神保町の雑踏の中、アスファルトから立ち上る陽炎を見つめながら、彼女の頭脳は、感情とは切り離された領域で、猛烈な速度で回転を始めていた。


 自室に戻った未央は、壁に貼った巨大なホワイトボードの前に立った。そこには、事件の関係図が、無数の線と付箋で、巨大な蜘蛛の巣のように張り巡らされている。


【前提1】橘陽菜 = 実行犯/芸術家(アノニマス)

【前提2】橘美咲 = 思想的指導者/動機の源泉

【前提3】画材購入者 =『陽菜』と『その母親』

【前提4】橘美咲のアリバイ = 犯行時刻、療養施設に滞在(物証あり)


 この四つの、動かしがたい事実。

 これらを並べた時、導き出される論理的な帰結は、たった一つしかなかった。


 未央は、赤いマジックを手に取り、陽菜と美咲の欄から、一本ずつ、新しい線を引いた。そして、その線が交差する先に、大きなクエスチョンマークと共に、こう書き記した。


『第三の人物X = 母親役の代行者/物理的協力者』


 そうだ。この物語には、もう一人、役者がいたのだ。

 陽菜が「頭脳」であり、その母親が「心臓」であるならば、この計画を物理的に支える「手足」となった、第三の亡霊が。

 それは、絶望の中に差し込んだ、一条の光だった。陽菜や、その母親の心をこじ開けるのは不可能に近い。だが、この「X」は、物理的に行動している。ならば、必ずどこかに痕跡を残すはずだ。


 未央の、第二段階の捜査が始まった。ターゲットは、ただ一人。『X』の特定。

 彼女は、再びジャーナリストの仮面を被った。だが、取材対象は、現在の事件ではない。今から二十年以上前の、画壇の世界だ。


 インターネットの海を、深く、深く潜っていく。古い美術雑誌のアーカイブ。個人のアートブログ。閉鎖されたギャラリーのホームページの残骸。そのすべてを、魚の骨から身をせせるように、丁寧に、しらみつぶしに調べていく。


 キーワードは、『橘美咲』。そして、彼女が心を病むきっかけとなった、あのコンクール。

 数日間の、寝食も忘れるほどの調査の末、未央は、一つの名前に行き当たった。

 それは、ある美術評論家が、二十年前に綴っていたブログ記事の、本当に些細な一節だった。


『……鬼才、橘美咲の隣には、常に、もう一人の才媛がいた。彼女の親友であり、最大のライバルでもあった、綾波玲子あやなみれいこ。彼女もまた、橘が筆を折ったのと、ほぼ時を同じくして、表舞台から姿を消した。二人の天才の喪失は、当時の画壇にとって、大きな損失であった……』


 綾波玲子。

 その名前で検索をかけても、ほとんど何も出てこない。まるで、初めから存在しなかったかのように、その痕跡は消されていた。


 だが、未央は諦めなかった。SNSの隅々まで、同姓同名のアカウントを調べ、タグ付けされた写真の一枚一枚を、執念で確認していく。


 そして、見つけた。

 数年前に、都内の小さなギャラリーで行われた、無名の作家たちのグループ展。その集合写真の、隅の方に、ひっそりと写り込んでいる、一人の女性。鮮明な画像ではない。

 だが、その物静かで、どこか影のある佇まいは、未央が療養施設で会った橘美咲の面影と、奇妙なほどに重なって見えた。年齢は、同じくらいだろうか。


 これだ。この人が、『X』の最有力候補。

 だが、どうやって、彼女を炙り出す?



 ◇



「……で、君は、橘陽菜の母親に、共犯者の疑いがあると?」


 警察署の取調室で、溝口は、深く、長い煙を吐き出した。

 未央は、ついに、警察との接触に踏み切っていた。ただし、彼女は自分の推理のすべてを話したわけではない。『X』の存在は、まだ伏せてある。それは、警察を動かすための、そして、陽菜たちにこちらの動きを悟らせないための、計算ずくの行動だった。


「母親…橘美咲には、鉄壁のアリバイがある。それは、我々も確認済みだ」


「そのアリバイこそが、トリックだとしたら?」


 未央は、一歩も引かなかった。


「療養施設という、閉鎖された空間。外部の人間が、簡単に出入りできない場所。それは、完璧なアリバイ作りのための、最高の舞台装置になります」


 溝口は、何も言わずに、未央の目を、じっと見つめていた。この少女は、変わった。以前の、ただ怯えていた少女ではない。危険な真実に近づき、その毒に、自らもまた、少しずつ侵され始めている。


「……わかった、もう一度調べてみよう。結果が判れば、連絡させてもらうよ」



 ◇



 未央の、本当の罠は、ここからだった。

 警察を、陽菜の母親のアリバイ調査へと誘導する。陽菜たちの意識を、そちらに集中させる。

 その裏で、自分は、真のターゲットである『X』を、罠にかける。


 未央は、公衆電話から、神保町のあの画材店へと電話をかけた。声を変え、匿名の美術関係者を装う。


「……ええ、実は、最近、警察が、一部の画材の不正流通について、内偵を進めているという情報がありましてね。特に、御宅で扱われているような、高価な輸入品は、ターゲットになりやすいとか。念のため、お伝えしておこうかと……」


 店主の、動揺する声が、受話器の向こうから聞こえてくる。個人経営の小さな店だ。警察沙汰など、何としても避けたいはずだ。

 この一本の電話で、陽菜たちの、安全だったはずの「補給路」は、断たれる。あるいは、少なくとも、機能不全に陥る。


 画材が、手に入らない。それは、芸術家にとって、死活問題だ。

 必ず、動く。陽菜か、あるいは、『X』が。

 賭けに出るなら、今しかない。




 数日間、彼女は、神保町の古書店街が見渡せる、向かいの喫茶店の窓際席を、陣取り続けた。


 そして、運命の日。

 雨が、アスファルトを黒く濡らす、午後のことだった。


 店の前に、一台のタクシーが停まった。

 降りてきたのは、一人の女。黒い傘を差し、うつむき加減に歩いている。あの、集合写真で見た女。綾波玲子に、間違いない。


 彼女は、店の前で、しばらく躊躇うように立ち尽くしていた。そして、意を決したように店の中へ入っていく。


 数分後。彼女は、明らかに狼狽した様子で、店から飛び出してきた。その手には、画材はなかった。

 未央の仮説が、確信に変わった瞬間であった。


 玲子は、濡れた歩道の上で、苛立たしげにスマートフォンを取り出し、誰かに電話をかけ始めた。

 未央は、バッグに忍ばせていた、高性能の集音マイクを起動した。喫茶店の窓ガラス越しでは、クリアに音声を拾えるかは、五分五分だ。

 ノイズ混じりの音声が、イヤホンから聞こえてくる。


「……私よ。……ええ、ダメだった。店主が、急に、警察がどうのって……」


「わからないわよ! でも、誰かが、嗅ぎつけたのかもしれないわ!」


「美咲ちゃんには、まだ言わないで。あの子を、不安にさせたくないの」


「とにかく、別のルートを探すしかない。陽菜ちゃん、あなた、次の作品の構想に、もう入っているんでしょ。早くしないと……」


 ――次の、作品。

 その言葉を聞いた瞬間、未央の全身から、血の気が引いた。


 罠は、成功した。だが、それは、新たな殺人の、カウントダウンを開始させる、号砲でもあったのだ。

 自分の行動が、陽菜の創作意欲を、さらに刺激してしまったのかもしれない。


 未央は、雨に濡れる雑踏の中、呆然と立ち尽くすしかなかった。

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