第八話:共犯者、墜つ

 その夜、広瀬未央は眠れなかった。

 部屋の電気もつけず、ベッドの上で膝を抱え、ただ一点を見つめている。机の上には、小さなボイスレコーダー。あの日以来、何度も、何度も、繰り返し再生した悪夢の音源。


『余計なことまで、知っていたんだね』


 親友の、冷たい声。

 短い悲鳴。

 そして、沈黙。


 この数日間、未央の頭の中では天秤が揺れ動き続けていた。

 片方には「正義」。警察に証拠を提出し、これ以上の被害者が出るのを防ぐべきだという市民としての義務。ジャーナリストを目指す者としての矜持。

 そして、もう片方には「友情」。いや、もはや友情などという綺麗な言葉では言い表せない、腐りかけた絆と、親友を売り渡すことへの罪悪感。そして、何よりも――恐怖。


 もし、この証拠を突きつけたら、陽菜は自分に何をするだろう?

 答えは出なかった。

 ただ、一つだけ確信していることがあった。このままではいけない。自分が動かなければ、すべては陽菜の描く脚本通りに進んでしまう。


 未央は、震える手でスマホを掴んだ。陽菜に「大事な話がある」とだけ、短いメッセージを送る。夜が明けたら、すべてを終わらせる、と心に誓って。



 ◇



 翌日の放課後。吹き抜ける風が少し肌寒い、学校の屋上。

 金網の向こうに広がる灰色の街並みを背景に、陽菜と未央は向き合っていた。


「大事な話って、なに?」


 陽菜は、少し心配そうな、しかし完璧に無垢な表情で小首を傾げた。あの日以来、彼女は「真犯人に襲われたショックから立ち直れない、痛々しい被害者」を演じ続け、周囲の同情を一身に集めていた。


 未央は、込み上げてくる吐き気を抑えながら、探りを入れた。


「旧美術棟でのこと……本当に、あれで全部? 犯人の顔、本当に見てないの?」


「未央……?」


 陽菜の瞳が、悲しげに揺らぐ。


「どうしてそんなこと聞くの? 私のこと、まだ疑ってる……?」


 その潤んだ瞳は、あまりに巧みで、もしあの音声を聞いていなければ、未央は再び彼女を信じ、抱きしめてしまっただろう。だが、もう騙されない。


「犯人は、男じゃなかったんじゃない?」


 未央は、一歩踏み込んだ。


「陽菜くらいの、小柄な誰かだったんじゃないの?」


「……ひどい」


 陽菜の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「未央だけは、私のこと信じてくれてるって思ったのに……!」


 その完璧な被害者の姿に、未央の中で何かがプツリと切れた。

 もう、茶番は終わりだ。



「嘘だよ、陽菜」


 未央は、凍えるような声で言った。

 そして、ポケットからボイスレコーダーを取り出す。ためらいなく、再生ボタンを押した。


 屋上の空に、あの夜の音声が響き渡る。

 高村沙織の最後の言葉。

 陽菜の冷たい囁き。

 短い悲鳴。


 音声が終わると、嘘のような沈黙が落ちた。

 陽菜は、ゆっくりと顔の涙を手の甲で拭った。そして、俯いていた顔を上げた時――そこに、悲劇のヒロインの姿は、もうなかった。


 仮面が、剥がれ落ちていた。

 陽菜は、静かに、しかしはっきりと、笑った。

 それは、未央が今まで一度も見たことのない、すべてを見透かしたような、冷酷で、そしてぞっとするほど美しい笑みだった。


「……見つけちゃったんだ。私の、たった一つのノイズ」


 その変貌ぶりに、未央は言葉を失った。目の前にいるのは、自分の知っている橘陽菜ではない。まったく別の、見知らぬ誰かだった。


「どうして……」


「どうして、かなんて。芸術に必要なのは、理由じゃなくてインスピレーションだよ」


 陽菜は、まるで哲学者のように呟くと、未央に視線を定めた。


「それで、どうするの? 未央。その、傑作なノイズを警察にでも持って行く?」


 陽菜は、楽しんでいた。この状況を、心から。


「でも、残念だったね。あの時、あなたは私と一緒に現場から逃げた。立派な犯人隠避。りっぱな、共犯者だよ?」


「そんな……私は、あなたに騙されて……!」


「警察は、そう見てくれるかな?」


 陽菜は、絶望に顔を歪める未央に、ゆっくりと一歩近づいた。そして、逃げ惑う親友の耳元で、悪魔のように優しく、甘く、囁いた。


「私たち、本当の〝共犯者〟になっちゃったね、未央」


 その言葉は、未央の心を完全に打ち砕いた。

 正義も、友情も、未来も、すべてが陽菜によって黒く塗りつぶされていく。

 もう、逃げ場はない。

 親友を信じた心優しい少女は、今この瞬間、殺人鬼の共犯者に堕ちたのだった。

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