⑥ SIDE: 品川

「品川先生、起きてください」

 まだ覚醒しない脳内に、誰かの声が響いた。

「う〜ん、高橋さん……」

 どうしたの?とか、もう少し寝てもいいんじゃない?とか言おうとしつつ、ゆっくり目を開けると、目の前にいたのは高橋さんではなかった。

「ゲッ」

「ゲッとはなんですが、失礼ですね」

 そこには岡本先生が立っていた。

 弱い日の光が小窓から差している。壁の時計を見あげると朝4時だ。僕は体育館の壁を背に眠りについていた。きっと精神的に参っていて、あんな夢をみてしまったのだろう。

 見渡すと、街の人はみんなまだ眠っていた。暑さのせいか、唸る声がちらほらと聞こえる。

「……目覚めてよかった。怪物が再出現しました。品川先生だけでも早く逃げなさい」

 岡本先生は冷淡な表情で、そう言った。僕は意味がわからなかった。

「僕だけでもって、どういう意味ですか」

「そのままの意味よ。私は、ここに残るけど、あなたは去った方がいい」

 岡本先生は、僕が岡本先生や児童、街の人を置いて逃げるような教師だと思っているのだろうか。だとしたら結構悲しい。

「何言ってるんですか。早く皆さんを起こして避難しましょう」

 僕がそう言うと、先生は申し訳なさそうに返した。

「それが、起きないのよ」

「えっ」


 話によると、どんなに大きな音を立てて体を揺らしても、僕を除くここにいる全員、誰も目覚めなかったらしい。

 朝早い時間だとは言え、そんなことが有り得るのだろうかと、半信半疑だった。僕も、横になっている街の住民の肩を揺らし、「起きてください!」と声を掛ける。それでも一向に、彼らは眠りから覚めない。一応、呼吸はしている。なんとなく瞼を上に持ち上げてみると、白目だった。どうやら、本当にぐっすり寝ているみたいだ。

 窓から覗くと、確かに昨日の怪物は向こうの山の上でのびていた。移動しようも思えば、すぐにこちらにこれる距離感だろう。眠ったままの人々を守るには、どうしたらいいのだろうか。


「これは、あの怪物のせいだと思う」

 僕は、岡本先生が作ってくれたカップラーメンを受け取った。先生は、僕に何が起きたのか説明を始めた。

「化け物の鳴き声を聞いたの。そしたら、周りの先生方も一斉に床に倒れ込んでしまった……」

 冷や汗が僕の首筋を伝った。シャツの襟で汗を拭く。

「つまり、怪物の声を聞くと催眠にかかるという訳ですね」

 先程、僕はそれを聞いて眠っていたのかもしれない。寝ても起きても悪夢だなんて、変な話だ。

「おそらくね。この催眠が、どこまで拡がっているのか分からないけれど、かなり広範囲に効いているみたい。行政との連絡も取れていないの」

 流石は岡本先生だ、多くの人間が眠りにつくなか、彼女だけは耐え抜いたということか。

 先生はこんな状況でも冷静で、決して感情に流されない。僕なんかとは違う。僕は平然を装っているが、内心では派手に取り乱していた。

「私はなぜか眠りにつかなかったけれど、次もそうとは限らない。依然として、怪物は向こうの街に居座っている」

 僕は固唾を飲んで聞いていた。

「私たちが、根源を絶たなければいけないのよ。さもなくば、私たちもこの街も終わり」

 僕は何が何だかという感じで、整理がついていないところもあった。しかし、自分の意識があるうちにできることをしたいという気持ちはある。初めっから、岡本先生について行く覚悟はできている。

「麺が伸びてしまいましたね。作戦会議しますから、早く食べてしまいましょう」

 腹が減っては戦はできませんもんね、僕がそう言うと、岡本先生は満足気に頷いて、両手を合わせた。


 残したスープを流しに捨てていると、窓から怪物が見えた。さっきまで少しも動かずじっとしていたアイツが、少しこちらに近づいてきているような気がした。あまり、悠長にしている時間は無いかもしれない。


 腹ごしらえが終わり、職員会議が始まる。

 僕は言った。

「半透明で、出没を繰り返すなら、まず実体はなさそうですね。幽霊のようなものと仮定して退治方法を考えるのがいいかもしれません」

「なるほど、幽霊退治か。キリスト教系の文献だと、聖書の朗読や十字架が度々登場するね……ここは日本だから、もしかしたら塩や御札が効くかも」

 彼女は国語の先生だ。色んな本を読んでいる。この辺の民俗学は、彼女の方が詳しいだろう。

 僕も頭を捻って案を出そうとする。日が昇っているのに消えていないから、光は効かなそうだ。銀の弾丸は、国家公務員には準備するのが難しいし、実体のない存在に通じるのかも怪しい。

「あとは……鏡とか、呪文ですかね」

「方法はこんなもんかしら。できるだけ準備しましょう」

 僕たちは手分けして校内にある使えそうなものを探した。


 1時間ほど経って、僕たちは学校のピロティにいた。

「こんなものが効くか分からないけど……」

 岡本先生は何冊か、幽霊に関するオカルトチックな本を持ってきた。色んな呪文が書いてあるらしい。聖書は、本校の図書館には置いていなかった。

 僕も、裏口に置いてあった銀製のトロフィーと、忘れ物として職員室に保管していた手鏡、調理室の塩を持ってきた。

 用意できるものをできるだけ揃え、リュックやズボンのポケット詰め込んだ。


 校舎の屋上に登る。視界が開けて眺めが良かった。今日も晴天だ。確かに化け物は、じわりじわりとこちらに近づいているようだった。粘度の高い液体が坂を下っているみたいだ。

 こちらの準備もできている。

 それでも、拭いても拭いても汗が出て、額は乾くことを知らなかった。

 その時、キーーーーンという高音が両耳を貫いた。頭に激痛が走り、視界が端から徐々に暗くなっていく。やがて、瞼が空いているのか閉じているのか分からないくらい、視界が真っ暗になって、意識が飛びそうになって、よろけた。

 地面に両手をつく。耳鳴りはまだ止まらない。岡本先生が、心配した顔でこちらを見ている。何か言っているようだが、くぐもってよく聞こえない。

 突然、世界に影が落ちた。気づけば、怪物は学校の傍ら、岡本先生の真後ろに移動していた。怪物はその白い顔に張り付いた口を大きく開けた。小さな歯が口内にギッシリと生えている。喉の奥で、水色の光の玉が煌々と輝いている。

「品川君!!」

 僕は、岡本先生に塔屋とうやの中へと突き飛ばされた。先生が、怪物に向かって何かの呪文を叫んでいる。ラテン語だ、僕には分からない。

 ドアがゆっくりと閉まって、ガチャリと音を立てる。それと同時に、耳が引き裂けるような爆音がしたとき、やっと僕の意識は覚醒した。

「先生!!!」

 震える腕でノブをつかみ、ドアを開けた。


 焦げ臭い匂いがした。

 岡本先生は、そこにはもういなかった。落ちていたのは、黒い灰と、割れた鏡だけだった。僕が開けたドアも、外側が真っ黒になっていた。化け物が、口からビームでも撃ったのかもしれない。

 いなくなってほしかったほうは、未だそこに堂々と居た。こうしてみると、学校の何十倍もの大きさがある。

 よく見ると、もうヤツは半透明ではなく、純粋な黒色をしていた。ツヤもなく、まるで夜が僕を迎えに来たようだ。きっと、岡本先生が叫んだ呪文は、コイツを実体化するものだったのだろう。

 怪物は、ジリジリと校舎を飲み込みながら、こちらに近づいてくる。


 ……岡本先生が、あの岡本先生が死んだ?

 消し炭になってしまった?

 誰よりも冷静で、強くて、優しい

 僕の憧れの恩師が、

 こんなに、こんなにもあっけなく?

 僕は、岡本先生みたいになりたった。そのために、教師になったのに。やりたいこと、なりたいもの、何一つなかった僕の、唯一の指標が彼女だった。いつか一人前になって、背中を追いかけてばかりじゃなくて、隣に立てるようになりたかった。ただ、それだけだったのに。


 リュックから銀製のトロフィーを取り出し、実体化した化け物に向かって全力で投げつけた。

 トロフィーは、化け物にぶつかり、コンクリートの床にゴトリと音を当てて落ちた。

 ポケットから塩を握って撒き散らす。それは、怪物の黒の中に、簡単に飲み込まれていってしまった。

 ヤツは僕の攻撃をものともせず、じわじわと近づいてくる。地面に落ちる影がどんどん濃くなり、輪郭がはっきりしてくる。


 自分のはやる鼓動が、胸を突き刺し、呼吸が首をキツく絞めた。

 逃げ出そうとして足を動かすのに、酸欠のせいで転んでしまった。腰が抜けて立つことができない。後ずさりしながら、僕は声を絞り出した。

「もう、何も奪わないでくれ!」

 すると、今まで甲高い声しか出さなかった怪物が、突如こちらをじっと見つめて言い放った。その声が、脳の奥に焼きついた。

おごるな。何も、お前のものじゃない」




 ――「先生、品川先生!起きてください!」

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