終幕
大粒の雪華がひらりと空から舞い降りた。冷たく澄みきった空気は、身も心も凍えさせる雪女の吐息のようだ。
夏月はてのひらに息を吐きかけた。吐いた息はすぐに白く凍えて、宙に留まってからふっと消える。
目の前に聳えるコンクリートの檻は、隔絶された孤独と罪の重さを湛えていた。陰鬱な気分に足が止まりそうになるけれど、義務感に駆られて夏月は歩を進めた。
刑務所に来るのははじめてだ。ドラマやアニメなど創作の世界の中では見たことがあるけど、いざ本物を目の前にすると、威圧感で嫌な緊張が走る。
ごくりと喉を鳴らし、朔耶に教えてもらった通りに面会の許可を得る。
凛とした女性刑務官に案内され、椅子と机しかない無機質な面会室に通された。
アクリル板越しに陽花が姿を見せる。
陽花の刑が決定したのは二週間前。奈々、横尾、まりえ、由貴子の四人の同級生を殺して、愛に傷を負わせた陽花に下された判決は懲役十八年。刑務所を出る頃には陽花は三十五歳となっている。
夏月にとって十八年は途方もなく長いけれど、遺族にとってはきっと短いと感じただろう。死刑や無期懲役を求める声もあった。
だが、陽花は殺人事件の犯人として自首しており、年齢もまだ十七歳、そしていじめによって最愛の妹を失くした怨恨が動機であったこと、反省した態度、心神喪失状態に近かったこともあり、刑期は十八年となった。
刑務所に入った陽花に夏月が会いに来るのはこれがはじめてだ。
「こんにちは、陽花さん。元気かな? ううん、元気かどうかなんて聞くのは変だよね。ごめんなさい」
少しでも明るく話そうとする夏月に、陽花は硬い表情を向けた。
「何の用?」
「ただ会いたかったじゃだめかな」
「人の行動理由にケチをつける気はない。と言いたいところだけど、あなたは月葉の親友であって、あたしにとっては友人でさえない。違う?」
能面のような表情で問いかける陽花に、申し訳ない気持ちが込み上げる。
刑務所で許される面会はどんな受刑者でも最低月に二回で、多ければ七回以上の面会が許されている。また、一回の面会で三十分の面会時間は保障されている。
面会できるのは基本的に親族、それ以外だと会社の関係者で業務上面会の必要がある人や弁護士、受刑者の社会復帰のために面会が必要な人だけで、恋人や友達は刑事施設長の許可がないと会えない。
だけど陽花はまだ学生であり、人間関係の基盤は学校にあるという理由で、友達や恋人の面会の許可が下りたそうだ。
真っ先に会いに行ったのは朔耶だ。朔耶のことを案じて薫も同行した。
面会日は平日の午前九時から十六時と授業がある時間のみで、朔耶は午後からの授業を欠席してまで陽花の顔を見に行った。
薫曰く、朔耶との面会で陽花は少し元気になったそうだ。
「陽花ちゃんに話があるのなら、会いに行くといいよ。きっと彼女は相手が誰でも会ってくれるだろう」
薫の言葉を信じ、夏月は学校を休んで今日この場にやってきた。
だけど、月に数回しかない面会の機会の一つを奪ってしまったことをいまさら申し訳なく思う。夏月は月葉に生き写しの陽花に会いたかった。でも、陽花は大切な人を奪う原因を作った蝙蝠女になんて、会いたくなかったのではないだろうか。
「そうだよね。わたしと陽花さんは友達じゃないよね。それなのに、面会の機会を一つ使って無駄にしちゃったよね。ごめんなさい」
「それは平気。両親はあたしとの面会の機会を放棄。父と母は離婚していて、祖父母や親戚とも疎遠で、わざわざ殺人犯と面会なんてしたくない。血縁関係の人間は誰もあたしに会いに来ないから大丈夫。懲役十八年なんて中途半端な判決が下って、お父さんもお母さんも困惑している。殺人罪を犯した娘なんて、死刑か無期懲役になって一生塀の外に出てこなければいいって、そう思っている」
平然と淋しいことを言ってのけた陽花に、胸がずきんと疼いた。
夏月にとって月葉がそうであったように、陽花にとっても、月葉は唯一の理解者だったのだろう。
「わたし、今日は、陽花さんに謝りたくて来たの」
「懺悔ってことね。べつに、必要ないけど」
「そうだね、謝罪したところでなんの慰めにもならないよね。でも言わせて欲しいの。わたし、心の底から月葉が大事だったの。すごく大切だったから、わたしだけの友達でいて欲しかった。愛ちゃんと仲良くなって、高杉さんとも歌で通じ合って、月葉がどんどん離れて行ってしまうのが怖かったの―…」
「だから、月葉があなた以外の人間に嫌われるように仕向けた」
陽花の言葉に夏月は重く頷いた。
「志穂から聞いた。辻井夏月はフレミーだってね」
「返す言葉もないよ。わたしは自分が毒にも薬にもならない、存在感の薄い凡庸で安全な人間だってことを利用して、月葉と陰で吐いていた毒を他人に流した。ちょっと斜に構えていて、人間嫌いな月葉の一面を、悪意をもってクラスの女子に広めたの」
夏月は語りながら、これまでの自分の行いを思い出していた。
「じつは月葉がね、愛ちゃんってぶりっ子なところがあって、時々イラッとするって言ってたの」
「奈々ちゃんが我儘で疲れるって月葉が言ってたよ」
愛や奈々に、自分と月葉だけの憂さ晴らしのための悪口の言い合いを、わざとばらしたのだ。
自分が愛や奈々に嫌われないための防御の意味と、それ以上に、月葉が自分以外の人間と深い絆を結ばないための予防線の意味があった。
自分を守るため、月葉を縛っておくために吐いた糸が、自分の首を絞めていた。
喋りながら夏月は泣いていた。嗚咽混じりの聞き辛い言葉に、陽花は黙って耳を傾けていた。
その時、彼女がどんな気持ちだったのか夏月にはわからない。
もしかすると、言い訳がましく聞こえて不快だったのかもしれない。それでも、陽花は黙って話を聞いてくれていた。
「わたしには月葉だけだった。お母さんはわたしを勉強という尺度でしか見ていない。お父さんは単身赴任でわたしのことなんて忘れている。他のクラスメイトは、わたしのことを背景の一部ぐらいにしか思っていない。だけど、月葉だけはずっとわたしの傍にいてくれた。月同盟だねって、笑ってくれた。本当に、わたしは月葉が大好きだったの。大切だったんだよ」
「そう、わかった。謝罪はもう十分でしょ」
素っ気なく言う陽花に首を振る。
「謝罪の為だけにきたんじゃないの。もう少し、話してもいいかな?」
「どうぞご勝手に」
「わたし、M市の駅前の森の沼から発見された身元不明の遺体が月葉だとわかって、ああ、月葉は本当にもうこの世からいなくなっちゃったんだって哀しかったの。だけど、少しだけよかったと安心もしたんだよ」
「どうして、安心するの。意味が分からない」
「沼の底で一生誰にも発見されないままなんて、月葉が可哀想だから。ちゃんと供養してもらって、お墓も建ててもらったからほっとしたの。月葉は今はもう苦しみを忘れて、ゆっくり休んでいると思うよ。陽花さん。ちゃんと、刑に服してね。死のうなんて、思わないで」
ぴくりと陽花の眉が動いた。
「あたしが死んでも、悲しむ人間はいない」
寒々しいほど冷ややかな声は何の感情も孕んでいない。氷の女王の声のようだ。
心が凍えそうになるのを堪えて、夏月はゆっくりと首を横に振る。
「いるよ。高杉さんは陽花さんをずっと気にしてる。きっとあなたが死んでしまったらすごく悲しむと思うよ」
そっと陽花が瞳を伏せた。
なんとなく気付いていた。陽花は朔耶が好きなのだろう。それが親愛か恋慕かはわからないけど、陽花にとってそれはきっと救いになる。
夏月は陽花の硬い氷の心が揺らいだのを感じた。すこしでも彼女の凍てついた心が融けるように、柔らかな声で言葉を続ける。
「それに月葉が悲しむよ。それに、勝手なことを言うとわたしも悲しいよ。陽花さんは月葉にとって一番大切な人だから。だから、ちゃんと月葉のぶんまで生きてね。罪を償って、苦しいかもしれないけど前を見て歩いて、いつか幸せになって欲しいの。そして、月葉に『いろいろあったけど、今は幸せだから安心してね』って報告してあげて欲しいの」
夏月の言葉に対して、陽花はウンともスンとも答えなかった。ただ、静かな顔でじっとこちらを見ている。
「蝙蝠女のくせに、偉そうなこと言ってごめんなさい……」
本当に何様のつもりなんだろう。夏月は首を垂れた。
「ありがとう、夏月」
耳を疑った。
項垂れた顔を勢いよくあげると、ほんの少し陽花が口元を弛めていた。
たった数ミリ唇の端があがっただけの微笑なのに、心が温かくなる。
いつか、彼女が心から笑える日が来たら、きっと月葉にそっくりのあの顔に太陽みたいな明るく輝いた笑顔が浮かぶのだろう。
そんな日が来たらいいと、心から願う。
「またくるね、陽花さん」
返事はなかったが、もう以前みたいに相手の反応は気にならなかった。わたしが会いに来たいから来る。それでいいと思えるようになった。
夏月は手を振って、陽花に背中を向けた。
刑務所の外に出ると、温かな日差しが降り注いでいた。陰気な雰囲気の漂う建物を離れて、長閑な道を歩く。
月葉を闇に堕としたわたしの罪は消えない。だけど、少しでも償おう。
夏月はまっすぐ前を見て歩いた。青く澄んだ空には、月のような白い太陽が輝いていた。
さとこサマ 都貴 @tuki001
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