第六章 裁きの日(幕間②)
あたしはあたしと決別した。二度と、あたしが昔に戻ることはないだろう。
佐々木陽花(ささきようか)はスマホをベッドの上に放りだし、天井を見上げた。
さっき見たニュースが頭にこびり付いて離れない。
M市の住宅街の一部にひっそりと生い茂る森の奥の沼から、身元不明の死体が発見された。現在、警察が死体の身元を捜査中。なお、死体は損傷が激しく年齢も性別も不明で、身元の照合には時間がかかると予想される。
見つかってしまった、もうあまり時間はなさそうだ。
ベッドから緩慢な動作で起き上がると、陽花はそっと鏡を覗き込む。
長かった髪をばっさりと切り落とし、ショートヘアにしてから数カ月。すっかりこの髪型がお気に入りとなった。
陽花は鏡台の引き出しにしまってある集合写真をとり出した。そこに自分の姿は映っていない。
集合写真の下には、星園高校に入学した時にもらった学校の案内図や部活紹介、そして進学クラスである一組の生徒全員の顔写真とプロフィールが載った冊子が入っている。陽花は冊子を取りだし、プロフィールのページを開いた。
まりえ、奈々、横尾の写真には赤いマジックでバツ印、志穂には三角印がしてある。
やっと半分、残るは三人か。陽花は溜息を吐いた。
今、最後の一人を誰にするかで迷っている。場合によっては、犠牲者が増える可能性もある。
冊子を閉じて引き出しに戻した。その時、ノックもなく部屋の扉があいた。
「月葉、夕飯できたわよ。さっさと降りてきなさい」
「ちょっと、お母さん。前も言ったけど、勝手にドアを開けないで」
「親子なんだからいいじゃないの」
「娘にもプライバシーはあるから」
「なにがプライバシーよ。バカ言ってないでさっさと食べなさいよ」
言いたいことだけ言うと、母はドスンドスンと足音を立てて一階に下りていく。登ってくる時は静かだったのが悪意に思えてしょうがない。
陽花は不機嫌な顔で階段を降りた。狭いダイニングにあるちっぽけなテーブルには今日の夕食のカレーがよそってある。また一品料理かと、溜息が漏れた。ちなみに一昨日はシチュー、昨日はおでんだった。
母は既にテレビの真ん前の席に陣取り、馬鹿面でテレビを見ながらカレーを食べている。時折テレビに向かってしゃべりかける姿に苛立ちが募る。
「いただきます」
陽花はスプーンを手に取り、カレーを口に運んだ。母好みの辛いカレーに溜息が出た。
早くもカレーを食べ終えた母は、大袋のスナック菓子を開けて食べはじめる。
喧しいテレビの音。まるでお互いが見えていないかのように会話のない空間。元居た静寂に支配されたがらんどうの家よりもマシなのかもしれないが、これはこれでなかなか苦痛だ。
母の暢気な馬鹿笑いを聞いていると、腹の底が沸々と煮え滾ったように熱くなる。
さっさと食べて部屋に戻ろう。
陽花が食べることに集中していると、母が急にこちらに顔を向けた。
「月葉、アンタ、勉強はちゃんとしているんでしょうね?」。
「べつに、普通にやってる」
「普通にしてるだけじゃだめじゃないの、がんばんなさいよ! まさか、あんたまた歌手だか声優だかになりたいとか、言い出すんじゃないでしょうね?」
「さあね。なりたいって言ったら?」
「バカ言ってんじゃないわよ。そんな職業、一握りの才能ある人間しかできないのよ!」
金切り声で叫ぶ母にムカつきが込み上げる。
昔、月葉が恨み言を吐き出していたことを思い出した。
月葉は「お母さんは、勉強以外は大学に入ってからできるって、勉強勉強って煩いんだよね。それ以外では全否定で、嫌になる」と、よくぼやいていた。
月葉の歌は上手のレベルを超えていると陽花は思っている。頑張れば月葉の夢は叶っていたかもしれない。やらせてあげればよかったのに。そう思うと悔しくて、つい母に反論してしまう。
「やってみないと、才能があるかないかなんてわからないと思わない?」
「アンタにそんな特別な才能なんてあるわけないでしょう。ちょっと歌が上手いって褒められたからって、いい気になってると痛い目に遭うわよ! 勉強せずに歌手や声優なんて目指して、なれなかったらどうするのよ、取り返しがつかなくて、将来一生アルバイトでお金に苦労するのはアンタなのよ!」
ああ、反論しなきゃよかった。陽花は肩を竦める。
キイキイと猿のように喚く母の声なんて聞こえない。母はいま日本語を喋っていないから聞く必要もない。陽花は黙々とカレーを口に運ぶ。
「わかったの、月葉!」
「はいはい、わかりました」
「なによ、その態度。ほんと、かわいくないコね。もういいわよ、アンタにかわいげなんて求めないわよ。それより、いい大学を卒業して、いい企業に就職するか公務員にでもなって、はやくアタシに楽させてよ」
子供を育てるのは、自分の老後を安泰にするため?
そう問い返したくなるのを堪えて、陽花は適当に頷いた。
「善処する」
やんわりとノーを示す日本語だ。だけど、看護短大卒でおつむの足りていない母には解らない。母は満足そうな顏でスナックをばりぼりと貪っている。
「ごちそうさまでした」
母は家では挨拶なんていっさいしないが、陽花は基本的な挨拶は欠かさない。母へのささやかな反抗だ。
二階の部屋に戻ると、陽花は鏡を覗き込んだ。
「月葉。お母さん、あたしが月葉じゃないってぜんぜん気付かない。馬鹿だよね。それでも母親かって思わない?」
話しかけても、鏡の中に映る月葉は返事をしない。当然なのに、それがとても寂しくて苦しい。
「ねえ、なんか喋って。月葉」
わかっている、あたしの言葉に答えてくれる月葉はもういない。
くしゃりと髪の毛をかき混ぜ、頬に触れる。月葉はいる。ここにいる。あたしが立花月葉だ。かわりに、佐々木陽花がいなくなったのだ。
鍵付きの引き出しに触れた。オルゴールの箱のなかに潜む、螺鈿の小箱に隠した鍵を手に取る。ヒンヤリとした温度は、月葉の指先みたいでホッとする。月葉は冷え性で、指先が氷のように冷たかった。
小学校の時から変わっていない学習デスクの引き出しの鍵を開け、備え付けられた筆記用具トレイをずらし、何冊かのノートと便箋の下に隠した日記帳をとり出す。飴色のカバーに金色の蔦模様が入った日記帳には、沢山の秘密が眠っている。
十月十二日。
愛が「高杉と喋らないで」って注意してきた。誰と喋るかなんて、あたし自身が決めることなのに。愛はあたしと同じアニメやマンガにはまっていて、話していると新たな発見やいろんな見方があって楽しい。まあ、親友の夏月ほどじゃないけど。やっぱり一番は夏月だ。
だけど、愛の他者を攻撃して排除しようとする身勝手さは嫌い。由貴子や奈々に馬鹿にされたくないからって、オタクっぽいところを隠すとこは許せる。だけど、華やかな女子であろうとするために、オタクや地味な子を苛めるとこは嫌い。
十月二十八日。
愛がまた高杉と喋っていることに文句を言ってきた。
「高杉と、あいやユッキーのこと、悪く言ってるんでしょ? 知ってるんだからね」
愛はそう言っていたけど、被害妄想だ。
夏月とはたまにクラスメイトとの悪口で盛り上がることはあるけど、あたしと高杉とはそんな下らない話はしない。音楽の話とか、自分の生き方についてとか、そういう他の子とできない、ちょっと大人びた話をしているだけだ。
十一月十六日。
愛からの最後通達を無視して高杉と喋った。
高杉は頭の回転がすごく速くて、いろんな知識を持っていて、喋ると楽しい。普段は澄ましたような顔をしているけど、笑った顔は無邪気な子供みたい。
なんで愛が高杉をクラスから排除しようとしているか、あたしにはわからない。愛から絶交宣言されたけど、別にいい。
あたしには親友の夏月がついている。月同盟は永久。
夏月がついている、か。陽花は溜息を吐く。
月葉は騙されていた。最期までそれを知らなかった。
不意に哀しくなって、陽花は自分の字とよく似た角張った字から目を離す。
月葉の足跡を辿るのは懐かしかったり暖かかったりと、いいことばかりじゃない。時に胸に隙間風を吹かせて、凍えさせてしまう。
目が霞むのは疲れのせいだと自分に言い訳し、目頭を揉みほぐしてまた日記の文字に目を落とす。
二月九日。
ペンケースをゴミ箱に捨てられた。夏月と色違いのお揃いのペンケースだったのに。愛や由貴子の仕業だと思うけど、証拠がない。
きっと、誰かを手先にして捨てさせたんだ。卑怯な奴、許せない。
二月十四日。
トイレに行っている間に椅子を隠された。授業が始まっても、座る席がない。困って立っていたら、先生に「早く座りなさい」と叱られた。
高杉があたしの椅子がないことに気付いて「立花の椅子がない」と指摘してくれた。嬉しかった。でも少し情けない。ダサイって、みんなが笑っている気がする。
愛にお昼休み呼び出された。愛は「バレンタインの友チョコ、月葉にもあげるね」と笑ってコンビニのチョコレートショートケーキを手に近付いてきた。
嫌な予感がして警戒していると、まりえと志穂が両脇からあたしを捕まえた。近付いてくる愛が躓いて、愛の持っていたケーキがあたしの顔面にぶちまけられた。
「ごめんねぇ、転んじゃった。でも、高杉に助けてもらえばいいんじゃない」
愛はそう言って笑った。その時、教室に高杉はいなかった。
もしかして、愛は高杉があたしを助けたのが気に入らなくて、余計に酷い嫌がらせをしてきたんじゃないだろうか。
二月十七日。
愛が「明美の教科書やノートにデブって書いて。そうしたら、また仲良くしてあげるよ」と笑った。
免罪符を与えたつもりなんだろう、愛は悪魔だ。
夏月は愛に従ったほうがいいと心配してくれたけど、絶対にいや。あたしはあんな奴と同じ土俵に立ちたくない。
夏月が心配そうな顔をしてあたしを見ている。
ごめんね、心配させて。でもね、あたしは夏月が、親友がいてくれれば平気。それにあたしには遠く離れた場所にも理解者が一人いるから。
もう一人のあたし、陽花。夏月と陽花はぜったいあたしを裏切らない。月と太陽がついている、あたしは大丈夫。
二月、三月に渡って、月葉が受けてきたいじめについての記述が沢山ある。この辺りを読んでいると、陽花は悶絶しそうなほどの胸の痛みを感じ、大声で喚きたくなる。
唇を噛み、陽花はまたページを捲る。
四月六日。
学校一の、ううん、世界一の美男子の対馬君が話しかけてくれた。
冴えないあたしが、王子様と喋れるなんて夢みたい。新学期早々ついてる。愛からの嫌がらせで受けた傷がぜんぶ治ってしまうくらい幸せ。
対馬君があたしを可愛いって言ってくれる。視力が合わなくなって春休みに新調したばかりの赤いフレームの眼鏡を褒めてくれた。嬉しい。可愛いけど派手であたしには似合わないかなって不安だったけど、思い切って選んでよかった。
四月八日。
体育のマット運動の時危ないから、はしっこに置いといた眼鏡のフレームが歪んでいた。
誰かが踏みつけたみたい。愛、由貴子、奈々にはちゃんと注意を払っていたのに。
このクラスの女子は華の三人組のしもべだらけ。敵だらけなんだ。
壊れた眼鏡を手に呆然としていると、愛たちが近付いてきた。向こうもこっちの動向を見張っていたんだ。そうじゃなきゃ、こんなにすぐにやってこない。
「やだぁ、眼鏡壊れちゃってるぅ。月葉、可哀そう」
愛が心配そうに眉根を寄せてと憐れんでくる。
それだけならまだ許せる。でも、続きがある。
「だけどぉ、眼鏡変えたばかりだからまだ補償期間でしょ? よかったね。ついでに似合わない赤フレームじゃなくて、肌に近い色や銀系の地味なのに変えたらどうかなぁ」
「マジ、眼鏡だけ派手にしてどーすんの、地味キャラなのにさぁ」
「根暗ブスが色気づいているなんて、気味悪いのよ。ワタシも愛の意見に賛成だわ」
愛、由貴子、奈々があたしを笑い者にする。
近くにいた女子もあいつらに追従して嗤う。前に助けてあげたデブの明美まで、あたしを嘲笑う。
マットの連続技のテストをしていた高杉が騒ぎに気付いてとんできた。
「眼鏡大丈夫か? 誰だ、壊した奴。ちゃんと立花に謝れよ」
高杉が声を荒げて怒る。
でも、謝ってもらっても眼鏡は壊れたまま。あたしの心も傷付いたまま。高杉の怒りでさえ、あたしを馬鹿にしているみたいに思える。あたしの味方は夏月だけ。夏月の心配そうな視線と、追従して悪口を言わない態度だけが救い。
対馬君が褒めてくれた赤い眼鏡は、残念だけどさようなら。愛や他のクラスメイトに貶されて、もうあのフレームを選ぶ勇気はあたしにはない。
四月十五日。
今日も対馬君が話しかけてくれた。
ひょっとして、あたしのこと気に入ってくれているのかな。なんて、夢みたいなことを考える。愛達が怖い顔をしているけど気にしない。むしろ、ざまあみろ。
ずっと対馬君と喋っていたいけど、対馬君は暫くすると話を切り上げた。
「月葉ちゃんと僕が仲良くしているのを、朔耶は気に入らないみたいなんだ。朔耶を怒らせると怖いからこの辺にしておくよ」
残念そうに対馬君はあたしから離れていった。
前に対馬君のことをかっこいいと高杉に言った時に「顔はよくても中身は最低だぞ」と嫌な顔をされたのを覚えている。
あの時は、高杉は対馬君にしょっちゅうからかわれているから彼を嫌っているのだと思ったけど、違ったんだ。あいつ、対馬君が好きだから他の人に盗られないように予防線を張っていたんだ。
「月葉が対馬君が喋っていると、高杉さんがじっと見ていることがあるよ。嫉妬で嫌がらせとかされたしりない? 大丈夫?」
この前、夏月が最近そう心配してくれた。あの時は考えすぎだと思ったけど、夏月は正しかったんだ。
高杉、許せない。味方のふりをして敵だったんだ。そもそも、愛に嫌がらせされるきっかけを作ったのも高杉だ。
愛に逆らってまで高杉と喋ったりしなければよかった。高杉は傍にいれば助けてくれけど、高杉がいない時に嫌がらせされるから意味がない。最近では、助けられると惨めになるだけだ。
嫌われ者同士が傷を舐めあっている。クラスメイトはそんな目であたしと高杉を見ている。もう高杉に構われたくない。対馬君に態とツンツンして気を引こうとしているのも腹が立つ。高杉朔耶はあたしの敵だ。
五月十八日。
まりえと志穂に三人でカラオケに行こうと誘われた。
まりえと志穂は「酷いことをしてごめん、愛たちの命令で逆らえなかったの」と謝ってくれて、お詫びにとカラオケや飲食代金を奢ってくれると言う。
お小遣いが少ないから嬉しい。少し迷ったけど誘いに乗った。
夏月は愛に誘われて新しいケーキ屋に行った。
「ごめんね、本当は月葉と行きたいな」
夏月はそう謝ってくれたし、愛達の誘いを断ればいじめられるからしょうがないとわかっている。だけど、寂しい。だから、まりえと志穂の誘いが嬉しかった。
最近、孤独が身に沁みてきている。高杉は男子とつるんでいるからいいけど、あたしは本当の一人ぼっちだ。
いくら、心の底では心配してくれている夏月や。遠く離れた地でも心は繋がっている陽花という絶対の味方がいても、表向きは一人ぼっち。すごく、寂しい。
カラオケでは愛たちの悪口で盛り上がり、アニソンやドラマの主題歌、流行りのアイドルの曲を歌って踊って、おおいに盛り上がった。久しぶりにはしゃいだ。
五月十九日。
カラオケは罠だった。あたしは浅はかだった。
歌が上手いと褒められ、まりえや志穂がノリよくはっちゃけているのにつられて、アニソンを振りや台詞つきで歌っていたのを盗撮されていた。
悔しい。まりえが盗撮した動画を見て、愛たちと笑っている。
「動画、消してよ」
「だめだよ、面白いもん。動画投稿サイトに動画をアップしようかなぁ」
愛が動画をチラつかせてにやにやする。
将来声優か歌手になりたくて、歌にも声にも自信はある。だけど、あんな遊びでふざけて歌っているところを世間に晒されたら、恥ずかしくて表を歩けない。
「返して下さい」
そう懇願したあたしに愛が一つお願いごとをしてきた。
横尾に借りているマンガを、彼の家に返しに行って欲しいと頼んできた。今日返さなくてはいけないけど、横尾が学校をサボって返せなかったから、彼の家に届けてきて欲しいということだ。
自分で返しに行けばいいのに。そう思ったけど、愛がマンガを返しに行ってくれたら動画を消すと言うので、請け負うことにした。
愛はクラスの中心の男子であるノリがよくて明るい一之瀬やクール系イケメンの松島と仲が良く、一之瀬や松島と仲がいい横尾とも喋るけど、横尾は不良っぽくてちょっと苦手だそうだ。
横尾の家は立派な一軒家だった。
「立花、茶ぐらい飲んでいけよ」
玄関先で帰るつもりが、横尾に命令口調で言われて断れなかった。
両親ともに働いているようで、家はシンとしていた。広いリビングはがらんとしていて、あまり生活感がなく無機質だ。
静かな家に横尾と二人きりという状況に、怖くなってやっぱり帰ろうとした。
だけど、帰れなかった。横尾がギラついた目で床に押し倒してきた。
「男一人の家に上がり込んだオマエもワリィんだよ」
横尾は力で無理やりあたしを押さえつけ、乱暴をした。
そのことは、詳しく日記に書きたくない。でも、横尾の罪を残すためにも犯されたという事実だけは書き記しておく。硬い床の上で無理やり無様に足を開かされ、痛かった。初めては好きな男子と夢見ていたのに。対馬君がよかったのに。
気持ち悪い、死にたい。もしかして、愛はこうなることを狙っていたのだろうか。
まりえと志穂にカラオケに誘わせたところから仕組んでいて、横尾とも組んでいたのか。きっとそうだ。
世の中、敵だらけだ。あたしだけじゃ、生き残れない。傷つけられて、ボロボロになって、日に日に人間としての尊厳を失っていく。
五月二十七日。
横尾に脅された。
この前、強姦された時に動画を撮られていた。動画を広められたくなければ、金を寄越せという。
「十万円でいいぜ。それが嫌なら、十万円分またやらせろよ」
凶悪で卑しい横尾の笑顔が頭にこびりついている。
お母さんに相談しても無駄だった。お母さんは私が「学校でいじめられているから転校したい」と勇気を出して言ったら、鼻で嗤った。
「いじめぐらいどこにでもあるわよ。そんなことで優秀な進学校を辞めるなんてもったいないじゃない。先生になんとかしてもらいなさいよ」
「無理だよ、倉坂先生は見て見ぬふりだし」
「じゃあやり返しなさいよ!」
ああ、駄目だ。
小学校の頃、夏月が「いじめられるから学校を休みたい」と母親に言ったらスルーされたと話していたことを思い出した。
夏月とあたしはよく似ている。あたしは離婚してシングルマザーで、夏月は父親が長い間単身赴任で専業主婦の母親との二人暮らし。
あたしたちの母親は娘がいい大学を出て良い就職先に勤めることしか頭になく、交友関係も将来の夢もどうだっていい。娘などちゃんと見ていなくて、娘の成績にしか興味がない。
十万円なんて大金、あたしの家では用意できない。だからまた、横尾の玩具になるしかないんだ。
セックスさせる金額を一回二万円として五回寝る、新しい動画は絶対に撮影しない。五回きりでこの話は誰にもしない。横尾とそう約束を交わして、あたしはまた彼に体を暴かれた。もう、なにも感じない。自分が人形になっていく。
五月三十日。
学校では相変わらず一人ぼっちだ。
夏月は愛たちに盗られ、用事がない放課後や休みの日にたまに会えるだけ。陽花とは毎日のように電話で喋っているけど、家が遠くて簡単には会えない。
対馬君はあたしが穢れたのを察したのか、もう話しかけてくれなくなった。あたしから話しかける勇気はない。
灰色だ。灰色の雲があたしを飲み込んだ。光の当たらない場所にあたしはいる。
陽花は息が出来なくなって、月葉の日記をパタリと閉じた。
いつの間にか頬を濡らしていた涙を拭い、ぎゅっと手を握る。
あたしが月葉の傍にいられたら。両親が離婚さえしていなかったら、守ってあげられたのに。
陽花は机に突っ伏した。
体の奥からコンコンと沸きあがる憎悪。空の盟友、月を飲み込んだ森の奥の底なし沼が臓腑の底にできている。太陽を飲み込み、偽りの月を空に輝かせて、冷たく罪人を照らしている。
陽花は窓を開けて身を乗り出した。冴えた風が頬を撫でる。
息を吸い込むと、肺が凍えた。その冷たさが今はとても心地いい。
視線を上げると、半分に割れた月が浮かんでいた。冴えた銀色の光を放つ月はとても孤独だけど、強そうだ。
「お月様、残りの半分は何処に消えたんだろうね」
遥か天上の月に問いかける。返事はない。だけど、疑問の答えはあたしが知っている。
陽花は胸元をぎゅっと握りしめた。
大丈夫、ここにいる。そう自分に言い聞かせた。
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