第六章 裁きの日(夏月)

 月葉が戻らないまま、出発時間になった。夏月は深呼吸で乱れた鼓動を静めると、暗闇の世界にそっと足を踏み入れる。


 お化け屋敷の中に入ると、遠くに聞こえていたお経のBGMが一気に近くなった。

 暗闇の中、袈裟を纏った坊主が一心にお経を読み上げている場面が脳内に浮かんだ。読経を聴くと、夏月はいつも耳無芳一の物語を思い出して怖くなる。


 お化け屋敷のテーマは呪われた武家屋敷だ。

 テーマが純和風なのに案内役の愛が魔女っ娘のコスプレをしているのは、単なる彼女の趣味だ。同じ時間の受付担当の由貴子は、目尻と唇に紅いメイクを施し白い着物をまとった雪女だ。きっと二人はコスプレを楽しみたくてお化け屋敷を選んだのだろう。


 入り口からすぐの場所の壁には、新聞を飾り付けてある。

 新聞の内容は自分たちで考えて作った。

 この武家屋敷では大量殺戮が起き、その呪いで今でも近付く者に恐怖をもたらす。

そんな内容の新聞に始まり、屋敷を取り壊そうとした業者が首なし死体で見つかった、真夜中に屋敷の前の道を通った人が女の幽霊に憑りつかれて行方不明になった、枯れ井戸から死体が発見されたという、物騒なニュースが続いている。


 新聞を飾った壁は赤い手の痕にまみれている。薄暗い中で新聞と気味悪い手形だけが人感センサーの光で闇に浮かび、仕掛けを知っている夏月でもビクッとした。


「もう、悪趣味なんだから」


 真っ暗闇を進んでいくと、障子を立てた場所に差しかかった。

 本番では障子の向うに着物を着て長い鬘を被った生徒が待ち構え、人が来ると足元のライトを点灯して、闇に刃物を持った長い女の影が映るようになっている。さらに障子の一か所は密かに扉になっていて、そこから血糊塗れの手を突き出して来場者を驚かすという二段構えだ。


 今はもちろん誰もいない。だけど、今に障子の向こうで黄色いが灯り、鬼女が浮かび上がるのではないかと気が気じゃなかった。


 そこを越えると、今度は左右にいくつもの生首が落ちており、足元や壁は血塗れになっている。その通路奥には生徒の待機スペースがパーテーションと黒いカーテンで作ってあり、待機した生徒が左右の首に気を取られている来場者に向かって、ホラーマスクをドッジボールに被せたリアリティのある生首を転がして驚かせる仕掛けがある。

 この仕掛けも今は作動しない。だけど、カーテンの向こうに何かが潜んでいるような気がして怖かった。


 少し進むといったん外の場面になる。屋敷の庭をイメージした石ころや砂利を敷き詰めた通路で、天井からは柳の葉が無数に首を垂れている。数歩先の脇に段ボールで作った蓋のある井戸があるのが見えた。


 この井戸には、火を点けられて飛び込んで死んだ女中の幽霊が出る。

 焼死した女中の幽霊に憑りつかれると呪われた武家屋敷に連れ戻されて、永遠に屋敷を彷徨うことになるという、背景ストーリーが隠れている。


 本番では女中の幽霊に扮した生徒が隠れていて、来場者の足音が近付いたらベニヤ板の蓋を押し上げて井戸から飛び出す仕組みだ。

 顔の片側だけ醜く焼け爛れたメイクを施し、女中の霊を演じるのは小柄な朔耶だ。

配役は愛が推薦して決めた。朔耶はクラスで一番小さいから、隠れる井戸が小さくて済むという建前だったが、本音は焼け爛れた顔のメイクを嘲笑するつもりだったのだろう。


 しかし、愛の目論見は失敗した。


 ふだんは色素が薄くてハーフの美少年めいた朔耶が和装で化け物メイクを施すと、恐ろしくも麗しい和美人に早変わりしたのだ。

 あの時の愛の不貞腐れた顔を、夏月は今もよく覚えている。美人は何をしても美人と知り、屈辱に塗れた愛の顔に胸がすいた。


 文化祭当日はどの係も、九時から十一時半、十一時半から二時、二時から四時半と二時間半交代で三人が担当することになっている。

井戸の幽霊役は朔耶と男子で一番小さいがり勉の園田、そして月葉だ。

 朔耶と園田は愛が指名した。本当は二人だけで幽霊役をやるはずだったが、月葉が


「この部門だけ二人はかわいそうだよ」と立候補して三人が担当となった。


 月葉はなんで愛に逆らってまで高杉さんを庇ったんだろう。

 頑固だけど気弱な月葉らしくない行動。庇った相手が嫌っていた高杉となると、さらに奇妙だ。やはり、志穂が言ったことは妄想じゃなく真実なのか。

 そんなことを考えながら井戸に近付く。


 ふと、井戸の蓋が少しずれていることに気付いた。それだけじゃない。井戸の近くに血が大量に落ちている。血は壁や天井まで飛んでいた。


「ま、まさか、本物の血?」


 充満した血の臭いに、夏月は眉を顰める。

 耳の奥で心臓が鳴っている。息が上手く吸えない。


 夏月は震える手でベニヤ板の蓋を退けた。

 暗い井戸の底には、由貴子がブラウスを真っ赤に汚して座っていた。首がパックリと切れてそこから鮮血が零れている。目は驚愕に見開き、口はポカンと開いていた。ぐったりとしてピクリともしない。

 驚きのあまり、悲鳴は出なかった。


「ゆ、由貴子ちゃん。やだ、驚かさないでほしいな―…」


 そっと肩を揺する。だが、反応はない。見開いた瞳は真っ黒で死を漂わせていた。


 ああ、これは現実だ。

 そう理解した途端、恐怖に襲われた。夏月は悲鳴を上げて砂利を敷いた床にへたり込む。


 何が起きたのだろう。とにかく、助けを呼ばなくては。


 ジャケットの上着に手を突っ込むが、スマホはない。しまった、持ち物はすべてお化け屋敷の外だ。

 とにかくお化け屋敷から脱出しないと。


 この暗闇に由貴子を殺した殺人鬼が潜んでいるかもしれない。

 そう思うと凄まじい恐怖が込み上げた。ガクガクと震える足で立ち上がる。


 ズル、ズル、ズル。


 何かを引き摺るような音がする。出口に向かう通路からだ。

 振り返ると、闇に不気味な青白い顔が浮かんだ。さとこサマの顔だ。


 顔はゆっくり近づいてきた。闇に顔だけ浮かんでいるようだが、違う。よく見ると、夏月がピアノカバーで作った黒衣を纏っていた。

 黒衣のさとこサマは何かを引き摺っていた。


「あ、愛ちゃん……」


 亜麻色の髪を掴まれて引き摺られているのは愛だった。

 固く目を閉じた蒼白な顔、ぐったりした全身。腹部には穴が開いて、夥しい血が溢れている。

 遠くに目を遣ると、血塗れの巨大ナメクジが這ったような跡がぼんやりと見えた。


 喉の奥から叫び声が迸った。


 さとこサマは愛を無造作に捨て、叫ぶ夏月に肉薄する。

 足が震えて腰が抜け、夏月はみっともなく尻で後退る。


「い、いやっ、来ないでっ!」


 藻掻いてどうにか立ち上がり、逃げ出そうとした。だけど、小さな死神は背を向けた夏月の髪を引っ掴んで、勢い良く地面に引き摺り倒した。

 死神は夏月に馬乗りになると、身に着けている恐ろしげな白いマスクを左手で外した。マスクの下から現れたのは、もっと恐ろしい真実だった。


「つ、つきは。ど、どうして?」

「こんばんは、哀れな最後の犠牲者さん」


 月葉がにっこりと微笑む。悪意に塗れた氷の笑顔だった。


「わ、わ、悪ふざけはやめて、月葉。あ、愛ちゃんや由貴子ちゃんとグルになって、わたしを驚かそうとしているんでしょ。ね、そうだよね?」


 おもねるように尋ねると、黒曜石のような瞳はより冷酷になった。


「おめでたいね、夏月。あたしが愛や由貴子なんかと仲間なわけがない。あたしはね、どっかの誰かさんみたいな蝙蝠女とは違う」


 蝙蝠女。


 自分でもそう思っていたけど、親友から言われるとぐさりとくるものがある。こちらを見下ろす月葉の目は、虫けらをみるように冷ややかだ。


「さよなら夏月。あ、遺言ある?」


 右手に握られた血塗れのナイフが少ない明かりにキラリと閃く。


「あ、あなたは誰なの? つ、月葉じゃないんでしょ」

「時間稼ぎのつもり? 学校に残っているのはあたし達四人と職員室で仕事をしている先生達だけ。倉坂先生には事前に遅くなるって許可を取っておいたから、様子を見に来てはくれないよ。あいつ、生徒の問題から目を背けるクズ教師だしね。ここから叫んでも職員室までは聞こえない、諦めなよ」

「時間稼ぎなんかじゃない、あなたが月葉じゃないことは知ってるんだよ。だって、月葉は首を吊って死んだんでしょ?」


 月葉は一瞬驚いたように目を丸くした。それからクツクツと笑う。


「ああ、もしかして志穂になにか吹き込まれた?」

「……月葉、月葉は幽霊なの? 復讐するために、この世に戻ってきたの?」

「幽霊なんていない」

「それなら、あなたは誰なの?」


 月葉、いや、月葉と瓜二つの見知らぬ少女がにこりと笑った。





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