第五章 暗幕④

 私の部活の友達が貴方や立花月葉と同じ中学出身なのよ。

 夏休み、私はその子の家に遊びに出かけた。駅から数百メートル離れたところにある、ひっそりした森を通ったわ。そこが私の友達の家への近道なの。


 昼間でも薄暗いあの森には人気がなかった。

 薄気味悪い森よね。誰も通りたがらないのも納得だわ。

 私は幽霊も妖怪も信じてないから、あの森を通るのなんて怖くなかったわ。変質者が出たらと思うと怖いけど、貴方たちの町は私の町よりずっと田舎で、いるのは人畜無害な老人ばかりだからその心配もしていなかったわ。

 その日、いつものように森を一人で歩いていたら、ギイギイって変な音がしたのよ。森の奥の方から聞こえたの。

 こんな音を聞いたのは、はじめてだった。


 この森にまつわる怖い話は、友達からいくつか聞いていた。さすがにちょっと怖かったけど、好奇心が勝って、獣道を逸れて森の奥に入った。

 あそこの森の奥にはなんでも飲み込む底なし沼っていうのがあるんでしょう?

 音はその沼の近くから聞こえていたの。


 沼に近付いて、びっくりしたわ。底なし沼の畔の木に、立花月葉がぶら下がっていたんですもの。

 立花月葉はこの世のすべてを恨んだ恐ろしい顔で、じっと沼を臨むように風でギイギイと揺れていたのよ。

 ああ。今思い出しても、震えが止まらないわ。



 志穂が自分の身体を強く抱き締め、凍死しかけている人間のように歯をガチガチと鳴らした。

 嘘を吐いている顔ではない。作り話でもなさそうだ。

 志穂の言うように家の最寄駅から数百メートルの地点、夏月のふだんの帰り道のルートから外れた場所に森は存在する。そして、獣道を外れた木々の奥に冥府の沼と呼ばれる底なし沼がある。それも本当だ。


 志穂の話が本当なら、月葉は既に首を吊って死んでいることになる。


 まさか、そんなことありえない。月葉はぜったいに幽霊なんかじゃない。

 クラスメイトと弁当を食べ、楽しそうにお喋りしている。触れたらちゃんと温もりがあるし、誰の目からも月葉は見えているし、陽の光に透けたりしない。

志穂が月葉の首吊り死体を見たなんて、勘違いじゃないだろうか。


「信じられないって顏ね」

「そ、そうじゃないけど。月葉が死んだなら死体はどうなったの? もし、死体が発見されたなら、警察が動いてニュースになってるよ。月葉のお母さんだって、自分の娘が死んじゃっていたら騒ぐだろうし」

「そんなのは知らないわよ、怨霊でも普通の人間と同じように肉体を得て動き回れるのかもしれないし、さとこサマの力で幽霊ってことを誤魔化しているのかもしれないわ」

「めちゃくちゃだよ。そもそも、死体を見つけて志穂ちゃんはどうしたの?」


 志穂が唇を引き結んだ。

 夏月は責めるような顔で志穂を見る。


「ニュースになってないってことは、まさか、放っておいたんじゃ―…」

「怖かったのよ!」


 悲痛な叫び声が冬の空気をビリビリと震わせた。

 志穂は怜悧な顔を崩し、悲壮な顔をしていた。


「だって、あの子が夏休みに自殺したのなら、私やまりえのせいじゃないの! 実行犯として、私はあの子に色々やった。私が殺したみたいで怖かったのよ!」

「それで、死体を放っておいたの?」

「見間違いだと思ったし、怖くて誰にも言えなかったのよ。何日も経ってから、もう一度森に足を運んだけど、その時には死体はなかった。やっぱり見間違いだったのねと、安心していたわ」

「見間違いで納得したのなら、どうして今さら月葉は幽霊だってわたしに言うの?」

「今の立花月葉が、どう見ても以前のあの子じゃないからよ」

「確かに性格が変わったけど」

「それだけじゃないわ。さとこサマ像に血が捧げられて、事件が頻発している。どう考えても、立花月葉がさとこサマになったとしか考えられない状況でしょう」

「さとこサマなんて、まさか―…」

「今度は私の番よ。怖い、まだ死にたくない!」


 志穂が掴みかかるように飛びついてきた。

 夏月はよろけて階段を踏み外しそうになる。


「あ、危ないよ志穂ちゃん。落ちついて、月葉がさとこサマだなんて、死んでいるなんてやっぱりありえないよ」

「どうして信じてくれないのよ! 貴方はあの子の親友でしょう? だったら、あの子が以前のあの子とは違うって、どうしてわからないのよ!」

「志穂ちゃんは何を根拠に月葉がさとこサマだなんて言うの?」

「この前、あの子は佐々木さんが呼ばれた時に間違って返事をした。調べたんだけど、さとこサマの苗字は佐々木だったそうよ。立花月葉がさとこサマだというなによりの証拠じゃないの」


 志穂は頭が変になっている。

 月葉に対して夏月も違和感を覚えることがあるけど、誰がどう見ても月葉は月葉だ。ただいじめられないようにキャラを変えただけで本人であることに変わりはない。二人きりになった時には、夏月のよく知る昔の月葉と同じ顔で笑っている。

月葉が死んでいて中身が復讐の化身さとこサマだなんてあり得ない。


 月葉が佐々木と呼ばれた時に返事をしたのは、小百合に葬式花の嫌がらせをした直後の朝礼だ。きっと酷い落ち込みようの小百合を見て動揺し、出席番号が近い佐々木さんの時にうっかり返事をしてしまっただけだろう。


「ねえ、辻井さん。信じてくれるでしょう。一緒に、立花月葉を除霊しましょう。そうじゃないと、私たちが殺されてしまうのよ」

「志穂ちゃん、ごめんなさい。信じられないよ」


 腕を掴んでいる志穂の手を振り解き、夏月は階段を駆け下りた。


「待ちなさい、辻井さん!」


 鋭い声をあげて志穂が迫ってくる。

 般若のような顏が恐ろしくて、いっそうはやく階段を下りる。


「きゃっ」

 短い悲鳴が聞こえた。

 直後、地響きに似た音がして、最後にドスンと重たい音がした。


 振り返ると、階段のすぐ下に志穂が転がっていた。


「ま……て、まっ……て」

 志穂が震える指を夏月に伸ばす。

 顔を半分上げ、ぎらついた瞳で彼女は夏月を見据えた。額からは血が垂れ、全身からぐにゃりと力が抜けている。それなのに、志穂の切れ長の黒い瞳はどこまでも鋭く、怨念が篭っているようで怖かった。


 夏月は堪らず叫び声を上げる。

 長い悲鳴を聞いて、教室から人がわらわらと飛び出してくる。


 その後のことはショックで覚えていない。



 気付いたら、夏月は家の自室のベッドに寝ていた。

 コンコンと二回ノックが鳴る。返事をする間もなく、母が丼の乗ったお盆を手に部屋に入ってきた。


「夏月、起きたのね。あんた、大丈夫?」

「えっ、なにが?」

「いやだわ、ぼんやりしちゃって。クラスの子、あんたの目の前で階段から落ちたんでしょう? あんたも倒れて保健室に運ばれたそうよ。変なうわ言を繰り返して、普通じゃなかったって」

「わたしがうわ言を? なんて言ってたの?」

「なんだったかしら、人の名前よ。女の子の名前」

「女の子の名前……。まりえちゃん、とか?」

「違うわ、もっと古いわ。さ、さ……」

「さとこ……」


 思わず呟いてしまった。母が手のひらをポンと打って頷く」


「そう、さとこサマだわ」


 さとこサマ。落ち窪んだ目の陰鬱な少女が、赤黒い唇を引き延ばしてにっと笑う姿が脳裏に浮かんで、ゾッとした。

 青褪めた夏月を母が心配そうにのぞき込む。


「ちょっと。本当に大丈夫なの? まさか、あんたも階段から落ちたの?」

「平気だよ。でも、わたしどうやって家まで帰ったのかな」

「月葉ちゃんだっけ、あの子が送ってくれたのよ」

「月葉が……」


 霧がかかったような頭が急にクリアになる。

 志穂と喋っていたこと、志穂が階段から落ちたことが急激に甦った。


「し、志穂ちゃんはっ!?」

「志穂ちゃんって誰よ」

「落ちた子だよ、志穂ちゃんは大丈夫なの?」

「さあ、それはお母さんにはわからないわよ。でも、大丈夫なんじゃないかしら。それよりあんたこそ大丈夫なの? 倒れた拍子に頭なんて打ってないわよね? 入院なんて嫌よ、せっかく進学クラスで頑張っているのに、勉強が遅れてしまうわ」


 心配するのは勉強のことか。夏月は脱力した。


「頭なんて打ってないから、安心して」

「そう? よかったわ。ほら、おうどん作ったわよ。ここで食べなさい。食べたら今日はもう安静にして、早く寝なさいよ」


 母は丼をお盆ごと置いて部屋を出て行った。


 夏月は深く溜息を吐く。

 食欲はなかったが、丼から立ち上る温かな湯気と出汁の香りに誘われ、うどんに箸を伸ばした。温かい食べ物が胃に入ると、少し落ち着いた。


 食べ終わると鞄からスマホをとり出す。月葉からラインがきていた。


『夏月、今日はお疲れ。志穂のこと災難だったね。安心して。命に別状はないから。ただ、足を骨折してしばらく入院だって。文化祭には参加できないみたい』


 志穂が無事だと知ってホッとする。額から流れる赤い血を見た時は、もう志穂は駄目だと思って怖かった。


 ラインを読みかえす。月葉が好きな猫の絵文字、独特の顔文字のセンスは昔と変わっていない。

 月葉がさとこサマの霊に乗り移られているなんて、志穂の妄想だ。

 だけど、志穂の話には真に迫るものがあった。とくに月葉の首吊死体を見たという話はあまりに具体的でリアルだった。


 指先が冷たくなる。もしも、志穂の話が本当だったら。そう思うと、胸を冷たい風が貫いた。


 スマホから目を離し、窓に目を遣る。

 窓の外には、半分に欠けた月が寂しそうに浮かんでいた。




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