第五章 暗幕②

 人生の終わりは唐突にやってくるらしい。


 昨日、クラスの空席がまた一つ増えた。

 廊下から二列目一番前、不登校になった小百合の席。小百合の三つ後ろ、線路から転落死した奈々の席。奈々の左斜め前、プールで溺死した横尾の席。

 そして窓際の列の後ろから二番目、屋上から飛び降り自殺したまりえの席。


 夏月は何気なく窓に目を遣った。

 瞳と口を開いて真っ逆さまに落ちていったまりえの姿が、頭の中にスローモーションで鮮烈に再生される。

 堪らず悲鳴を上げ、夏月は窓から顔を背けた。


 まりえが死んだのはわたしのせいだろうか。

 愛に誘われてカラオケに行った日のことが甦る。あの日、まりえの身に起きるかもしれない危険を予感しながら、彼女を置いて一人逃げ帰ってしまった。彼女は助けを求める目をしていたのに。

 あのことが原因で、まりえは自ら命を絶ったのではないだろうか。


 違う、わたしのせいじゃない。夏月は頭を抱えて首を振る。


 弱いから、愛と由貴子に従うしかなかった。そうしなければ、自分がまりえの結末を辿っていたかもしれない。

 夏月は愛の席を振り返った。

 由貴子と愛は平然とした顔で笑っている。二人とも綺麗な皮を被った悪魔だ。

 夏月は顔を伏せた。そこが唯一の安全地帯であるかのように、じっと自分の机を見つめる。


「夏月、顔色悪いよ。どうかした?」


 鈴を転がすような声に弾かれて顔を上げると、目の前に月葉がいた。


「月葉。ううん、なんでもないの」

「本当に大丈夫? 青い顏してる」

「う、ん。ちょっと眠れなくて」

「もしかして、まりえのこと? この窓の外を落ちていったんだってね」

「うん。居合わせなくてよかったね、月葉」

「夏月は見たんだよね?」

「そうなの……。思い出すだけで、すごく怖いよ」

「それもそうか。怖いよね。まりえ、怯えた顏をしてたんだろうな。すごく後悔したんじゃないかな」

「後悔しないはずないよ。屋上から飛び降り自殺することなかったのに。まりえ、すごく可哀想だね」

「それはどうだろう……」


 温度の無い声で月葉が反論する。

 驚いて夏月が目を丸くすると、月葉は慌てたように手を横に振った。


「あ、いまのは違うから。まりえのことは、あたしも可哀想だって思ってる。そっちじゃなくて、自殺しなくてもよかったのにっていうのはどうかなと思って」

「どういう意味?」

「死ななきゃ逃げられないってまりえは思ったんじゃないかな。死に救いを求めたんだと思う。それって、べつに珍しいことじゃないと思うんだ」


 月葉の瞳が翳る。

 夏休み前の陰鬱な月葉が戻ってきたみたいで夏月はぎくりとした。

 月葉が陽キャに変身して愛たちと親しくなるのも辛いけど、ぽっきりと折れた姿はもう二度と見たくない。


 月葉がいじめの標的だった頃、夏月は表立って援護できなかったけれど、心の底では唯一の味方で居続けた。だけど、人形みたいになってしまった月葉の目には自分は映っていなかった。あの時は自分が透明人間になったみたいで哀しかった。


 厳かなチャイムが鳴り響き、一日がはじまった。

 クラスメイトたちのなかに、まりえの死を嘆き悲しむ者はほとんどいない。

 まりえは長いものに巻かれろという考えで、自分より上と見ればうんざりするほどへりくだり、下と見れば存分に虎の威を借りて偉ぶるので、嫌われていた。

 クラスカースト上位者にとっては都合のいい使い捨ての道具、下位者にとっては鬱陶しい目の上のたんこぶだったのだ。

 夏月もまりえのことは苦手だったし、腹を立てたことも何度かあった。でも、さすがに自殺したとなると可哀想だし、哀しい。

 みんなも、少しはまりえの死を悼んであげたらいいのに。


 六限目は眠たい日本史の授業だった。

 初老の日本史教師は生徒から舐められていて、特進クラスであっても授業中にサボる生徒が散見される。教科書の内容をそのまま喋って板書しているだけの無意味で退屈な授業なので、無理もない。

 いつも通り、生徒達は机の下でスマホを弄ったり、別の教科の問題集を広げていたり、寝ていたりと好き放題だ。


 なんとなく、志穂に目を遣る。

 彼女は教科書を広げて授業に集中するふりをしつつ、つい先日までまりえが座っていた窓際の後ろから二番目の席をじっと見ていた。


 いつも綺麗にまとまった前下がりのボブヘアが、今日は乱れている。目の下には濃い隈ができ、鋭い切れ長の瞳はどろりとしている。

 きっと、まりえの死を心から悲しんでいるのだろう。二人は仲違いするまでは親友だったから。


 授業が終わり、帰りのホームルームの時間となった。

 教室の四つの空席。日常を装っていても、教室を包む空気は異質だ。さとこサマの呪縛に絡めとられ、いろんな負の感情が入り乱れて、みんな緊張に晒されている。いつも通りのんびりした顔をしているのは倉坂先生ぐらいだ。

 いじめっ子はこの次は自分の番かも知れないと怯えたり、何故自分達が怯えねばならないのだと憎悪したりしている。

 いじめられっ子は「怖いね」と口では言いながらも、内心ざまあみろと嘲笑したり、もっと罰を下せと願ったりしている。


 本来なら夏月はいじめに怯える仔羊の身であり、さとこサマの暗躍に内心ほくそ笑む立場だった。だけど、愛に選ばれて都合よく愛玩される今の夏月は、怯える側になってしまっている。

 身の丈に合わない幸福を手にし、甘い汁を啜っていた皺寄せがきたのだろうか。

誰かが人生に訪れる幸福と不幸は実は同量だと言っていた。その言葉を知った時はそんなはずはないと思っていたけど、今ではあながち外れてない気がしている。


 慎ましい幸せでは満足できず、より大きな幸福を得ようと欲張ったから天罰が下されようとしているのか。

 ネガティブなことを考えているうちに、帰りのホームルームが終わった。



 二年一組に渦巻く不幸から逃れるように、大半の生徒がそそくさと教室を出ていく。

 夏月もすぐに帰るつもりだったが、ぼんやりと窓を眺めている月葉に気付いて帰るのをやめた。


「月葉。今日は部活の日じゃないの?」


 月葉が緩慢な動作で夏月を見た。

 能面みたいな顏。顔の造形は月葉なのに、彼女じゃない気がしてぎくりとする。

 夏月の動揺を察したのか、月葉がぱっと明るい笑みを浮かべた。


「部活だけど、今日はサボリ。やる気なくって」

「月葉が合唱部をサボるなんて珍しいね」

「そうでもないよ。ほら、夏休み前はほとんどサボッてたし」

 自虐的なことを口にして月葉が乾いた笑い声を漏らす。


 夏休み前といえば、愛たちのいじめに疲れて、月葉が抜け殻のようになっていた時だ。


 今年の梅雨、華の三人組による月葉へのいじめは激化した。

 クラスのほぼ全員から無視されたり、持ち物に落書きされたり捨てられたり、トイレに閉じこめられて水をかけられたりしていた。それどころか、言いがかりをつけられて、叩かれたり蹴られたりまでしていた。

 薫はちょっと前まで月葉にやたら親しげにしていたのに、月葉が酷いいじめを受けていることにはまったくの無関心だった。


 いじめに加担しなかったのも、見て見ぬふりをしなかったのもただ一人だけ。朔耶

だけだ。彼女は何度も体を張って月葉を助けた。

 でも、肝心の月葉が朔耶の手を振り払ってしまった。そのせいで、味方は一人もいなくなった。


 孤立無援で陰惨ないじめを受け続けた月葉は、梅雨が明ける頃には壊れていた。

 学年の総合順位二十番以内にかならず食い込んでいたテストは特進クラスとは思えない暗澹たる成績で二百番代後半まで転落し、ホームルームで倉坂先生にテストの点数について説教されていた。


 あの時の月葉は、夏月が送ったラインのメッセージに反応しないし、クラブ活動にはいっさい顔を出さず、授業中も休み時間も置物のようだった。

 どうして今更、月葉は暗黒の過去を仄めかすようなことを口にするのだろう。


 夏月が返事に困っていると、月葉は「ちょっとした冗談だよ、スルーして」と手をひらひら振った。


「さて、さっさと帰ろうかな。夏月、一緒に帰ろ」

 軽く首を傾けて薄く歯を見せる月葉の見慣れた笑顏に妙にホッとした。



 校舎を出ると、目の前に冬枯れの景色が広がっていた。

 透明度が高い空は凍えるような青色だ。景色は寒々しいけど、学校を離れるにつれ、見えない呪縛から解き放たれて、おだやかな陽だまりの過去に還っていく気がした。


「夏月、学校の裏掲示板って知ってる?」

「うん、知ってるよ。いやな気持になるから、なるべく見ないようにしてるけど」

「あそこ、今さとこサマのことがいっぱい書き込んであるんだ。二年一組はさとこサマの呪いにかかってる、とかね。どう思う?」

「さとこサマなんて、ただの噂だよ」

「まりえの自殺もさとこサマの罰かもってさ」

「そんな、まりえちゃんはそんなに悪い子じゃないのに。愛ちゃんにやらされていただけで、さとこサマから罰を受けるほどの、それも死んじゃうほどの罪はないんじゃないのかな。ねえ、月葉もそう思うでしょ?」


 月葉は無言だった。

 沈黙が怖い。


「月葉」


 何か言ってよ。

 防御反応で尖った声が出そうになるのを堪えて、名前を呼ぶにとどめた。


「罪はあると思う」

「え?」

「同調しただけでも、きっと罪はある」


 冷たく強い風が通り過ぎていった。二の腕にブツブツと鳥肌が立つのを感じる。


「ねえ月葉。やっぱり、わたしたちのクラスで起きてる悪いことは、ぜんぶさとこサマの仕業なのかな?」


 そんなわけないと否定されることを期待して、夏月は月葉を見る。

 月葉はさっきと同じペースで歩を進めながら、無機質な声で答えた。


「これだけ続くってことは、やっぱり二年一組は呪われているんだと思う。幽霊の不在は証明されていない。あたしは、怨霊はいると思う」

 理屈っぽい月葉の言葉に心が萎んだ。やっぱり、さとこサマはいるのかもしれない。


 不意に鉛が詰まったように足が重くなる。

 夏月は立ち止まって、黒灰色のアスファルトに視線を落とした。


「夏月、どうかした?」

「わたし、怖いの」

「怖いって、なにが?」

「わたしもさとこサマに裁かれて、死んじゃうのかもしれない」


 言葉にしたら、いっそう恐怖が濃くなった。

 夏月は自分を守るように抱きしめる。小さな震えはそのまま自分の弱さの証明のような気がして、情けなくなってくる。


「さとこサマが罰を下すのはいじめっ子に対してだけだよ。夏月は大丈夫」


 本当にそうだろうか。

 夏月の脳裏に目を見開いて真っ逆さまに落ちていくまりえと、葬式花を机に飾られて打ちひしがれる小百合が過る。

 望んで二人を傷付けたわけじゃない、自分を守るためにやったことだ。けれど『だから罪はない』と、本当に言えるだろうか。

 さっき月葉がまりえを罪人だと断じた。

 傍観者は加害者じゃない、月葉はそう考えているようだ。

 もしも、さとこサマも同じ考えだとすれば―…

 黙り込んだ夏月を見て、月葉が言う。


「夏月はいじめなんてしてない。そうでしょ?」


 月葉が大きい目をスッと細める。三日月のような瞳は静かな威圧感を湛えていた。

 月はいつでもひっそりと地上を見下ろしている。空にいないように見える昼間も、白く輝きながらどんな罪も見ている。その月に対して無実を誓えるのか。

もしここで誓えなかったら、月同盟は消えてしまうかもしれない。


「あたしと夏月、どっちも名前に月がつく月仲間。夏月が上弦であたしが下弦。二人で一つの満月だね。あたし達の友情を讃えて、月同盟を結ぼう」

 ちょっと照れくさそうに笑った、中学生の時の月葉の顔が明滅する。


 さとこサマの裁きよりも、月葉を失うのが怖い。

 夏月は自分の中に吹き荒れる負の感情を飲み込み、明るい笑顔を浮かべた。


「わたしは誰かをいじめてなんかいないから、怖がる必要ないよね」

「その通りだよ、夏月。大丈夫だいじょうぶ」

「ありがとう、月葉」

「へへ、どういたしまして」


 止まっていた足を動かし、のんびりと駅に向かう。

 駅まであと二百メートルほどの場所で、前方に見知った顔を見つけた。朔耶と薫だ。


 街路樹に凭れるように立つ朔耶に、薫が腰を折って話しかけている。薫は右腕を朔耶の真上についていて、壁ドンならぬ木ドンをしていた。

 なんてことないただの萎びた街並みも、容姿端麗の二人が揃っている場所を切り取ると、恋愛映画のワンシーンのようだ。

 他高の制服を纏った生徒達が、思わず足を止めて魅入っている。夏月と月葉もつい足を止めてしまった。

 月葉の視線が朔耶と薫に流れる。


「おや、仲良しお二人さん。さっきぶりだねえ」

 薫がこちらを見た。

 優しげで完璧すぎる笑顔に反射的に顔が赤くなる。


 べつに薫に対して恋心や憧れがあるわけじゃない。それでも、彼の整いすぎた甘くセクシーなルックスは魅力的だと感じる。


「あ、えっと。お疲れさま、対馬くん」

 なんて話していいのかわからず、つっかえながら無難な挨拶を述べる。

 薫は動揺する夏月を見て、愉しそうに笑った。

「そんなに緊張しなくてもいいよ。二年も一緒に過ごしているのに、まだ僕の顔を見慣れないのかい?」

「え、あ、う。うん、見慣れない、かな」

「ふふ、美人は三日で飽きるのだから美男だって三日で見飽きるだろうにね。夏月ちゃんは奥ゆかしくて、可愛いね」

 リップサービスとわかっていても顔が熱くなる。


 そもそも、男子に褒められることに慣れていないのだ。

 女子からはたまに「夏月って可愛い」と言われる。でもそれはたぶん、他の女子にとって夏月が安心して褒められる平凡な顔立ちだからで、心の底からの賛辞じゃない。冴えない女子を褒める自分ってすごくいい子という思考が働いた打算の産物であり、お世辞ですらない。


「そんな、ぜんぜんそんなことないよ」

 思わず媚びた態度をとってしまってからはっとする。

 月葉が薫を好きだということを忘れていた。親友の好きな人に媚びるなんて、どうかしている。


 月葉は怒っただろうか。夏月は恐る恐る隣に目を遣る。

 

 月葉の視線は薫に向けられているものとばかり思っていたのに、薫の向こうにいる朔耶に向けられていた。 

 朔耶のぱっちりと吊った青い猫目と、月葉の黒曜石のような目が見詰め合っている。

 その視線にどこか熱っぽさ含まれているような気がして、夏月は少し不快になった。朔耶を見る目につい、敵意が宿る。

 負の感情が混じった視線に気付いたらしく、朔耶が気まずげな顔でこちらを見た。


「薫、腕を退けろ。邪魔だ」

 進路を阻むように木に腕をつく薫を、朔耶がじろりと睨む。

 薫は嬉々として彼女を見た。

「嫌だよ、朔耶。君が僕の話に耳を貸すまで帰さない」

「耳は貸しただろうが。同意はしないけどな」

「同意しなければ聞いていないのも同然だ。僕の意見は正しい、君だってそのくらいわかっているでしょう?」

「わかっていても、賛同できない。第一、お前なんかの言う通りにするのが嫌だ。わかったら退け」

「退かない」

「突き飛ばすぞ、もやし野郎」

「もやしだなんて酷いなあ。君は確かに怪力ゴリラかもしれないけど、僕はこう見えて筋肉質で力も強いよ。ほら、こんなふうにね」


 薫はいきなり朔耶との距離を詰めると、小柄で華奢な彼女を抱きすくめた。

他校の子たちが黄色い悲鳴を上げる。


「ぶはっ。苦しいだろ、離せよ馬鹿、変態!」

「嫌だよ。逃げたいなら、自力で逃げてみなよ」

「くそっ、ふざけやがって!」


 薫の腕の中で朔耶が暴れるが、薫は彼女を抱き締めて離そうとしない。

二人は喧嘩しているつもりかもしれないけど、夏月にはいちゃついているように見えた。

 この二人の関係性はどうもよくわからない。すごく仲が悪いように見えることが多いけれど、本当はやっぱり仲がいいのだろうか。

 どちらも男の制服を着た朔耶と薫。星園高校のジェンダーレスな制服事情を知らない子達の目には、二人はどう映っているのだろう。ひょっとすると朔耶は、とてつもなく小柄な男子生徒だと思われているのかもしれない。だとすると、禁断の恋だと思われている可能性もある。

 そんなどうでもいいことを考えていると、薫が首だけでこちらを振り返った。


「また明日学校でね、夏月ちゃん、月葉ちゃん」

 薫は笑っていた。声もいつも通り飄々として親しげな雰囲気を醸していた。

 だけど彼の涼しげな目は、ちっとも笑っていなかった。

 邪魔だからさっさと帰れ。そう言われたのだと、夏月はすぐに気付いた。


「うん、それじゃあまたね」

 夏月は軽く会釈をして歩き出す。だけど、月葉はすぐに動かなかった。


「月葉?」

 数歩進んで夏月が振り返ると、月葉はじっと薫の背中を見ていた。


 いや、違う。薫の広い背中の脇から顔を出して息を吐く朔耶を見ている。

 薫のことが好きだから、朔耶に嫉妬の炎を燃やしているのだろう。

 はじめはそう思ったけれど、どうも違いそうだ。

 唇を真一文字に結んだ月葉の顔は不機嫌に見えるけど、瞳にはどこか切なげな色が滲んでいた。


 薫を見ているならわかる。だけど、月葉が見詰めているのは朔耶だ。

 なぜ、そんな縋るような目で朔耶を見るのだろうか。


 朔耶の視線と月葉の視線がまた絡み合った。二人が意味ありげなアイコンタクトを交わす。

 置いて行かれたような寂しさに体が震えた。

 

 月葉。高杉さんじゃなくて、わたしを見てよ。


 喉元まで出かかった言葉を唾と一緒に飲み込むと、夏月は月葉の小さな手をぎゅっと掴んだ。

 手の中で、びくりと小さな手が震える。


「帰ろうよ、月葉」

 夏月は月葉の手を引いた。

 朔耶と薫から離れると、夏月は握りっぱなしだった月葉の手を離した。


「ねえ、月葉はもう対馬くんを好きじゃなくなったの?」


 夏月の問いかけに月葉は目を軽く見開いた。


「ううん、まだ好き」

「そうだよね、変なこと聞いてごめんね。さっきの高杉さんと対馬くん、見ていて辛かったでしょ?」

「う……ん、そう、かな」

「大丈夫だよ、月葉。対馬くんは高杉さんを好きなんかじゃないよ。あの二人の喧嘩を痴話喧嘩とか言う子もいるけど、わたしは違うと思うよ。対馬くんは単に、高杉さんがムキになって怒るのが面白くて、しつこくからかっているだけだと思うよ」

「うん、そうかもね」

「ぜったいそうだよ。高杉さん、ムキにならなきゃいいのにね。あれじゃあまるで、対馬くんに構ってもらいたがっているみたいに見えるよね。サバサバして男っぽく見えて、意外と計算高いのかな。だったら、ちょっと嫌な感じだね」

「それはないと思う。高杉、いい奴だから」

 

 月葉が呟いた言葉が一瞬、理解できなかった。


 夏月の知る月葉は朔耶を嫌っていた。


 去年の十月、合唱コンクールで月葉がソプラノのパートリーダー、朔耶がアルトのパートリーダーを務めていた時に二人は仲良くなったみたいで、二人が喋っている姿を何度か見ている。

 月葉に自分以外に通じ合える人間ができたことが寂しかったけど、月葉が朔耶よりも自分をより大事な存在と思ってくれていたのがわかっていたので、二人が親しげなのを見て見ぬふりしていられた。


 月葉へのいじめがはじまった二月、朔耶は月葉への嫌がらせを目撃したらすぐに月葉を助け、首謀者の愛と由貴子と奈々に噛み付いていた。

月葉も甘んじてそれを受けいれていた。

 その時はまだ、月葉は朔耶を嫌っていなかった。むしろ、好意的だったと思う。


 だけど、今年に入って月葉が薫と急接近してからは、月葉が朔耶に話しかけることはしなくなった。朔耶から話しかけられると憎しみが篭った目さえしていた。


「高杉、対馬君に付き纏いすぎ。夏月もそう思わない? 対馬君がかわいそう」

「偽善者面して助けられても迷惑。どうせ、ぜんぶから助けてくれるわけじゃないのに。高杉さ、自分は強いって見せつけたいだけかも。本当に嫌な奴」


 月葉はそんなふうに高杉の悪口を言いまくっていた。あれはポーズじゃない、まぎれもない本心だった。


 月葉は一度嫌いだと思うと、相手をとことん嫌いになるタイプだ。二年生になってから、月葉にとって朔耶は偽善者の嫌な奴で完全に敵という認識だった。

 その月葉が朔耶のことを『いい奴』と褒めるなんて、信じられない。


 確かに朔耶はいい人だと思う。言葉遣いが乱暴だし、表情が鋭くて威圧的で不良っぽいけれど、本当はお人好しで優しい人で裏表もない。

 それでも、月葉が朔耶を褒めるのを聞いて胸が痛くなった。

 小さくて愛らしい容姿に不器用でまっすぐな性格。月葉と朔耶はパズルのピースのようにお似合いだ。二人が寄り添っている姿は、すごく自然な気がした。


 月葉と高杉さんが仲良くなったら、わたしはいらなくなる。


 凍える想像が足を止めた。一歩、また一歩と月葉が離れていく。


 待ってよ、月葉。

 心の声は言葉にならずに体の中に消えた。


 月葉は夏月が遅れていることに気付かず、歩き続けている。

 このままだと、月同盟が消えてしまう。物理的に離れてしまえば、心的距離も離れてしまう気がして、夏月は急ぎ足で月葉に並んだ。

 定期をかざして改札を抜ける。


 ピッという音はスーパーのバーコードの音を連想させた。普段はこんな音など気にもしていないのに、今は改札機に値踏みされている気がした。

 弱さと醜さを見抜いた改札機はドアを開けずに自分をここに閉じこめ、正しく強い月葉だけを通してしまうかもしれない。


 改札を通る短い間にそんな妄想をしてしまい、憂鬱になった。



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