第四章 不穏な影④

 不安なまま迎えた翌朝、教室には昨日運ばれたクラスメイト達が戻ってきていた。その中には月葉や、青木の姿もある。


 月葉に「大丈夫か」とすぐにでも聞きたかったが、やめた。

 夏月に言われた「月葉に嫌われている」という言葉が、耳の奥にこびり付いている。月葉を疑っているわけじゃない。だけど、正直面と向かって憎しみの目を向けられたらと思うと、がらにもなく怖くなったのだ。

 かわりに、青木の傍に行く。


「おはよ、青木。体調、大丈夫か?」

「よぉ、朔耶。平気だぜ、いやぁ、参った。まさか調理実習で作ったグラタンで病院送りになるとは、予想できなかったなぁ」


 短い髪をわしゃわしゃと掻き回す青木はすっかり元気そうでホッとした。

 教室のそこかしこでヒソヒソと会話が交わされていた。

 好奇心、或いは怯えを滲ませた声で呟かれるのは、さとこサマの呪いという物騒な言葉。昨日の集団食中毒はさとこサマからいじめっこへの罰だ、そんなふうに言っている人が何人もいる。


「いい加減にしてよっ!」

 金切声が教室の後ろの方から聞こえた。クラスメイト達の視線が一斉に声の元に集まる。


 いくつもの視線の先にいたのは、肩をいからせて眦を吊り上げた愛だった。その隣には修羅のような顏で腕を組む由貴子もいる。

 クラスのアイドル的存在の二人の激昂に、教室が一瞬にして水を打ったような静けさに包まれる。


「なにがさとこサマの呪いよ、犯人は別にいるに決まってるでしょ」

「愛の言う通りだし。怪しいヤツ、いるっしょ」

 愛と由貴子の視線が朔耶に流れ、他の生徒もその視線の先を追う。

 無数の訝しげな瞳が朔耶を貫いた。


「どうして同じ班のユッキーと一之瀬君が倒れたのに、高杉はなんともないの?」

「聞いて、愛。高杉のヤツ、グラタンすぐに食べなかったんだ」

「えぇ、それは変だよね」

「まるで最初っからウチらがグラタン食べて倒れるの、知ってたみたいじゃん」

「由貴子や愛の言う通りだぜ。オイ、高杉テメー、グラタンに毒入ってたの知ってたんだろ? じゃなきゃ、普通に食うだろーが!」


 一之瀬が胸倉に掴みかかってきた。

 グラタンを食べなかったのは、単に猫舌で冷めるまで待っていたからと考えごとをしていたからだが、本当のことを言ったところで一之瀬は納得しないだろう。

 朔耶が黙っていると、鬼の首でも獲ったかのように一之瀬ががなり立てる。


「テメーが毒を盛ったんだろ、高杉! 恥ずかしい思いさせられた腹いせに、わざと愛やオレ達に毒入りグラタン食わせたんだろーが」


 滅茶苦茶だ。自分の班が作ったグラタンだけが毒入りだったのならともかく、どう

やって愛のいる別の班にまで毒を盛るというのだ。

 それに愛のいる四班には青木がいたし、月葉がいる二班も被害に遭っているのだ。


「私じゃない。毒なんて盛るわけないだろう」

「嘘吐き。酷いよ、高杉。あい、死ぬ思いだったんだよ。こんなの卑怯だよ」

「マジ、サイテー。高杉、殺人鬼じゃん」

「謝罪しろよ、犯罪者! 高杉が謝罪すべきだと思うヤツ手ぇ挙げろ」


 一之瀬が教室中をぐるりと見回すと、そこかしこでちらちらと手が上がった。


「ホラ、賛成多数。高杉犯人で決定じゃねーか。ほら、土下座して謝罪しろっつーの。しゃーざーい、しゃーざーいっ」


 一之瀬が大声で囃し立てながら手拍子を打つ。

 それにあわせて、謝罪と叫ぶ声がどんどん増殖していく。

 黒い感情の塊が教室に渦巻いているようだ。敵意を孕んだ瞳が一斉に体を貫く。

教室の後方で青木が狼狽えた顏で立ち尽くしているのが見えた。青木が同調して自分を責めていないことホッとする。だけど、助けは期待できそうにない。


 誰かに助けて貰おうとするな、自分でなんとかしろ。

 そう自身に言い聞かせると、朔耶は強い眼差しできっぱりと否定した。


「私は毒なんて持っていない」

「シラ切ろうってか? 図々しいんだよ、テメーが犯人で決定だっつーの」

「やってないって言ってるだろ」

「謝らねーなら、謝る気にさせてやるよ、おい、テメーら手伝え。この生意気男女取り押さえろ」


 一之瀬の合図で、傍にいたクラスの男子が朔耶に掴みかかる。

 一之瀬や松島ならぶん殴って逃げていただろうけど、一之瀬に怯えて同調圧力に負けただけの生徒を殴る気にはなれなかった。


「た、高杉が悪いんだ、毒なんて盛るから」

「そうだ、みんなに謝れよ」


 朔耶の右腕を掴んだ太った男子生徒と左腕を掴んだ眼鏡の痩せた男子生徒が、怯えと怒り滲んだ目を向けてくる。

 いつの間にか、一之瀬の言葉が本当になって独り歩きをしている。

 高杉朔耶は昨日の集団食中毒を引き起こした毒殺魔で、断罪されるべきだ。そんな空気になっていた。


「オラ、謝罪しろって」


 一之瀬の拳が朔耶の右頬を殴る。口の中にジワリと血の味が広がった。朔耶は鋭い目で一之瀬を睨む。


「なんだよ、その生意気な目は。謝罪しろって言ってんだよ」


 一之瀬がおもいきり朔耶の肩を突き飛ばした。朔耶は椅子と机を派手に倒して床に転がる。打ちつけた背中がジンジンと痛んだ。

 一之瀬が仰向けに転んだ朔耶に馬乗りになる。


 握り拳が振り下ろされようとした。その時、一之瀬が尻もちを着いた。

 薫が一之瀬の襟首をひっつかんで後ろに引っ張り倒したのだ。


「君達、いい加減にしなよ」

「な、なんだよ、対馬。部外者が首突っ込んでくんじゃねーよ」


 薫は威嚇する一之瀬を冷めた目で一瞥すると、朔耶の手を取って起き上がらせた。長い指がそっと赤くなった頬を撫でる。


「朔耶。君は女の子なんだから、顔に怪我なんてしちゃいけないよ」

「別に、どうってことない」

「綺麗な顔をしているんだ、大切にしなきゃ駄目だよ」


 薫の胸に抱き寄せられ、朔耶は思わず縋るようにシャツを握り締めた。

 優しく守ってくれる薫が、大好きだった兄の月雄の姿と重なる。


「オイオイ、対馬。テメーも共犯かよ。じゃあ、対馬もやっちまおーぜ」


 一之瀬の言葉に男子たちが賛成を唱えた。

 薫は女子には好かれているけど、男子からは嫌われている。普段は攻撃させる隙のない薫を合法的に吊し上げられる機会に、男子たちは沸いていた。獰猛な獣の目が薫に向けられる。

 女子たちは殺気立った男子達の空気に怯み、口を閉ざしてしまっていた。

 愛や由貴子でさえも、予想外の事態に困惑して立ち尽くしている。


 朔耶は薫から離れようとした。だけど、肩を抱き寄せる薫の手は意外にもかなり力強くて離れられない。

 どうしたらいいだろう、薫を巻き込む気なんてなかったのに。また、大切な人を巻き込んで傷付けてしまう。それだけは避けたい。

 焦る朔耶の願いを神が聞き届けたのか、タイミングよく教室の扉が開いた。


「おはよう。朝のホームルーはじめるぞー、みんな席に着け」


 朔耶と薫を集団で取り囲む男子生徒。倒れた机と椅子。赤くなった朔耶の頬。

 それらの異変を目にしても、担任の倉坂先生はいつもののんびりした顔だった。これ幸いとばかりに、男子生徒たちは咎められるのを嫌って大人しく席に戻る。

 薫と朔耶だけがさっきの状態のまま佇んでいた。


「この状況を見て、何か言うことはないのか?」


 朔耶の問いかけに、倉坂先生は暢気な笑みを浮かべた。


「高杉、お転婆はほどほどにな。プロレスごっこなんて、小学生みたいな遊びばっかりするんじゃないぞ」

「プロレスごっこだと? ふざけんな、これがそんな穏やかな状況かよ」

「やめるんだ、朔耶。ほら、席に座ろう」

「薫、でも」

「いいから、座るんだ」


 薫が冷めた目で席に戻っていく。

 朔耶は煮えくり返る腸を盛大な舌打ちでなんとか宥めて、大人しく席に着いた。

 何事もなかったように、倉坂先生が朝のホームルームをはじめる。


「えー、まずは昨日倒れた生徒も無事に出席できてよかった。みんな本当に大丈夫か。体調が悪い奴はいないか?」


 手を挙げる者は一人もいない。倉坂先生が満足そうに頷く。


「昨日、警察と保健所が来て調べた結果、君達が調理実習で使った一リットルの牛乳の一本に、ほんの小さな穴が空いていたことがわかった。空になったその牛乳パックの底に僅かに残った牛乳を調べたら、薬物が混入されていたそうだ」


 教室が俄かにざわめく。

 散り散りになった意識を集めようと、倉坂先生が手を叩いて注目を促す。


「ほら、静かにしろ。話を続けるぞー。犯人はまだわかっていないが、警察は隣の県の無差別の毒物混入事件を模倣した犯人が、スーパーの牛乳パックに注射器で毒を仕込み、君達は運悪くその牛乳を引き当ててしまったのだろうという見解だ。牛乳を買ったスーパーで他に毒が混入された食品がないか、警察が調べているそうだ」

「先生、それってつまり、ウチらが誰かに故意的に狙われたわけじゃないっこと?」


 由貴子が手を挙げて問いかけると、倉坂先生は力強く頷いた。


「その通りだ、今藤。牛乳を用意した家庭科の先生の犯行でも、うちのクラスの生徒の犯行でもないということだから、面白半分に変な噂を立てないように」


 本当にそうだろうか。朔耶は釈然としなかった。

 調理実習で使った牛乳が、偶然見知らぬ他人が毒物を仕込んだものだった。ぜったいに起きない事象ではないかもしれないが、そんなことが起こる確率は、宝くじの高額当選なみの稀有さだ。

 犯人はこのクラスにいる気がする。でも、誰が犯人で目的は何だろうか。


 グラタンのホワイトソース作りに必須の牛乳パックは三本用意されていた。使用する牛乳は四百ミリリットルで、一本の牛乳につき三班が使用した。

 毒物が仕込まれた牛乳パックは三本中一本。服毒させたい相手に毒を盛るのは容易ではない。それどころか、下手をすれば犯人自身が毒を煽るはめになる。

動機に関しては復讐や憂さ晴らしなどいろいろと考えつくが、犯人像は浮かんでこない。

 薫が言う通り、このクラスを呪っている『さとこサマ』がいるのかもしれない。そんなふうに思えてくる。


 一限目が始まるのを待つ教室は暗澹とした沈黙に包まれていた。

 倉坂先生は毒物混入事件の被害になったのは偶然にすぎないと説明したけど、きっと誰もそうだとは思っていない。


 さとこサマの下した罰だ。


 誰かが呟いた声が波及し多くの生徒が怯えていた。

 事件の直後は罰があたったのだとほくそ笑んでいたまりえさえも、恐怖に顔を引き攣らせていた。笑顔なのは薫ぐらいだ。

 これ以上、クラスメイトが傷付くのは嫌だ。

 

 朔耶は机の上で強く拳を握った。


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