第三章 不穏な影③
翌日は昨日の曇天が嘘のような蒼穹が広がっていた。だけど、この教室の空気はどこか淀んで見える。
朔耶は窓際の席で頬杖をつき、溜息を零した。
「やあ、朔耶。今日は珍しく沈んでいるじゃないか」
嬉々とした声に弾かれて顔を上げると、薫が飄々とした笑顔を浮かべて目の前に立っていた。
「薫、おはよ。昨日はいろいろ悪かったな」
「おやおや、生意気を具現化したような君にしては殊勝だね。どうしたんだい? 昨日の嫌がらせで参っちゃったのかな」
「ジュースぶっかけられたくらい、どうってことねぇよ」
憎まれ口を叩くと、薫が嬉しそうな顔になる。
天邪鬼な男だ。朔耶はへらへらと笑う薫に内心呆れた。
「うちのクラスも物騒だけど、世間も物騒だね。朔耶は知っているかい? 無差別毒殺事件のこと」
「ずいぶんと物騒だな、なんだよその事件」
「隣の県で数日前に起きた事件でね、スーパーで売っている冷凍食品を食べた一家が病院に搬送されたんだ。注射器で人体に害のある薬剤が混入されていたんだってさ。パッケージにごく小さな穴があいていたそうだよ。犯人はまだ捕まっていない」
「犯人は何を考えてそんなことしたんだろうな」
「さあね。でも、だいたい解るでしょう。ちっぽけな自分を否定したくて自己アピールに石を投じたか、世の中に対する鬱屈や恨みを晴らしたかったか、単に苦しむ人間の顔を想像して楽しみたかったか、そんなところでしょ」
「理解できない。顔も知らない奴に危害を加えようなんて腐った奴だな」
「人間なんてだいたいみんなどこか腐ってるよ。君みたいなタイプは珍しいと思うけど」
「褒めてるのか?」
「勿論だとも。いつも前だけ見て、壁があっても頭から突撃できる猪なんて貴重だよ。天然記念物に指定してもらえるレベルさ」
「褒めてねぇだろ。朝から腹の立つ奴だな、さっさとどっか行けよ」
犬を追い払うように手を振ると、薫は珍しく素直に立ち上がった。長い睫に縁どられた涼しげな褐色の瞳がじっとこちらを見る。
「口にするものには気を付けてね、朔耶」
いつもの揶揄いを含んだ声じゃなくて低く静かな声で告げると、その意味を問い返す間もなく薫は去っていった。
そのことが妙に頭の片隅に残った。
四限目の調理実習、耳の奥で不意に甦った薫の言葉は福音だったのかもしれない。
三、四限目の調理実習で二年一組はホワイトグラタンを作った。
四限目の半ば頃にどの班もグラタンを完成させた。そこまで何一つ、おかしなことはなかった。
朔耶は二学期に入ってから由貴子と同じ班で彼女の行動に警戒していたが、由貴子が授業中に嫌がらせを仕掛けてくることなかった。
調理室にはチーズが焼けた香ばしい匂いと、ホワイトソースのミルクの仄かに甘い匂いが漂っていた。
「いただきます」
全員が揃って班ごとに作ったグラタンを実食する。
寒い冬の時期、グラタンは食欲をそそった。みんな湯気があがった熱々のグラタンを美味しそうに食べはじめる。
朔耶は猫舌で、冷めるのを待ってからスプーンを手に取った。男子の中には、早くも完食している人がいる。朔耶と同じ班の一之瀬もその一人だ。
もうそろそろ大丈夫だろう。スプーンを手に取った瞬間、朔耶の頭の中に感電したかのように鮮烈に薫の言葉が甦った。
『口にするものには気を付けてね』
調理実習があるタイミングで、何故、薫はそんな物騒な忠告をしたのだろうか。
単に他県で起きた毒物混入事件のことを話題にしたから、冗談半分でそう言ったのか。
いや、違う。薫は意味のない冗談を言う男ではあるけど、あの時の口調は冗談を言う時のそれではなかった。
別の班の薫を振り返る。彼はグラタンを一口も食べていなかった。スプーンを手に取る素振りさえ見せない。
こめかみにじわりと汗が滲んだ。ねっとりとした嫌な汗だった。
このグラタンには毒が入っているかもしれない。そんな荒唐無稽な妄想がこびりつく。
とにかくストレートに「食べるな」と言おう。変な奴だと思われたって構わない。単なる被害妄想で何もなかったなら、それが一番だ。
立ちあがって声を出そうとした時、椅子が倒れる音がして悲鳴が上がった。斜め後ろを振り返ると、愛が口元を抑えて蹲っていた。
「愛、ちょっと、だいじょう……うっ」
朔耶の目の前でグラタンを食べていた由貴子が愛の異変に気付いて立ち上がろうとして、お腹を押さえて呻いた。
彼女の隣に座っている一之瀬も胃を押させて、嘔吐する。
「みんな、どうしたのっ?」
家庭科の中年の教師が驚いて立ち上がり、蹲る生徒に近付く。
「先生、おなか、痛いっ」
「ぐ、グラタンに毒が入ってたんだ、ぜったいそうだ!」
「ど、毒っ? た、大変だわっ。すぐに救急車を!」
家庭科教師が緊迫した声で叫び、内線電話をかける。
「き、気持ちわるい……」
「お腹が、ううぅっ」
「イタタタタッ、くそっ、なんでっ」
「ウゲェェッ」
「きゃあっ、やだぁっ!」
腹痛や吐き気を訴える生徒や、吐き戻す生徒までいて、家庭科室は一瞬にして地獄絵図と化した。
朔耶はただ、呆然とその様子を見ているしかできなかった。
結局、半数近くの生徒が病院に搬送された。
被害を受けた生徒は六班の内、二班、三班、四班の生徒だ。その班に属していて無事だったのは、グラタンを口にしなかった朔耶だけだった。
月葉も病院に運ばれていた。彼女は大丈夫だろうか。心配だ。
それにしても、いったい、何が起きたのだろう。
健康被害を受けず教室で待機するように命じられた残りの生徒達は、不可解な事件にショックを受けていた。
「愛ちゃんと由貴子ちゃんの班どっちもだし、やっぱさとこサマが……」
「あの二人、影でいろいろやってるもんね」
「さとこサマの罰だよ、きっと」
「やだ、怖いっ」
ヒソヒソと交わされる会話のなかに、さとこサマの名前が混じっている。
月葉も被害にあっているのに、さとこサマなはずがない。そもそも、あまりに非現実的だ。幽霊の仕業じゃなくて、誰か人間の仕業に違いない。でも、誰が何の目的で毒なんて盛ったのだろう。
朔耶は斜め後ろの席に座る薫を振り返った。
薫は無関心な無表情で、小説を捲りながらコンビニのサンドイッチを齧っている。その表情からは何も読み取れない。
薫は何か知っているのかもしれない。
話を聞いてみようと立ち上がろうとした時、まりえが近付いてきた。
まりえの口元にはにやりとした嫌な笑みが浮かんでいた。
「ザマアミロってカンジじゃない?」
まりえがひそめた声で言った。
朔耶が答えずにいると、まりえが続ける。
「高杉はハブにされてたしさ、ちょっとぐらい胸がスッとしたんじゃないの? 昨日、アタシとアンタに意地悪したバチが当たったのよ。きっと、さとこサマの呪いよ」
「確かに腹が立つ奴らだけど、ざまあみろとは思わない」
「ふん、あっそう。いい子ちゃん発言とか聞きたくないし」
まりえはつまらなさそうな顔をして離れていった。
彼女の周囲にどす黒いオーラが滲んでいるような気がして、ゾクリとした。
まりえは被害に遭わなかったぽっちゃり体系の明美を誘って、弁当を食べはじめる。 鼻歌でも歌いそうな顏が胸糞悪かった。
朔耶は気を取り直して薫に話しかけようとしたが、彼はすでに席にいなかった。
探してまで話す気にはなれず、弁当箱を開ける。
「ここ、いいかな?」
一人で弁当を食べていると夏月に話しかけられた。
意外な人物に驚きつつ、朔耶は机一杯に広げていた二段弁当を端に寄せ、隣の席の椅子を引っ張った。
「座ってくれ」
「ありがとう、お邪魔します」
夏月が愛想よく微笑して、椅子に腰を降ろした。
「ごめんね、急に。いつもいっしょにお昼を食べてる子がみんな、病院に運ばれちゃったから」
夏月が眉をハの字にさげる。
「私は別に構わない。いつでも誰でも歓迎だ」
「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいな」
夏月が薄っすらと歯を見せて笑った。爽やかと穏やかの中間ぐらいの笑顔は誰にでも好かれそうないい笑顔だ。
「高杉さん、自分でお弁当作っているんだよね? 偉いんだね」
「よく知っているな。まあ、偉くもなんともないけどな」
「偉いよ。わたしは家事なんて一切してないよ。勉強で手いっぱい。高杉さんはテストや模試の成績は毎回学年二位だし、スポーツ抜群だし、おまけに料理まで得意なんてすごいね。お弁当、すっごく美味しそう」
「料理はまあずっとやってるから。嫌でも上達するさ」
「わたしはまず、料理しようって気が起きないかな。お母さんも、家事なんて大学受かってから学べばいい、今はともかく勉強しろって言うから。お母さん、勉強の成績以外はどうでもいいって言うんだよ」
夏月は笑いながら言ったけど、その顔は浮かない顔だった。
「辻井は、勉強以外にしたいことがあるのか?」
「え、どうしてそう思うの?」
「いや、なんとなくそんなふうに見えた。そうだ、立花が『夏月は絵が得意なんだ』って自慢していたぞ。美術関係の仕事に就きたいとか?」
「そんな、得意なんて。月葉は買いかぶりすぎだよ。でも、絵を描くのは好きかな」
「いいな。私はあんまり絵は得意じゃないんだ」
「意外だね、高杉さんってなんでもできそうなのに。歌も上手いし」
「歌うのは好きだ。でも、立花ほどじゃないさ」
「月葉は歌手になりたいって言っているぐらいだから。綺麗な声だよね、月葉。鈴を転がす声っていう感じで素敵だよね」
「ああ。澄んだいい声だ」
「高杉さんもいい声だよ。ハスキーさがあって、かっこよくて色っぽい声だと思うよ。月葉とデュエットとかしたら、すごくよさそう」
どんなことを話していても、夏月の口からは月葉の話ばかりでてきた。
一年生の頃から二個一なところのあった二人だけど、本当に心から仲がいいのだと再確認する。愛達の介入で一時期二人の仲が引き裂かれていたこともあったけど、根底では二人はちゃんと繋がっているようだ。
夏月は朔耶の知らない月葉の顔をたくさん知っている。そのことがほんのちょっと羨ましかった。
弁当が空になってからも、夏月は楽しそうな顏で他愛のない話を続けていた。
その夏月の顔がふっと翳る。
「こんなふうに高杉さんと喋ったの、はじめて。いつもはその、あまり高杉さんと仲良くしたらだめって雰囲気だから」
「麻生や今藤がいる時に私と喋っていると嫌われるからか?」
「う、ん。ごめんね」
「謝らなくていい。別に嫌われ者でもいいさ、ちゃんと友達はいるからな」
「強いんだね、羨ましいな」
「辻井も、本当は麻生たちに従いたくないんじゃないか? 麻生たちに命令されて、嫌なことをさせられているんだろう?」
夏月の顔がびくりと強張った。叱られる前の子供みたいな顔でこちらを見る。
「責めたいわけじゃないんだ。麻生たちはクラスの中心だから、拗れると色々あるのもちゃんとわかっている。だけど、嫌なことをさせられて、それでも笑って従い続けるのも辛いんじゃないか?」
夏月の瞳が揺れた。さっきまで笑っていた口角が下がる。
「どうしようもないよ。わたしは弱いから」
「そうやって逃げて、後悔しないか?」
「じゃあ、どうしろって言うのかな。嫌だって言ったら、機嫌を損ねたら、今度は自分がやられる番だよ」
「助けてって言う、とか……」
「誰に助けてもらえるの?」
夏月に真顔で問い返されて言葉に詰まった。
黙っている朔耶に夏月が畳みかける。
「だって、先生も味方になってくれない。愛ちゃんは表ではいい子を演じて優等生だから。それに、愛ちゃんは頭がいいから自分が犯人じゃないって隠蔽するよ」
確かにこの学校の教師はあてにならない。いじめなどという低俗な悪印象で星園高校の名が傷付くのを避けるのに、見て見ぬふりをする。
重苦しい話題のせいで朔耶も夏月も自然と口が重くなった。
どんよりした沈黙の後、夏月が恐る恐るといったていで口を開く。
「……あのね、高杉さん。こんなこと、言うべきじゃないかもしれないんだけど、言っておいたほうがいいのかなって思って」
「なんだ?」
「月葉がね、ちょっと高杉さんのこと怒ってたんだよね」
月葉の名前とネガティブなワードが同時に発せられて、朔耶は俄かに緊張した。
口の中に溜まった唾をごくりと喉を鳴らして飲む。
「立花が、なにを怒っていたんだ?」
「正義の味方面していい気になってるって、言ってたの」
指先がすっと冷たくなるのを感じた。身に覚えのある罵倒だ。
「ほら、小百合ちゃんの下着の事件、覚えているかな。あの時、高杉さんが愛ちゃんたちにくってかかったでしょ。わたしはそのこと、かっこいいなって思ったよ。でも、愛ちゃんたちは余計に腹が立ったみたいで、それで葬式花の嫌がらせを考え付いたの。あ、ここだけの話にしてね。わたしが愛ちゃんたちの仕業だとばらしたって知れたら、酷い目に遭うから」
「ああ、それは勿論だけど―…」
小百合が不登校になった嫌がらせのきっかけを作ったのが自分だった。助けるつもりで、かえって追い詰めるようなことをしてしまっていたのか。
朔耶はショックを受けた。
「あの、大丈夫かな?」
気遣わしげな顏で夏月が朔耶の顔を覗き込む。
朔耶は「ああ」と掠れた声でなんとか返事をした。
「まりえちゃんの時も、高杉さんが助けに入ったでしょ。わたしはいいことだと思うけどね、月葉は気に入らないみたいなの。その場限りで助けても、どうせ助けきれなくて事態を悪化させるだけだって怒ってたの。それにね、自分だけは同調圧力に屈しませんって態度が、愛ちゃんたちのいいなりになっている他の子のことを馬鹿にしているみたいでムカつくって。愛ちゃんたちに逆らえなくていじめに加担していることを責められているみたいで、苦しいって言ってたの」
思い当たる節だらけで胸が痛かった。
月葉がいじめられだした時、朔耶はいじめを目撃したらそのたびに愛たちに牙を剥き、批判した。そのことが月葉を余計に苦しめることになっていたのではないか。
「高杉のせいで余計に惨めになる。もう、放っておいて! あたしにとってはあんたも敵だから。馬鹿にしないで!」
以前、月葉にぶつけられた言葉だ。
今でも朔耶を苛む月葉の言葉が、あの時の彼女の激高した声と憎悪の宿った瞳と共に鮮明に甦る。
「ごめんね、高杉さん。わたし、べつに高杉さんを哀しませるつもりで言ったわけじゃないよ。ただ、高杉さんは正しい行動をしているけど、それに対して不快に思う人もいるみたいだから、変な恨みを買わないように気を付けてって言いたかっただけだよ。本当にごめんなさい」
夏月が焦った顏で頭を下げる。
「いや、気にしないでくれ。心配してくれてありがとう、心に留めておく」
「本当に、気にしないでね高杉さん。月葉には嫌われていても、高杉さんが優しくて強い人だって思っている人は沢山いるから。わたしもそうだから」
「気を遣わせて悪かったな、辻井」
朔耶は夏月に軽く頭を下げた。
顔を上げた時、明るい笑顔を浮かべる余裕はなかった。
胸の奥がズキズキと疼く。昨日月葉から貰った「好き」という言葉が凍えて、胸の奥に氷柱となって突き刺さっている。そんな気がした。
その日、病院に運ばれたクラスメイトたちは帰ってこなかった。
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