第三章 不穏な影②
英語の授業を終えて昼休みになった。
一人で弁当を食べていると、青木がやってきた。右手にはコンビニの袋、左手にはふわりと白い湯気がのぼる紙コップを持っている。
「おー、朔耶。いっしょにメシ食おーぜ。ほい、これオゴリな」
差し出された紙コップを両手で受け取る。
「ありがとな、青木。はぁ、あったかい」
「冬はコンポタだよなー」
「うん、美味い」
とろりと温かいコーンポタージュのおかげで、冷えていた身体が芯から温まっていく。午後からも寒さに負けずにがんばれそうだ。
弁当を食べ終わると、青木に他のクラスの陸上部の仲間と運動場で野球かサッカーをしようと誘われたが、気分じゃなかったので断った。
ガッカリした様子の青木には申し訳ないが、カッターシャツ一枚で寒空の下に出たくない。寒さは苦手だ。
大人しく席で読書に没頭していると、すぐ傍で愛らしい悲鳴が響いた。同時に頭から水を被る。
肌に感じる緩い刺激、爽やかな檸檬と甘ったるい砂糖の香り。
冷たさにびっくりして思考停止に陥る朔耶の視界に、どこぞの悪魔よりも性質が悪そうな顏をした愛が入り込む。
「ごめんね、高杉。あい、机の脚につまずいちゃって」
心底申し訳なさそうな声で愛が謝罪を口にする。その隣には由貴子の姿もある。
彼女達を一瞥し、視線を床に向ける。足元に転がる紙コップと小さな無数の氷。頭から紙コップのジュースをかけられたようだ。
「ちょっと高杉ぃ、マジ大丈夫ぅ? びしょ濡れじゃん」
「本当にごめんね。でもレモンスカッシュでよかったぁ、染みになりにくいね」
愛と由貴子の瞳の奥に愉悦が滲んでいた。確実に態とやったのだろう。
腹立たしかったけれど、申し訳なさそうな表情をしているので怒るに怒れない。
「オイオイ、どーした。おっ、高杉濡れてるじゃん。エロくね?」
にやにやしながら舐め回すような視線を寄越してきた一之瀬を睨みつけ、朔耶は手で胸のあたりを隠す。
濡れたせいでシャツが透けている。この時期はインナーを着ていないのが災いした。もっと寒い季節か、逆に暑い季節なら濡れてもインナーが透けるだけで済んだのに。
「ほんとだぁ、高杉その格好はちょっと不味いんじゃないかな」
「ちょーエロいじゃん、ブラ見えそう。まじウケるー。ヤバッ」
愛と由貴子が一之瀬と一緒になって騒ぎ立てる。そのせいで、教室にいる他の生徒の視線が一斉にこちらに集まる。
「しっかし、マジでエロいなー」
「ジロジロ見てんじゃねぇよ一之瀬。あっち行け」
「ケチケチすんなよ、高杉。心はオトコなんだろ、だったら景気よく見せろって」
「一之瀬の言う通りだな。隠すくらいなら、キャミソールを着てこればいいだろう」
「松島ナイスつっこみ。そうそ。カッターシャツしか着てねーとか女子の自覚なさすぎだっての。ムネはでっかくてカラダは一丁前の女なのにな」
「ああ、自業自得だな」
「せっかくだし、サービスしろよ」
一之瀬がやにさがった顔で手を伸ばしてくる。
いつもは凶暴で色気がないと男扱いの癖に、今はしっかりと欲望を滲ませている一之瀬に腹が立った。
下着を見られるのは癪だが、馬鹿にされるのはもっと癪だ。大立ち回りでもしてこいつらをぶっとばしてやろうか。
物騒なことを考えていたら、背後から上半身を隠すようにふわりと温かいものに包まれた。
振り向くと、カッターシャツ姿の薫がすぐ後ろに立っていた。どうやら、彼がブレザーをかけてくれたようだ。
まさか、薫が親切にしてくれるなんて。
目をパチクリする朔耶と一之瀬の間に薫がずいと身を割り込ませる。不快な一之瀬の視線が薫の背中で遮られた。
「朔耶から離れろ」
薫が静かな怒りに満ちた低い声で告げた。
彼はいつもの温厚な表情を潜めさせ、氷の刃みたいな瞳と真一文字に引き結んだ唇の冷酷で恐ろしげな顔をしていた。
お調子者の一之瀬ですらからかえない、黒々とした怒気を滲ませた薫に教室の温度が一気に下がった。
愛たちに同調して朔耶をからかっていたクラスメイトが一斉に口を噤む。
「行こう、朔耶」
「え……、あ、ああ」
間抜けな返事をする朔耶の肩を抱いて、薫が教室を出る。
「大丈夫かい?」
「薫こそ、大丈夫か?」
「何がだい?」
私に嫌がらせばかりしているお前が私を助けるなんて、熱でもあるんじゃないか。
口から出かかった言葉を飲み込み、朔耶は怪訝な顏で薫を見上げた。
「そんな顔しないの。助けてあげたのだから、感謝して欲しいね」
「あまりにも意外だったから、つい。薫、ありがとう」
「ふふ、どういたしまして。さて、保健室に到着だ」
薫に肩を抱かれたまま保健室に入る。
薫は若い保健の先生から手際よく七号のブレザーとカッターシャツを借りた。
「はい、どうぞ。早く着替えておいで」
薫に背中を押されてアイボリーのカーテンの向こうに入る。
柔らかな黄色の空間は春の陽だまりの中のようだ。病人のために空調を整えている保健室は消毒薬臭いものの、過ごしやすい暖かな空気に満ちていた。
薫のブレザーを脱ぐと、不覚にも少し心許なさを覚えた。あの薫に頼りがいを感じたなんて、ちょっとだけ癪だ。普段はぶん殴りたいぐらい腹立たしい奴なのに。
「ヒーローかっての、ガラじゃねぇくせに」
ぽつりと呟いた自分の柔らかな声で、嫌いだと言いながらも、本当はそうでもないのだと思い知る。
カッターシャツとブレザーに袖を通し、ちょっとだけ熱くなった頬を手で煽いで冷ます。
澄ました顏をつくったつもりだけどちゃんとできているだろうか、少し不安だ。
情けない顏を見られたくない、できれば薫がいないといいが。
朔耶が深く息を吸い込み、アイボリーのカーテンを引いた。
意外にも薫はまだそこにいた。普段は嫌な奴だが、実は親切なのかもしれない。少しだけ、彼のことを見直した。
「薫、ありがとう。ブレザーちょっと濡れたかもしれない。それにジュースの香料もついちまったかも。悪い、洗って返すから」
「べつにいいよ。昼休みが終わるまで時間があるけど、教室に戻るかい? 怖くて戻りたくないって言うなら、校庭の散歩にでもつきあうけど」
「この私が何を怖がるって言うんだよ。腹立つだけで、怖くはない」
「君ならそう言うと思ったよ。まったく可愛げがないねえ」
保健の先生に言って保健室を出ようとした。
その時、保健室のドアが開いた。そこには月葉が立っていた。
「立花」
朔耶が名前を呼ぶと、月葉はそっと瞳を伏せた。
保健室に用事なんて体調が悪いのだろうか、それとも何処か怪我をしたのだろうか。
心配がよぎるが、質問するのを堪える。自分が何を聞いても、彼女にとっては余計なお世話で迷惑でしかないだろうから。
「悪い、邪魔だよな」
月葉が入室できるように一歩脇にずれると、月葉は俯いたまま保健室に入った。ゆっくり顔を上げた月葉の視線が薫に逸れる。
お邪魔虫はさっさと退散すべきだ。
朔耶は「失礼しました」と告げて、開きっぱなしのドアから出ようとした。
それを阻止するように、月葉が後ろ手でドアを閉める。
月葉の瞳が朔耶を真っ直ぐに捉えた。
「高杉、大丈夫?」
意外な言葉に朔耶は面食らう。
「ん、あ、ああ。平気だ」
「服、借りられてよかった」
「流石にカッターシャツ一枚では寒いしな」
「そうじゃなくて、その、濡らされてたから」
「ああ。まあ、麻生もわざとじゃないだろうし、いいさ」
月葉が俄かに顔を歪めた。
「本当は故意的だと思ってるんじゃないの?」
図星だ。愛がジュースを零したのは狙ってだろう。
だけど、愛と仲がいい月葉の前で愛を悪しざまに言ったら、月葉が傷付く。
朔耶が黙っていると、月葉がぎゅっと眉根を寄せた。
「一之瀬君も、あんなふうにからかうなんて最低」
「一之瀬は確かに最悪だな」
「だよね。でも、愛も酷いと思う。なんで、誰かを攻撃せずにはいられないだろう。嫌いなら構わなければいいだけで、わざわざ追い詰めるなんて、あたしは嫌」
小さな拳を握る月葉を、綺麗だと思った。
愛と由貴子と奈々の華の三人組から目をつけられて、沈んでしまう前の月葉が戻ってきたみたいだ。
月葉は目立つ生徒じゃなく、人見知りで大人しかった。だけど、華の三人組が一人の女子を徹底的に攻撃する陰湿で凶悪ないじめを行い、他の生徒たちがそれに同調しても、月葉は同調しなかった。
理不尽な弱い者いじめになんて絶対に加担しない。彼女の瞳の奥にはそんな強さが秘められていた。
月葉にある清廉な部分を愛しいと思う。
彼女の手を握りたい衝動に駆られる。だけど、彼女に嫌われている自分が触れてもいいのだろうか。
迷っていると、月葉が手を握ってきた。
「高杉はすごいと思う」
「立花のほうがすごいさ」
「あたしが? ぜんぜんそんなことない」
「立花は麻生達から酷い目に遭わされていたのに、一人で耐えていた。それに、麻生たちがシカトしていた生徒もシカトせずにちゃんと話しかけていたし、悪口を書いた手紙を回さずに捨てた」
「今は、同調してるから」
「あんな目に遭ったんだ、しょうがないさ。私はお前は強いと思うぞ」
微笑みかけると、月葉の瞳の奥がゆらりと揺らいだ。
急に迷子みたいな顏になった月葉に、朔耶はギクリとする。
「あたし、強くない」
「立花?」
「強いのは高杉のほう。あたしも、高杉みたいになれたらよかったのに」
「いや、私は―…」
月葉に潤んだ瞳でまっすぐ見つめられてドギマギしていると、薫がずいっと間に割り込んできた。
「僕も朔耶はすごいと思うよ」
「対馬君」
薫に顔を近付けられて、月葉は大きい目を丸く見開いた。
月葉が慌てて朔耶と薫から離れる。朔耶の手を握っていた手が離れていった。
「月葉ちゃんは優しいねえ。朔耶を心配して来てくれたのかい?」
「そ、そんなんじゃない。あたしは、優しくなんてないから」
「謙遜だね。朔耶はガサツなゴリラで女子から嫌われまくっているのに、愛ちゃんたちの目を忍んでとはいえ、わざわざ保健室に様子を見に来るなんて、とっても優しいよ」
嫌われまくっていて悪かったな。それに、誰がゴリラだ。
朔耶は出かかった文句を飲み込んだ。
以前、月葉の前で薫といつものように小学生レベルの口喧嘩を繰り広げて、あとで月葉に「対馬君と仲良しアピールはやめて! 痴話喧嘩なんてしないでよ、みせつけないで!」とひっぱたかれたのを思い出したからだ。
文句を言うかわりに、ジロリと薫を睨みつける。
「月葉ちゃんはいい子だね」
薫が月葉の頭を撫でる。
月葉が顔を強張らせ、びくりと肩をはねさせた。
恋愛に奥手だから照れているのだろうか。
いや、薫は月葉に対して一時期とても積極的だった。それこそ公衆の面前で髪を撫でたり、手を握ったり、頬に触れたりしていたぐらいだ。今さら頭を撫でられただけでこんな反応はしないだろう。
怪訝な顏をする朔耶に気付いたのか、月葉は顏の筋肉を解して笑みを浮かべた。
その笑顔は、薫が浮かべるポーカーフェイスの笑顔の仮面に似ていた。
「対馬君に褒められて、嬉しい。でも、ちょっと恥ずかしい」
やんわりと薫の手から逃げると、月葉は笑顔を消して朔耶を見た。
「高杉、いろいろごめん」
突然の謝罪に驚いて、朔耶はマジマジと月葉の顔を見る。
月葉は苦々しい笑みを浮かべた。
「突然謝られても困るか。でも、ごめん。あのね、高杉は女子に嫌われてないと思う。みんな、愛たちに逆らうのが怖いだけ。あたしは、あなたのこと好きだから」
早口で告げると、月葉は逃げるように保健室を飛び出していった。
朔耶はぽかんとした顔で月葉が消えたドアの向こうを見詰める。
好きだから。
月葉の言葉が胸にじんわりと染みる。嬉しくて、思わず口元が緩む。
せっかく浮上した気分を、薫の聞えよがしな溜息がぶち壊した。
「口が悪いのは昔からだけど、いつから君は本当の男みたいになってしまったんだろうね。男の制服なんか着ているから、雄化してしまったのかな」
「余計なお世話だ」
隣に立つ薫の方を振り向く。
きっと厭味ったらしい顔をしているのだろう。そう思っていたのに、薫は予想外の顔をしていた。
薫は小さく眉間に皺を寄せて目を伏せ、唇を歪ませていた。どことなく哀しげな表情に不意に胸を衝かれる。
「君は昔から男勝りだけど、性の不一致はなかったはずだ。女性としての性に未練はないのかい?」
静かな声で投げかけられた疑問が胸に波紋を広げる。
「私は……」
「お兄さんのことは残念だったよ。でも、君の所為じゃない」
「やめろ、その話は」
「お兄さんを殺したのは君じゃないだろう。君の父親は間違っている、君は父親の奴隷じゃないんだ、従う必要はない。なのに、何故君は贖おうとするんだい?」
「やめろ!」
叫んだ朔耶を薫が抱き締めた。
痩せてひ弱そうに見えても胸板はけっこう厚くて、彼が男だということを意識させられる。
抱き締められて、頑なな自分の心が揺れるのを感じた。
二度と、あんな哀しい思いはしたくない。だから、強くならなくちゃいけない。いつだって守る側でなければいけないのに―…。
頭の中で怒りに満ちた父親の低い声が響く。
『月雄が死んだのはお前を庇ったせいだ。お前は月雄の分を生きなくてはならない。今日から俺はお前を息子として扱う。お前はそれに答えろ、それが罰だ』
八つ年上の兄の月雄は、政治家として家庭を顧みずに突き進む父親にとって、大事な跡取り息子だった。
文武両道な上に男前で優しくて、完璧な人だった。父親が孕ませた愛人のホステスの娘で腹違いの妹だった朔耶にも優しかった。
月雄がまだ小学校四年生の時に、朔耶の母は二歳だった朔耶を連れて高杉家にお手伝いとして転がり込んだ。
そのせいで正妻だった月雄の母は月雄を捨てて、高杉家を出て行ってしまった。
だけど、月雄は一度もそのことで朔耶も朔耶の母も責めなかった。父親が朔耶の母や朔耶に冷たく接しても、月雄はずっと優しかった。
優しい人だったから、彼は早く逝ってしまった。
忌まわしい事件が起きたのは朔耶が小学校五年生の寒い冬の日。
父と母が政治関連のパーティで県外に二人で宿泊している夜、刃物を持った強盗が高杉家に忍び込んだ。
一階の窓を割って侵入した強盗は、物音に気付いて、何事かと様子を見にやってきた朔耶を殺そうとした。
その強盗から朔耶を庇い、月雄は強盗と揉み合って強盗と共に倒れた。
刃物が腹部に刺さって出血多量で意識不明に陥った兄は、意識不明のまま二年ほど生きていたが、その後、還らぬ人となってしまった。
ちなみに頭を打って気絶していただけの強盗は軽傷で済み、今も服役中だ。
唇を噛み締めて黙る朔耶を、薫がぎゅっと抱きしめる。
彼の手は少し震えていた。
「ごめん、朔耶。君を傷付けたいわけじゃなかったんだ、信じてほしい。ただ、君が心配なんだ」
「心配なんていらない、私は大丈夫だ」
「大丈夫じゃない。君がお兄さんに助けられたからって、今度は誰かを救う義務が生じるわけじゃない。頼むから変な使命感は捨ててくれ、朔耶」
「なんでそんなことを急に言い出すんだ?」
「そうだね、なんて言おうか……。死者の吐息を感じるから、かな」
何の隠喩なのかわからない言葉だ。単に揶揄われているのだろうか。
薫の真意を探ろうと、朔耶は彼の腕の中から顔を見上げる。
薫は酷く深刻な顔をしていた。少なくとも冗談を言いたいわけではなさそうだ。
「薫、わかるように話してくれ」
「確実なことはわからない。だけど、僕らのクラスでは恐ろしいことが起きようとしている。いや、すでに起きている」
「噂になっている、さとこサマの呪いってやつか?」
「さあね。でも、おおざっぱな意味で言うなら幽霊はいる。それも悪霊だ。充分に用心した方がいい」
忠告を終えると、薫の腕がするりと離れた。
彼は何事もなかったかのように、いつもの飄々とした笑みを浮かべて去っていく。その後ろ姿を朔耶はじっと見つめた。
だけど、いくら真意をはかろうとしても彼の心は見えなかった。
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