第三章 不穏な影①
ナイフの切っ先のような鋭く冷たい風が頬を撫でていく。
尻尾のように一房だけ長く伸ばした襟足がひらりと風に踊った。少し癖毛な薄茶の髪を手櫛で直しながら、朔耶は寒さから逃げるように足早に校舎に入った。
「おはよう」
挨拶しながら教室に入るが、相変わらず女子からの返事はない。
気付いていないふうを装う者、視線を向けつつも友達と喋っている者、こちらをチラチラ見ている者と、反応は様々だ。
「よぉ、朔耶。急に寒くなったなぁ」
クラスで一番仲がいい同じ陸上部の男子、青木が人懐っこい笑みを浮かべて話しかけてくる。
十一月にはいったのにカッターシャツ一枚の姿の青木に、朔耶は眉を顰めた。
「青木、その格好じゃ寒いに決まってんだろ。ブレザー着てこいよ、見てるこっちまで寒くなる」
「いやぁ、箪笥から出すの面倒で」
「風邪引くぞ、馬鹿。明日からはちゃんと着てこいよ」
「おっ、心配してくれてんのか? だったら朔耶の上着貸してくれよ」
「嫌だ、私がさみぃだろ」
「ハハ、冗談だって。朔耶のちっこい上着じゃ入らないし。入ったとしても、男のおれが女のおまえに風邪を引かせちゃいけないだろ」
「はっ、なに紳士みてぇなこと言ってんだよ」
軽口を叩きながら窓際の自分の席に座る。
小百合の席は相変わらず空席だ。朔耶は小さく息を吐く。
二学期がはじまり、月葉の代わりにシカトの標的になってから、小百合は話しかけてくるようになった。
ひとりぼっちよりは誰でもいいから傍にいてくれたほうがましだ。小百合がそう思っていたのは透けて見えていたけど、べつに嫌な気はしなかった。
小百合の話はかっこいい芸能人やこれまで好きになった男、片思いの人など、自分とは無縁の恋の話が多く、なかなか新鮮で楽しかった。
小百合の机に飾られた立派な菊の花が脳内を過る。
あんな陰湿な嫌がらせをしたのは誰だろう。十中八九、愛たちの差し金だろうが、証拠はない。実行犯も謎だ。
あの時の小百合の落ち込みようを見ると、菊の花を飾る以外にも何か嫌がらせをされていたのだろうが、いくら聞いても小百合は何も教えてくれなかった。
高校一年生の時から顔ぶれの変わらないこのクラスは、明るく楽しい結束力のあるクラスを演じていても、水面下では集団でのシカトや陰険な嫌がらせが起きている。
可愛くて運動も勉強も優秀なクラスの中心人物の愛に嫌われた朔耶は、早々に女子の輪から外されていた。
それは別にかまわない。どうせ、男として生きなくてはいけないのだから。他の人が標的になるくらいなら、自分がいじめの標的になったほうがいい。
だけど残念ながら、狡猾な愛たちが標的にするのは抵抗力の弱い人間だけだ。
ここ最近、星園高校では嫌なことが立て続けに起きている。それも二年一組ばかりで。
最初の犠牲者は南奈々。授業で顏に火傷を負い、その三日後に線路に転落して死亡。
次の犠牲者は横尾。プールに浮かんでいるところを辻井夏月と立花月葉が発見して、警察の捜査で溺死と判明。
どちらも単なる事故で片付き、表向き学校は平常を保っている。けれど、不穏が密やかに渦巻いているのを肌で感じる。
いや、このクラスはいつも不穏と隣り合わせだった。入学早々異端児扱いで女子の輪からはじき出された自分とは別に、常に密かにスケープゴートが一人用意されていた。助けようと手を伸ばしても、その手はいつも届かない。
昔からお転婆で喧嘩が強くて体も丈夫だった。カツアゲ、集団リンチを目撃したらいつでも誰が相手でも首を突っ込んだ。今のところ負けなしだ。
だけど、影で行われるいじめはどうしようもない。愛、由貴子、奈々が中心となって行う女子間のいじめは陰湿で卑劣で防ぐのも摘発するのも困難だ。担任教師も学校も面倒を避けたがり、いじめなどなかったこととして扱う。
幸いなことにこれまでは不登校になる生徒はいなかった。
だけど二年生の二学期に入ってからは違う。まず、小百合が登校拒否になった。それがきっかけのように、奈々と横尾が相次いで事故死。二つの事象に因果関係があるような気がしてくる。
ちらちらと耳に入る忌み名。さとこサマの呪いだとまことしやかに囁く声が、日増しに大きく響くようになった。
さとこサマの怪談はあまりに有名で、クラスの女子との人間関係が希薄な朔耶でも、耳にしたことがある。
自殺したいじめられっ子のさとこが、いじめっ子に鉄槌を下すべく神様となり、学校で起きる悪事を見張って罪人に罰を下すという噂だ。
「やあ、朔耶。今日も元気そうだね」
気配もなく耳元で声がした。
顔を上げると、飄々と笑う薫の顔がすぐ傍にあった。
「いたのかよ」
「ご挨拶だね、いたよ。相変わらず女の子らしくないねえ、君は」
「ふん。私が女らしくっても、お前はどうせ気持ちわりぃって貶すだろうが」
「拗ねているのかい?」
「拗ねてない」
大抵の人間が怖がって逃げていく鋭い視線を投げつけるが、薫は平然とした笑顔を崩さない。
「大丈夫、君は可愛らしいよ。顔の造りと身長だけはだけど。表情も性格もちっとも可愛くないんだから」
「そりゃどうも。さっさと失せろよ、私は読書したいんだ」
つれない言葉を投げつけ、鞄から本を取り出して読みはじめる。
さっさとどっかに行けと念じるが、薫は前の席に座って机に肘をつき、楽しそうにこちらを見詰めていた。
「なんだよ、薫。まだ何か用でもあんのか」
「最近、物騒だよね」
「このクラスのことか?」
「まあね。ふふふ、呪われていると思わないかい」
「怖いこと言うなよ。さとこサマなんて、私は信じてない」
「さとこサマはいると思うよ」
「何十年も前に死んだ少女の霊がいるとか、ありえないだろ」
「このクラスの人間を呪っている怨霊は必ずいる」
不吉な言葉に思わず顔をあげると、薫と目があった。
いつものふざけた顔じゃない。冷めた目は預言者めいていた。
薫の視線がふっと左に流れた。彼の視線の先には月葉が座っている。
百五十センチに満たないクラス一チビの自分と少ししか背が変わらない、小柄な月葉。
ショートヘアの髪がさらりと揺れて、彼女がこちらを見た。
薫が女誑しの笑みを浮かべて、ひらりと月葉に手を振る。その途端、月葉の顔に満面の笑みが広がった。
胸の奥が小さく軋む。今でも月葉は薫を好きなのだろう。
薫を好きな女子は多い。小百合もそうだった。クラスの半数近くが彼に大なり小なり好意を寄せている。
薫は身長が高く手足が長くてすらりとしているし、くっきり二重の涼やかな瞳に長い睫毛、高い鼻に形の良い艶やかな唇と顔立ちも美麗だ。
だけど、美しいのは外見だけだ。
小学校からずっと一緒だった朔耶は、薫がいかに上手に紳士的な優男の面を被っていようと、その仮面の下には悪魔がいることをよく知っている。
頭の回転が速く人の感情の動きを容易く掌握する薫はその聡さ故か、愛想よくみせかけて、心の底では人間嫌いだ。彼は自分が犯人と悟らせないように人を罠に嵌めて楽しんだり、自分に好意を寄せてくれた女を誑かしてポイ捨てしたりと、やりたい放題だ。人の痛みなど気にも留めない。
朔耶は月葉と一時期は仲良がよかった。だけど、いろんなボタンの掛け違いで、月葉に憎まれるようになった。
その要因の一つは間違いなく薫にある。
大人しくて目立たない月葉と親しくなったのは去年の十月の合唱コンクールの時だ。
ソプラノのパートリーダーに選ばれた月葉と、アルトのパートリーダーに選ばれた朔耶は二人で打ち合わせをしたり、練習の準備をしたりする機会があった。
「立花は歌が上手いんだな。恥ずかしがって声を出さない奴もいるのに、お前はいつも堂々と歌っていて、すごいな」
朔耶が褒めると、月葉はオドオドした顏から驚いた顏になった。
「そういう高杉も歌、上手いから」
「歌うのが好きなんだ、陸上部か合唱部かさんざん迷ったよ。お前は合唱部だったな」
「うん。高杉も合唱部希望だったんだ。上手いから、こればよかったのに」
「歌姫に褒めて貰えて光栄だな」
歌姫という言葉に月葉は嬉しそうに笑った。
暗い印象があったから、こんなに明るく笑える奴だったのかと意外だった。
「あたしね、歌手としても活躍する声優になりたいんだ」
「将来の夢があるのか、すごいな。私はまだ進路なんて決めてない」
「お母さんはいい大学に入って、国家公務員か教師になれって反対してる。でも、密かに夢を追ってるんだ。ぜったい、なってみせる」
「応援してるぞ。夢を叶えたらファン一号にしてくれ」
「嬉しい。あたし、頑張る」
月葉が歯を見せて笑った。長い前髪が揺れて、隠れがちな目が露わになった。その目がとても澄んでいたことを今でもよく覚えている。
歌の練習をきっかけに彼女との距離が縮まり、教室でもたまに彼女と喋るようになった。友達になれると思っていた。
だけど、薫が月葉にちょっかいを出すようになって、少しずつ関係が崩れていった。最終的には彼女に嫌われて敵とみなされてしまった。
二年生になってからは、一度たりとも彼女に笑顔を向けてもらえてない。
薫を見ていた月葉の視線が、薫の向かいに座るこちらに逸れる。
氷の眼差しを向けられるかもしれないと、朔耶は身構えた。
月葉のぱっちりとした瞳が数秒、じっくりと朔耶を映し出す。彼女の瞳には憎しみは宿っていなかった。どんな感情も読み取れない、あるいは最初から感情のないカメラのレンズみたいな目だった。
すっと月葉の視線が逃げていく。彼女は愛に呼ばれて席を離れた。
「月葉ちゃん、変ったよね―…」
ぽつりと薫が呟いた。
その声があまりにも冷たかったので、朔耶は思わず眉根を寄せた。
「変わっちゃいけねぇのかよ。私は立花が明るくなって、よかったと思うけどな」
「沈没船って感じだったのに、よくあそこまで浮上できたものだ」
薫が眉を下げて大袈裟に肩を竦める。
その態度が朔耶の神経を逆撫でする。
「その人を見下した発言、どうにかならねぇのか?」
「見下すなんてとんでもない、僕は感心しているんだよ。夏休み明けの彼女はまるで羽化した蝶みたいだった。素晴らしい、人ってあそこまで変れるものなんだね。今の月葉ちゃんも素敵だね。また構いたくなっちゃうよ」
「……立花を誑かすなよ」
「嫉妬かい?」
薫が見透かすような瞳で朔耶を見詰める。
朔耶は吊った猫目を細めて薫を睨みつけると、鼻を鳴らして窓の外に目をやった。
色付いた銀杏は美しいが、全体的に景色が枯れてモノトーンになりつつある。空は重苦しい鉛色をしていて、どことなく不吉な気配が漂っていた。
壁には耳も目もない。ちょっと頭が回って用心深い性格ならば、誰にもばれずに悪事を働き放題だ。
その証拠に体育で教室が空っぽになったあとは、よく小さなトラブルが起きる。小百合の時もそうだった。
体育を終えて教室に戻ると、制服の上着とカッターシャツがロッカー付近の床に放り出されていた。ただ無造作に落ちていただけじゃない、上着もカッターも誰かの悪意に塗れていた。
白くて粘り気のあるものがところどころにべったり付着し、周囲に封を切ったピンク色のコンドームが散らばっている。カッターシャツは皺だらけでヨレヨレだった。
卑猥な光景に、朔耶は体操服から制服に着替えるのを忘れて呆けていた。
「なによこれ……」
まりえが床にへなへなと座り込み、震える指先で制服を手に取る。どうやら彼女の制服だったようだ。
まりえが制服を持ち上げた拍子に、一枚の紙がひらりと舞い落ちた。誰の字か分からないほど乱雑な赤い字で、淫乱女と書いてあった。
「ひ、ひどい……、あんまりだわ」
打ちひしがれるまりえを見て、愛と由貴子が忍び笑いをしている。
愛と由貴子が首謀者だとすぐにわかった。だけど、彼女達は実行犯ではない。小百合の時と違って今回は愛たちが体育館に向かったのは最後ではなかったし、授業中に抜け出す素振りもなかった。
きっとまた、誰かを脅して嫌がらせをさせたのだろう。
「まりえ、きっしょ。コンドぶちまけられるとか、ヤバすぎじゃん。エッチなことばっかしてるから、下ネタな嫌がらせされるじゃね?」
由貴子が声高にまりえを非難すると、周りの女子が口々に同調する。
まりえが彼女にいる男に色目を使ったとか、援助交際してそうだとか、ビッチだとか辱めるような罵詈雑言が教室を満たす。
「みんなぁ、まりえなんてほっといて早く着替えようよぉ。男子が来ちゃう」
愛が底意地の悪そうな笑みでみんなを促す。
ハートの女王の命令は絶対だ。女子たちはまりえを悪しざまに言いながらも、さっさと着替えを済ませていく。
愛の魂胆はなんとなくわかる。まりえ以外が着替え終えたら男子を呼び込み、まりえの制服の惨状を男子にも見せて彼女を辱める気なのだろう。
「大丈夫か、松田。保健室で着替えを貰ってこようか?」
朔耶は散らばったコンドームをティッシュに包んで拾いながら、そっとまりえに話しかける。
「いい、なんで汚したのかとか、事情とか聞かれたくない」
半泣きになりながら、まりえは体操着を脱いで着替えはじめる。
カッターシャツは白いから汚れは目立たないが、キャラメル色のブレザーに付着した乳白色の粘液はかなり目立っていて、どことなく卑猥だ。
液体はボンドと何かを混ぜて作ってあるようで、ティッシュで上手く拭き取れない。
「もう着替えたよね、男子呼びまぁす」
皺くちゃのカッターシャツ一枚で恥ずかしそうにするまりえのことなどお構いなしに、愛が教室のドアを解放する。
朔耶は自分の上着を脱いでまりえに渡した。
「私のを貸すから、着てろ。上着を着てれば皺も目立たないだろう」
「借りていいの? アンタ、寒いでしょ」
「平気だ。明日返してくれればいい」
「ありがとう」
涙ぐんだ顔で礼を言うまりえに柔らかく笑いかけると、朔耶は自分の席に戻った。男子がどやどやと入ってくる。
「あれ、朔耶。上着はどうしたんだ?」
目敏く気付いた青木が不思議そうな顔をする。
「体育で体動かしたら暑くなったから脱いだんだよ」
「おぅ、わかる。おれも暑いわ。朝はちょっと寒かったけど、今はブレザーがなくてもぜんぜんイケる」
青木は暢気に笑いながら自分の席に着いた。
青木が鈍くてよかった。青木が上着を着ていない理由をしつこく尋ねてきたら、これ幸いとばかりに愛と由貴子が騒ぎ立てて、サイズの小さいブレザーを着ているまりえに注目がいくように仕向けていただろう。
「朔耶の嘘吐き」
揶揄とも批難ともとれる声。
振り返ると薫が呆れかえった顏で背後に立っていた。
「なんだよ、嘘吐きって」
「そのままの意味さ。本当は寒いくせに、強がっちゃって」
「強がってない、本当に暑いんだよ」
「朔耶、君は本当に馬鹿だね」
吐き捨てるように呟くと、薫はこれ以上の会話はしたくないとでも言いたげな態度で離れていった。
何事もなかったように四限目の英語の授業がはじまった。
晴れていたら窓から陽光が差し込んで少しは温かかったのだろうが、透明な硝子の向こうは鈍色の景色だ。
隙間風がカッターシャツ一枚しか纏っていない身に沁みる。朔耶は小さく震えた。
背中に突き刺さる視線。斜め後ろからだ。
視線を向けると、遥か遠く離れた廊下側の一番後ろの席の愛がこちらを見ていた。
グロスで艶々と桃色に光る唇がゆっくりと動く。声もなく愛が何か言う。
『偽善者』
愛はそう言っていた。
偽善者でけっこう。守られるのではなく、誰かを守る立場でいたい。
自分を守ってくれた兄の姿が脳裏に浮かんで消える。シャーペンを握り締める手に自然と力が篭った。
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