第二章 異変⑥
翌日、何事もなかったかのように登校した夏月は、いつもと違うまりえの様子に小さな罪悪感を覚えた。
まりえは朝から暗い顔をしていた。珍しく愛と由貴子に自分から擦り寄っていくことをせず、細い目を力なく伏せて一人で席に座っている。
昨日、まりえの身に何が起きたのだろうか。気になったけれど聞ける状況じゃない。それに、それを知ることは夏月にとって恐ろしかった。知らないままでいたほうが、きっと心安らかに過ごせる。
いつも通りの日常がやってくる。少しずつ狂い、黒い霧のような闇が教室を取り巻いているのに気付きながらも、夏月はそこから目を逸らした。
月葉に目を遣る。愛や由貴子と楽しそうに笑っている。ひっそりと安穏を紡ぐ閉ざされた村のような日々が崩れていく。それを目の当たりにしているようで苦しい。
志穂の言葉が脳裏を過る。月葉はやっぱり別人なのだろうか。
漠然と感じている不安がだんだん線を結び、形になっていく。そんな気がしてしょうがない。
じっと見詰めていたら、月葉が振り返った。
「夏月も来なよ」
名前を呼ばれて条件反射で立ちあがった。
犬のようだと惨めになりながらも、呼ばれたことへの嬉しさが勝った。
夏月は月葉の傍に駆け寄り、愛たちとの会話に没頭した。そうする以外、この日常を守れる術がないような気がしていた。
放課後、愛と由貴子に誘われてゲームセンターに行くことになった。昨日のこともあるので断りたかったけれど、月葉も誘われていたので行くことにした。
「まりえもゲーセン行こうよぉ」
愛が純真な天使の笑みを浮かべ、甘い声で誘う。
まりえはビクッと肩を震わせ、怯えた顔で愛を見上げた。
「ねぇ、まりえ。行くでしょ?」
唇を引き結んだまりえに愛が蕩けるような笑みを向ける。まりえは、引き攣った顔のまま、首を縦に振った。
五人は駅前のゲームセンターを訪れた。自動ドアが開くと、音の洪水と饐えた臭いが溢れてくる。
姦しい学生で溢れるゲームセンターは苦手だ。月葉と二人きりで、家でテレビゲームをしている方がよっぽど楽しい。
愛と由貴子は店内の奥の方のメダルゲームに向かっていた。夏月はとぼとぼと二人の背中を追いかける。
「見て夏月。あのクレーンゲームの景品」
月葉がこっそりと囁きながら、通り過ぎざまにすぐ横のクレーンゲームを指差す。
その景品は、夏月と月葉が二人してはまっている、コア層向けのバトルもののアニメのキャラクターのフィギュアだった。
「うそ、初めて見た。こんな小さなところにあるなんてすごいね」
「もっと大きなゲームセンターじゃないと、ないと思ってた」
「いいな、挑戦したい」
「あたしもやりたい。でも今は我慢かな」
「だね」
リア充の由貴子やまりえの口からはサブカルチャーの話題は一切のぼらない。愛は隠れオタクっぽいけれど、表向きにはアニメや漫画にはまっているということは口にしない。オタクであることと華やかであることは両立できないのだ。
月葉と共犯者のように笑いあい、クレーンゲームの横を通り過ぎた。
二人で密かにオタク話を交わす甘美な時間を噛み締める。ゲームセンターに来てよかった。夏月がそう思えたのもほんの束の間のことだった。
「まりえ、メダル両替してきて。千円分ね」
金を渡さずに愛が言った。
まりえはいつもと違い、すぐに首を縦に振らなかった。少し反抗的な目をしている。
愛の大きな目がすっと細くなる。苛立ちが宿るのがはっきりと見えた。
「ねぇ、まりえ聞いてる? はやく行ってきて」
「愛が頼んでんじゃん、早く行けっつーの」
由貴子がまりえの脛を軽く蹴飛ばした。まりえは怯えた顏で「わかったよ」とメダルの両替に飛んでいった。
「はい、月葉と夏月もどうぞ」
愛が当然のように、まりえが交換してきたメダルを夏月と月葉に配る。まりえが恨めしそうにしているのには気付いたが、夏月は月葉を真似て、素知らぬ顔で礼を言ってメダルを受け取った。
もらったコインを手にそれぞれ好きに遊びはじめる。
まりえに申し訳ないという思いがあったものの、コインゲームの楽しさに呑まれ、罪悪感は薄らいでいった。
全員の手持ちのコインがなくなると、次はプリクラに移動した。
「みんなで撮ろうよ」
愛に声をかけられて、五人で撮影ブースに入る。
値段は五百円、一人百円だ。夏月が財布から百円玉を取り出そうとしていると、愛が言った。
「まりえ、お金入れて」
「え?」
「ほらぁ、はやくはやくぅ」
甘ったるい声に操られるように、まりえが百円玉を五枚投入口に入れた。顔にはぎこちない笑みが浮かんでいる。
その表情は氾濫しそうな川を連想させた。
夏月はそっとまりえから目を逸らす。
「みんな同じポーズで撮ったら面白いんじゃね?」
「それいいね、ユッキー」
「でしょー。ホラ、ウチの真似して」
由貴子に促され、みんなで顎に手を添えるぶりっ子ポーズをする。
顔の造形が抜群にいい愛や由貴子、中の上ぐらいの月葉は様になるポーズだけど、地味で十人並みの容姿の夏月や細目でキツイ顔立ちのまりえには。なかなか厳しいポーズだった。
こんなぶりっ子っぽい写真が手元に残るのは嫌だ。そう思ったけど、ノリノリな愛や由貴子に意見する勇気はない。
しょうがなく、夏月は由貴子のポーズを真似る。
パシャリという音とフラッシュの光。次々に写真が撮影される。
「みんなすっごく可愛いよぉ、すてきぃ」
写真を選びながら愛がはしゃぐが、夏月とまりえはどの写真も浮いていた。場違いだなと、自分でさえ思う。他の人から見ればさぞかし滑稽だろう。
夏月はどの写真も慣れないポーズに対する照れで顔が引き攣り気味だ。その点、まりえはポーズが似合っていないものの、カメラ目線でばっちりと決め顔で映っている。羨ましい。
「わたし、ヘン顔でごめんね」
影で笑われるよりも最初から自虐ネタにしたほうが気楽だ。
笑いながら謝罪をする夏月に、愛がフォローをいれる。
「そんなことないよぉ、夏月。初々しい感じでわりと可愛いから、大丈夫だよ」
微笑んだ愛の顔には不快も嘲りもない。一先ずほっとする。
「約一名、キメ顔過ぎて笑えるけど、イイできじゃん。あとは仕上げだけ」
由貴子がペンタブを手に取り『仲良し五人組』という文字を書き込んだり、ハートマークを描いたりする。
「あいもやりたぁい」
愛がもう一本のペンをとり、自分と由貴子の顔に猫のヒゲと耳を描き込んだ。もとより可愛い二人がさらに可愛く見える。
「いいね、アタシも描きたい」
まりえが愛の持つペンに手を伸ばした。
だが、愛はペンを渡さない。
「まりえのことは、あいが可愛くしてあげるね」
愛はにっこりとまりえに微笑みかけると、まりえの頬に赤で渦巻き模様を描いた。それから、分厚い唇、三本のまつ毛を描き足す。
澄ましたまりえの顔が馬鹿っぽくて、なんとなく卑猥さを匂わせた顔になる。
「ほらね、愛嬌たっぷりで可愛いでしょ」
天使のような愛の笑顔が、夏月には悪意塗れに思えた。
まりえが眉根を寄せている。今にも泣きだしそうな顔だ。
まりえは自分の顔に書かれた落書きを直したがっていたけれど、時間切れとなり、出来上がった写真がプリントアウトされた。
愛が写真をわけてみんなに配る。
「素敵な写真ができたね。あい、一生の宝物にしちゃう。ねぇ、まりえ」
三日月のように細められた愛の瞳が意地悪そうに輝く。
それを見つめるまりえの瞳からは生気が抜けていた。
とうとう堤防が決壊した。そんな気がして、夏月はハラハラした。
「次はクレーンゲームでもしようよぉ」
愛がずらりと並んだクレーンゲームを指差す。彼女の示すクレーンゲームはアニメのキャラグッズが景品のものではなく、可愛いぬいぐるみやお菓子が景品のものだ。
フィギュアが景品のゲームはできないだろうが、気まずいプリクラ撮影よりはいい。
夏月は真っ先に「いいね、行こう」と同意を示した。もちろん、由貴子も月葉もまりえも異を唱えることはない。
「満場一致だね。じゃあ百円玉がたくさんいるからぁ、まりえお金出して。一万円はかわいそうだし、五千円でいいよぉ」
まりえは従順な下僕のように、差し出された愛の綺麗な手に五千円札をのせた。
愛は「ありがとう」と笑うと、そっとまりえの耳元に唇を寄せる。
「まりえ、お小遣いがほしかったらいつでも言ってねぇ。あいが、またいいバイト紹介してあげるよぉ」
愛は吐息を吹き込むように小さく囁くと、五千円を手に由貴子と月葉を連れて軽やかな足取りで両替機に歩いていった。
残されたまりえは虚ろな目で立ち尽くしている。
「あの、まりえちゃん。大丈夫?」
夏月が心配して顔を覗きこむと、まりえの瞳がジロリと動いた。
焦点を結んでいなかった瞳が、夏月を映した途端に赤く燃える。火傷しそうな恐ろしい瞳。
何故、憎しみの篭った瞳を向けられるのだろう。夏月は目を丸くする。
「自分は味方だって、アンタ、そう言いたいわけ?」
絞り出すような押し殺した声。
夏月はごくりと唾を飲む。
「そんな、私はただ、まりえちゃんが心配で……」
「ふざんな、アンタもアイツらと同じよ! ミンナ死ねっ、さとこサマにやられろ!」
まりえは金切り声で叫ぶと、夏月の肩を突き飛ばして走り去った。
尻もちをついた状態のまま、夏月はただ目を瞬く。
まりえと自分は同じ立場だと思っていた。
爪弾きにされたくなくて、贄に選ばれる憐れな仔羊にだけはなりたくなくて、必死なだけ。それだけなのに。
いい気味だなんて思ったことは一度だってない。見て見ぬふりをしたり、同調したりするだけの夏月より、まりえのほうがカースト底辺の女子によっぽど酷いことをしてきた。
月葉がいじめの標的になっていた時、実行犯としてトイレに入っている月葉に頭から水をかけたり、持ち物を盗んで捨てたりしていたのはまりえと志穂だ。そのまりえに批判され、いじめっ子だと弾劾されるなんて。
ショックで暫く動けなかった。遠くから、愛たちのはしゃいだ声が聞こえてくる。
愛や由貴子は選ばれた人間だからしょうがない。でも、月葉は違う。
月葉は自分と同じで、狭く退屈だけど穏やかで身の丈にあった箱庭でひっそり息をしていたはずだ。それなのに、いつのまに二人の箱庭を出ていってしまったのだろう。
愛と由貴子に挟まれて天真爛漫な笑顔を見せる月葉に、ふつりふつりと腹の奥底でどろりとしたものが沸くのを感じた。
黒い衝動を飲み込むように、夏月は深く息を吸い込む。
倦んだゲームセンターの空気は、心を綺麗にはしてくれなかった。
月葉が離れてしまったら星園高校にいる意味はあるのだろうか。
母から期待され、自慢の娘になりたくて無理をして受けた星園高校の特進クラス。合格して受験のプレッシャーから解放されたかと思えば、難しい勉強に追われる日々が始まって、またもがき苦しむ。
クラスがえに怯えることなく、月葉と一緒に三年の高校生活を完走できることが心の支えだった。だけど、月葉は自分から離れて、愛たちと華やかなゴールに向かっている。
唯一の理解者を失いかけている。
これは罰なのだろうか。夏月は唇を噛み締めた。
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