第二章 異変⑤

 外は本格的な冬の到来を予感する冷気に満ちていて、鉛筆を持つ右手が寒さで震える。

もうすぐ十月も終わりだ。


「こんなに寒いのに外で写生なんて、鬼だよ。手がかじかんで上手く描けない」


 月葉が黄金色に輝く銀杏を見上げながら唇を尖らせる。寒さで頬が赤く染まり、林檎みたいだ。幼い顔立ちがさらに幼く見えて、夏月は思わず顔を綻ばせる。

 週に二限ある芸術の授業は美術、書道、音楽の三科目から一つ、好きな授業を選択して受けることになっている。一年生の時は声優を志す月葉の希望で彼女と同じ音楽を選択していたけれど、今年は漫画家かアニメーターを夢見る夏月の希望にあわせて、二人そろって美術を選択した。

 先週から美しい景色をテーマとした写生がはじまり、夏月と月葉はプールサイド近くの大きな銀杏の木を描いていた。


「あたし背景とか建物描くのって苦手なんだよね」

「月葉、アニメや漫画のキャラ描くのは上手なのにね」

「あー、難しい」

 頭を抱える月葉に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「ごめんね、無理に美術につきあわせちゃって……」

「ぜんぜんいいよ。去年は夏月に付き合ってもらったから、今度はあたしの番だよ」

「嬉しい、ありがとう」


 夏月は月葉の画用紙を覗き込んだ。


「す、すごい……」


 月葉の画用紙には精霊が宿っていそうな神秘的で力強い銀杏の木が描かれていた。まだ線画なのに、すでに完成品のような迫力がある。

 月葉の絵を見るのは久しぶりだ。

 二年生の一学期は愛たちのいじめが酷くて、月葉と過ごせる時間が少なかった。学校では彼女を無視せざるをえず、休日に遊ぶ機会もほとんど持てなかった。七月になる頃には月葉はいっそう陰気さを増し、夏月は声を掛けることができなかった。

愛たちの監視が薄い夏休みは月葉と過ごせると思っていたが、夏休みの間ずっと、月葉は音信不通だった。

 月葉がこんなに風景を上手に描けるようになっていたなんて驚きだ。

 月葉の絵の才能にほんの少し嫉妬しつつ、それ以上に感動した。


「月葉、とっても上手だよ」

 手放しで褒めると、月葉は照れた顔で笑った。

「夏月に近付きたくて頑張ったんだ。えへへ、でもまだまだ遠く及ばない。夏月の絵、とっても素敵」

「そうかな、嬉しいよ」

「色が決まらないんだよね。この瑞々しい黄色を作るのが、難しくって。パレット、一回洗ってこようかな」

 月葉が立ち上がる。

「わたしも行くよ、月葉」

 夏月と月葉はここからもっとも近いプールサイドの水道に向かった。


 冬のプールは寒々としている。水面には落ち葉が無数に浮かんでいた。落ち葉に混じって何か妙なものが浮いている。


「え」


 人だ、人が浮かんでいる。


 ありえない、きっと見間違いだ。夏月は震える足でプールに近付いた。

 米神を冷たい汗が伝い落ちる。喉を鳴らして唾を飲み込むと、恐怖で細めていた目を思いきって見開いた。目に映ったのは、口を大きく開けて虚ろな目で水面に浮かぶ、横尾の姿だった。


「きゃああぁぁぁっ」

 夏月はその場にへたり込んだ。

 横尾は今朝から登校していなかったが、不良の彼が無断欠席することはよくあることだから気にもしていなかった。

 それが、まさかこんなところで死んでいるなんて。


「夏月、どうしたの?」

 水道でパレットを洗っていた月葉が振り返る。

 駆け寄った月葉に縋りつき、夏月はプールを指差した。プールに目をやった月葉が唖然とした顔で固まる。


「どうしたんだ、すごい叫び声がしたぞ」


 松島がやってきた。

 横尾に気付いた松島の顔が青褪める。いつもはクールな彼が見せたことのない、恐怖と焦りで崩れた表情だった。


「横尾!」

 松島が慌てて横尾をプールサイドに引っ張り上げる。


「おい辻井、立花。救急車を呼んでくれ!」


 夏月も月葉も救急車を呼ばなかった。仰向けに横たえられた横尾からは死の香りが漂っていた。そこに魂がもうないのは誰の目から見ても明らかだったからだ。


 騒ぎに気付いた美術の先生が走ってきた。周囲で絵を描いていた生徒達も野次馬のように集まってくる。

 冬枯れたプールサイドは俄かに騒然となった。


 程なくして警察がやってきて、第一発見者の夏月と月葉はプールサイドで事情聴取を受けた。横尾を発見した時の状況を優しく尋ねられただけですぐに解放された。

夏月は放心しながらプールサイドを離れた。言葉なく月葉と並んで歩いていると、薫が前方からやってきた。


「警察が来ていたね。横尾君の死体が見つかったんだって?」


 いつもの飄々とした笑顔で尋ねた薫に、夏月は小さく頷いた。

 薫は確か音楽を選択していたはずだ。もう音楽室にまで情報が届いていたのか。噂が広がるのはなんて早いんだろう。


「プールに浮かんでいたんでしょう? 見つけたのは君だと聞いたけど、大丈夫かい?」

「ちょっと、怖かったけど大丈夫だよ。でも、死んじゃうなんて横尾くんがかわいそうで。ねえ、月葉」

「本当、可哀そう。きっと沢山水を飲んで苦しんで死んだと思う」

「へえ、溺死か。それは可哀想だね。金づちの彼が溺死なんてなんとも皮肉じゃないか」


 感情の読めない笑顔を浮かべて、薫はプールサイドの方に去っていった。

月葉がじっと薫の背中を見詰めている。

 やっぱり、月葉はまだ彼が好きらしい。愛たちにまた目を付けられたくなくて、我慢しているのだろう。

 夏月は月葉の小さな手をきゅっと握った。


「絵を片付けて教室に行こうよ、月葉。もう二限目が始まるよ」

「うん、そうだね」

 身を切るような寒さから逃れるように、夏月と月葉は校舎に駆け込んだ。



 放課後、横尾が死んだことが帰りのホームルームで倉坂先生から知らされた。死因は溺死で、事故死だと警察は判断したそうだ。

 横尾の両親は家族葬を望んだので通夜と葬式の案内はなかった。彼の死は、全校生徒一斉に黙祷を捧げただけで通り過ぎていった。

 横尾は特進クラスには珍しい不良生徒で、影でカツアゲや暴力沙汰の常習犯だった。

 二年一組の生徒はあっさりと横尾の死の悲しみから解放された。一之瀬も松島も友達だったのに、数日すればけろりとした顔だった。

 きっと二人が横尾と仲良くしていたのは、ボクシング部で喧嘩が強い横尾を恐れていたという理由もあるのだろう。それに不良生徒の親玉っぽいところがあったので、味方ならば守ってもらえる。そういう打算もあったに違いない。

 他人の友情の重さを勝手に推し量り、批判している自分に夏月は溜息を吐いた。

こんな無駄なことを考えてしまうのは、ひとえに恐怖から脱却したいからだ。


「さとこサマの噂聞いた?」

「聞いた聞いた、唇が赤く染まってたって噂でしょ。ヤバイよね」

「誰が血を捧げたんだろね」

「南さんに横尾くん。死者が出るとか怖すぎ」

「ってゆうかさ、被害者このクラスばっかりじゃん」

「他のクラスで噂になってるよ、二年一組はさとこサマの呪いにかかってるって」


 思考を止めると教室のそこかしこで交わされる『さとこサマ』の名が耳に飛び込んでくる。

 そのたび、夏月は恐怖がじわじわとせり上がってくるのを感じた。


 夏月だけじゃない、愛と由貴子も恐怖しているようだ。

 いつも華やかな笑顔を振りまいている二人がここ数日大人しい。二人だけでひっそりと過ごしていたり、昼休み、逃げるようによそのクラスに行ったりしている。

 ピリピリした雰囲気の二人に誰も近付こうとはしなかった。

 ただ一人、空気の読めないまりえを除いては。


 まりえは何度も二人に擦り寄ろうとして、嫌そうな顔をされていた。憐れな人だ。

ただ、いいこともある。愛と由貴子が二人きりで行動することが多くなったので、夏月は月葉と過ごす機会が増えた。

 さとこサマのことは怖いけどいい傾向だ。

 このまま高校入学当初のような関係に戻れたらいいのに。夏月は強くそう願う。


 だけど、願い事を叶えてくれる神様はいない。



 放課後のチャイムが鳴った。夏月は久しぶりに自分から月葉を誘って帰ろうと思っていた。だけど、思わぬ人物にそれを阻まれる。


「ねえ辻井さん、ちょっといいかしら」

 声を掛けてきたのは志穂だった。


「え、わたし?」

「ええ、貴方よ。ちょっと来て、話したいことがあるのよ」


 志穂は夏月が断る間を与えず、黒髪ボブヘアを揺らして足早に歩いていった。しょうがなく彼女の背中を追いかける。

 志穂は人目を避けるように屋上への階段を途中まで上がると、ぴたりと足を止めて振り返った。鋭い切れ長の瞳に思わず肩が小さく跳ねる。

 ビクビクする夏月に志穂は尖った声で言った。


「辻井さん、立花月葉は危険よ」

「月葉が危険ってどういうこと?」

「さとこサマはあの子よ。あの子が復讐をしているに違いないわ」

「まさか、そんな。月葉は確かに夏休み前まで愛ちゃん達に酷いことをされていたし、シカトの対象になってたけど、今はとっても仲がいいよ。わたしより、今は愛ちゃんたちと喋ってることの方が多いくらいだし……」

「変だと思わない? 夏休み明けから立花月葉はまるで別人よ」


 志穂の言葉にぎくりとした。

 同じ違和感を何度も感じていたからだ。


「立花月葉はもっと薄暗くてジメジメした性格だったし、ムスッとした顔だわ。それが今では明るく可愛い人気者よ、変じゃないの」


 確かに。そう思いながらも夏月は反論する。


「そ、それはいじめられないように、路線変更したんじゃないかな」

「キャラが変わったなんてレベルじゃないわ。親友の貴方ならわかるでしょう! あれは立花月葉じゃない、復讐の化身、さとこサマなのよ。誰かがなんとかしないと、今後も犠牲者は増えるわ!」

「奈々ちゃんも横尾くんも事故だよ」

「本当にそう思うの? 事故で立て続けにクラスメイトが二人も死ぬなんて、隕石が頭上に堕ちてくるような確立だわ。わかってよ、立花月葉が怪しいのよ」

 わかりたくない。月葉がさとこサマだなんて、信じたくない。

「たしかにびっくりするような確立だけど、だからって月葉がさとこサマで、復讐しているなんてありえないよ」

「ありえるわよ! いじめを経て性格が変わっただけならまだしも、愛にあんなに酷いことをされていたのに、愛のグループと仲良くしているなんて変よ。少なくとも、私ならぜったいに無理だわ」

「怒りはあるかもだけど、仲良くできるならそうしたほうが楽だよ」

「長い物には巻かれろというわけね。まりえと一緒の思考だわ」


 志穂が憤然とした顔で鼻を鳴らす。


「愛を敵に回せとは言わないわ。ただ、立花月葉とは距離をとりなさい。徹底して関わらないようにすべきよ」

「月葉がさとこサマかもしれないから?」

「かもしれないじゃないわ、そうなのよ」

「そんなの、信じられないよ」

「私は立花月葉がさとこサマだという証拠を握っているのよ」

「証拠って?」

「今はまだ話せない。だけど、九月に入ってからの立花月葉は以前とはまったくの別人になりわかっているわ。わかるでしょう、辻井さん」


 真剣な顔と声で迫ってくる志穂に恐怖が込み上げる。

 夏月はぎこちなく首を横に振った。


「月葉は、月葉だよ……」

「立花月葉と仲がよかった貴方ならわかるかと思ったけど、期待外れね。いいわ、私は忠告したわよ。好きにしなさいよ」

 志穂は唖然とする夏月を置いて去っていった。


 月葉が別人になっていてその正体がさとこサマなんて、いくらなんでもありえない。

 夏月自身も夏休み明けの月葉の変貌ぶりには驚いている。だけど、表情がガラリと変わったのと前髪を分けてコンタクトにしたこと以外、外見に変わりはない。髪質も顔立ちも背格好もどう見ても月葉本人だ。声もそう。他人であるはずがない。

変なのは月葉ではなく、志穂ではないか。


 志穂は夏休み明けから様子がおかしい。一人で深く考え込んだり、鋭い視線でこちらを睨んでいたりする。

 はじめはまりえがいるからだと思っていた。まりえは志穂の親友だったけれど、志穂を裏切って愛に擦り寄ったから。

 でも、きっとまりえを見ていたのではない。月葉を睨んでいたのだ。


 立花月葉がさとこサマだという証拠を握っている。志穂はそう言った。証拠とはなんだろう。本当にそんなものがあるなら、どうしてさっき言わなかったのか。

釈然としなかったが、志穂を追いかけて話をする気にはなれず、夏月は教室に戻った。


 志穂と喋っている間に月葉はもう教室からいなくなっていた。

 がっかりしていると、愛が近付いてきた。


「ねぇ、夏月。一緒にカラオケ行こうよ」

 愛は天使の笑みを浮かべていた。だけど、目が笑っていない。

 断りたい。だけど、断れば確実に愛の機嫌を損ねる。


 しょうがなく、夏月は頷いた。



 学校がある方面の駅の東口とは逆の西口の近くにある繁華街にカラオケ店がある。

夏月は愛と由貴子とまりえと四人で店に入った。


「じつはねぇ、あいの学校の外のお友達を呼んでるの。三人だけど、いいよね?」


 夏月は歌うのが好きだが得意ではない。見知らぬ他人とのカラオケは苦痛で嫌だ。

でも、愛が怖くて言いだせなかった。


「もっちろんオッケーだよ、愛ちゃん」

 まりえが従順に頷いた。

 恨めしく思いながらも、夏月も「わたしも気にしないよ」と笑った。


「すぐ来ると思うから先にはじめていようよ」

 愛が店員に渡されたルームナンバーの部屋の扉を開く。

 夏月は今まで一、二回しか入ったことがないステージつきの広い部屋に、俄かに緊張を覚えた。

 愛と由貴子が慣れた手つきで予約曲を入れる。歌わず盛り上げる側に徹しようかと思っていたけれど、愛に「夏月はどの曲をいれるの?」と聞かれ、無難なバラード調の有名歌手の曲を予約した。


 まりえがノリよく流行のアイドルグループの歌を歌っている途中で、部屋のドアが開いた。入ってきたのは、私服姿の男性三人だ。


「どうも~。可愛い女子校生いっぱいじゃん。いいねいいね~」

「イエー、盛り上がろうぜ」

「はじめましてのお二人さんもよろしくね、今日は楽しもう」


 揃いも揃って軽いノリの三人組はどう見ても高校生じゃなく、二十歳をこえた大人だった。愛と由貴子とはどういう知り合いなのだろうか。なんだかキナ臭い。


 女子が歌うたびに男たちはノリよく囃し立て、カラオケを盛り上げてくれた。

 だけど、夏月は嫌悪が増すのを感じた。三人の瞳の奥に、ギラついた欲望が揺れているのが見えるようだ。

 はじめは同性同士で固まって座っていたのに、いつの間にか男女入り乱れている。

いま、夏月の隣にはチャラチャラしたスタジャンの男が腕を広げて座っている。


 座席に深く腰掛けると彼の腕に頭を預けることになるので、姿勢を伸ばして浅く腰掛けていた。男は気を抜くと肩に触れようとしてくるので、夏月は笑みを浮かべつつ神経を尖らせ、さり気なくボディタッチを避ける。


「夏月ちゃんってお堅いよな。髪も黒いし、スカートの丈長くない?」

「え、あはは。普通だと思いますよ」

「いや、真面目だって。でもオレ、そういうコもオッケーだぜ」


 ヘラヘラ笑いかけてくるスタジャン男に内心苛立つ。

 彼からは自分が選ぶ側の人間だという態度が透けて見えていた。初対面の人間を査定するなんて、ろくな男じゃない。


「みんな、腹減らない? なんか頼もうか」


 男たちの中ではまだ一番まともそうな、紺のジャケットに白のスラックスのお洒落な眼鏡をかけた男が提案した。


「おなか減っちゃったけどぉ、あい、今お小遣いピンチなの」

「そんなんオレらで払ってやるぜ」


 スタジャンの男の言葉に愛が目を輝かせる。


「やったぁ、嬉しい。じゃあお言葉に甘えまぁす」

 スタジャンの男がピザ、一口サイズのシュークリームタワー、カラアゲバスケットを注文した。

 机の上にずらりと料理が並ぶ。少なくともこれがなくなるまでは帰れない。そう思うとげんなりした。


 見知らぬ男とデュエットを強制され、流行りのアイドルの曲を歌わされる。地獄のようなカラオケタイムは意外と早く終了した。会計はすべて男三人が払ってくれた。

やっと解放される。夏月は内心ほっとしていた。


「まだ遊び足りないし、俺のマンション近いからおいでよ」

 お洒落な眼鏡の男が言った。


 冗談じゃないと思ったが、愛も由貴子もまりえも乗り気で、行かないとは言えない雰囲気だった。

 男達に奢らせてしまった手前、すぐにつれなく帰るのも気まずい。嫌な女だと思われたくない。


「夏月も、もちろん行くでしょ」

 とどめの脅迫めいた愛の言葉に、嫌だと思いながらも夏月は頷く。



 マンションは新しく、部屋は清潔だった。そのことに幾分かホッとする。

 だけど知らない男の部屋にいる状況は恋愛経験ゼロの夏月にとって、到底落ち着けるものではなかった。 

 男達とボードゲームの人生ゲームをしながら、つい壁の時計に視線がいく。


「人生ゲームでは金持ちでも、現実はなかなかそうはいかないよねぇ。あいもお金持ちになりたいなぁ」

「愛ちゃんお小遣いきついのかい?」

「もうすっごいピンチ」

「カネが欲しかったらさぁ、お小遣いあげちゃおっか?」


 スタジャン男の言葉に愛の目の奥がキラリと光った。


「本当? 嬉しいな。ねえ、まりえ。まりえもお金ないって言ってたでしょ。お小遣い、もらっちゃいなよ」

「そ、そんな。お金なんてもらえないって」


 うろたえるまりえの頬を由貴子が掴んだ。由貴子は垂れ下がったセクシーな目で、見下すようにまりえを睨む。


「ウチらさ、アンタのためにこの場をセッティングしてあげたんだけど。イケメンそろえてやったんだし、感謝して欲しいーわ」

「そうだよ、まりえ。せっかくだし、お金、もらっちゃおうよ。三人相手で五万くらいでどうかな」

「いや、でも。カラオケおごってもらっただけで十分だから」

「え、なに? あいがセッティングしてあげたのにだいなしにするの? 家にあがったってことはさぁ、オッケーってことでしょ」


 愛が冷たくまりえを見下ろす。

 まりえが情けない顔で愛を見る。まるで怯える小動物だ。

 男三人がにやにやした顏でこちらのやり取りを見ている。三つの双眸には邪な色が滲んでいた。まりえが首を縦に振るのを今か今かと待ち構えている。


 まりえの次はわたしの番だ、なんとか逃れなければ。

 背筋に冷や汗が伝い落ちた。


 まりえがもうすぐ陥落するという時にスマホが震えた。部屋に着信音が響く。


「ごめん、ちょっと電話出てくるね」


 夏月は慌ててスマホをカバンから取り出し、そそくさと部屋を出た。


 予防線を張っておいてよかった。

 本当は着信があったわけではなく、ただアラームが鳴っただけだ。学校を出る前にトイレに入ってスマホを操作し、午後六時五十分にタイマーをかけておいたのだ。

 夏月は部屋に戻ると、残念そうな顔で告げる。


「ごめん、お母さんがそろそろ帰ってこいって。わたし、帰るね」

「えー、マジ? 親なんてほっときゃいいじゃん」


 由貴子が夏月の腕を掴んだ。体育会系だけあって力強い。夏月は内心焦りつつ、心底申し訳なさそうな顔を作る。


「ごめんね、由貴子ちゃん。この前門限破ったばかりですごく監視が厳しくて」

「そっか、ならしょうがないよね。離してあげて、ユッキー」

「まあ、夏月はお金困ってなさそうだし」


 由貴子はあっさりと手を離した。


「それじゃあバイバイ、夏月」


 手を振る愛の真意を探る勇気も暇もなかった。

 夏月はさっきカラオケで払ってもらった自分の分の料金をテーブルに置いた。


「今日はありがとうございました」


 他人行儀に告げると、荷物を手に部屋を飛び出した。縋るようなまりえの視線を背中に感じていたけれど、気付かないふりをした。




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