第二章 異変③

 奈々が実験中の事故で顔に火傷を負ってから三日が過ぎた。


「あの包帯いつ取れるんだろうね」

「かわいそう、でもちょっとザマァ」

「美人なこと鼻にかけてるから天罰が当たったんじゃない?」


 口々に飛び交う悪口。声のボリュームも内容もだんだんと遠慮がなくなってきている。

 負けるものか。奈々は周囲の人間をギロリと睨みつける。


 最初は心配顔で近付いてきた愛と由貴子も、今や嘲笑混じりの顔でこちらを見ていた。

 二人の傍にはせこいコバンザメが二匹。さも親切な味方面で寄ってきた夏月を思い出して、むかっ腹が立った。

 

 きっとあの子も同じ被害にあったのだろう。

 奈々は密かに月葉に目を向ける。


 こちらの視線に気付いたのか、月葉が振り向いた。

 彼女の大きな目に見つめられた途端、ゾクリとした。大きな目は虚ろで、何を考えてるのかまったくわからない。

 昔の陰険でじとりとした視線とはまた違う。なんの感情もないのに、それでいて酷く威圧的な凍える視線。

 恐ろしいものを見てしまった。そんな気がして、慌てて視線を逸らす。

 誰かに見つめられて自分から視線を逸らすなんて、はじめてだった。


 チャイムが鳴って授業が始まる。

 さっきの月葉の顔を思い出し、無性にイライラした。

 夏休み明け、人が変わったように明るくて面白い子になり、外見も垢抜けたから仲間に入れてやった。四人で一生の親友グループになれるとまで思ってあげたのに。このワタシをあんな目で見るなんて許せない。


 月葉に物申さなくては。

 奈々はじっと、月葉が愛たちから離れるタイミングを伺った。


 移動教室の家庭科の時間、月葉が忘れ物をしたからと教室に一人で戻っていった。奈々もすぐ家庭科室を出て、彼女の後を追う。


 授業開始まで二分を切っており、廊下に人気はない。

 不意に月葉が立ち止まる。そして、後ろにいることに気付いているかのようにこちらを振り返った。

 まるで穴のような、虚ろな目が奈々を映した。


「後悔した?」


 突然の質問の意図が分からずにいる奈々に月葉は続けて言う。


「さとこサマはいるよ」

「……は、何を言っているのよ?」

「本当だよ。さとこサマはいる」

「ふざけないでよ」

「本気。だから、気を付けて」


 踵を返した月葉がすれ違っていく。その横顔は彫刻のように冷たいものだった。

 教室に行かずに家庭科室に戻っていく月葉を、唖然と見送ることしかできなかった。


 さとこサマ。いじめっ子を懲らしめる、学校の守り神。

 寂しい裏庭の古ぼけた木箱、その下に揺れる血色の彼岸花が脳裏に浮かんだ。

 木箱の観音開きの扉が開き、落ち窪んだ陰気な目に赤黒く染まった分厚い唇の少女の顔が現れる。微笑んでいるのか憂いているのかわからないモナリザを彷彿とさせる表情。いや、モナリザなんかよりずっと不気味だ。


 あれは憂いなんかじゃない、恨みだ。


 奈々は包帯に触れた。もしかして、これはさとこサマのせいなのだろうか。バラバラになった自分の体を治すため、この顔を奪おうとしたのか。


 そんなはずない。あんなの、幼稚な作り話だ。恐怖を振り払うように、奈々は大股で家庭科室に戻った。


 さとこサマなんて信じていない。それなのに、どうして――。


 その日の昼休み、奈々は恐ろしいものを目にした。

 昨日と同じように、使用者の少ない別棟の一階のすみっこにある図工室の近くのトイレを利用したときのことだ。

 通りがかった生徒にこんな辺境のトイレを誰かが利用していると知られたくなかったから、電気を消したままトイレに入っていた。

 教室は落ち着かない。廊下も校庭も利用者の多いトイレもダメだ。誰もがこの包帯の下を想像し、醜さを嘲笑っている。誰とも顔を合わせたくない。


 薄暗いトイレの個室に入ると落ち着いた。二十分ほどトイレに篭って個室のドアを開けた。


 薄暗い闇の中、ぼおっと青白い顔が浮かんでいた。

 赤黒い分厚い唇、落ち窪んだ目、市松人形みたいなおかっぱのごわついた黒髪。


「きゃああっ」


 叫び声を上げ、奈々は再びトイレに逃げ込んだ。

 心臓がバクバクと音をたてている。どうして、さとこサマがいるのか。とっくの昔に死んだはずなのに、あえりない。まさか、幽霊。それとも神様になったという話は本当で、罰を下しにきたのか。


「いやよっ」

 奈々は頭を抱え込み、便器の前にしゃがみ込んだ。震えながら、電気をつけて入ればよかったと死ぬほど後悔した。


 どのくらい時間が経っただろう。不穏な気配が薄れてきたように感じた。

 恐る恐るドアを開ける。

 そこにはもう、誰もいなかった。


 さっきのはなんだったのだろうか。恨みがましい青白い顔を思い出すと、体が勝手に震えだした。



 放課後になると、奈々は早々に学校を出た。

 居場所もない。友達もいない。おまけにさとこサマがいるかもしれない場所を、一秒でも早く離れたかった。

 他人だらけの駅に着くとホッとした。誰もこの醜い顔を見ていないことは救いだった。


 アナウンスが入り、列車が近付いてくる。奈々は白線の手前に立った。


 不意に誰かに強く背中を押された。

 よろけた奈々の体が宙に放りだされる。


『裁きの時が来た』


 クラクションと悲鳴に混じって、薄暗く陰気な声がそう囁いた気がした。


 すごい衝撃と耐えがたい痛みを感じた。肉が断たれ、骨が砕ける音を聞いた。手足の感覚が消え、さらに強い痛みが全身を駆け抜ける。


 わけがわからないまま、奈々の意識は掻き消えた。


 

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