第二章 異変②
小百合が来なくなってから三日後、事件が発生した。
『疚しき者は震えよ、裁きの時が来た。さとこ』
いつも通り八時過ぎに登校した夏月は、二年一組の黒板に赤いチョークで書き殴られた禍々しい文字に言葉を失った。
あまりにも奇異な出来事に、みんなグループの垣根を越えてそこかしこで言葉を交わしている。
「やあ、おはよう」
足音もなく近づいてきた薫に、夏月はびくっと肩を跳ねさせた。
彼が興味を持つのはルックスの整った女子だけだ。二学期になってから隣の席同士になったのに、これまで挨拶なんてされたことはなかった。なのに、この前からどうして声を掛けてくるのだろう。
薫が自分に興味があるかもしれないと自惚れられるほど、おめでたくない。自分の容姿が並だという自覚はちゃんとある。だから、急に愛想よくなった薫にドギマギしつつも、不気味さを感じていた。
正直、あまり薫に構われたくない。イケメンと話せるのは嬉しいけど、個人的に仲良くなりすぎるとあとが怖い。
月葉がちょっと前までスケープゴートになっていた理由の一つに、薫と親しくしすぎたせいも含まれていた。
二年生に進級してすぐ、薫はよく月葉に話し掛けていた。二カ月も経たないうちに薫が月葉に構うことはなくなったが、愛たちの憎悪を増幅する原因の一端を薫が担っていたのは間違いない。
薫と無闇に親しくするのは命取りだ。夏月は温厚な笑みを浮かべつつ、できるだけ他人行儀に挨拶を返す。
「あ、えっと。おはよ」
夏月のよそよそしい態度など気にも留めず、薫は穏やかな笑みを浮かべたまま黒板に目を向けた。それからまた夏月を見る。
綺麗な弧を描く口元に反して、彼の目は真冬の闇のようだった。
「さとこサマか。ふふ、怖いね。気を付けないと」
飄々とした口調で呟くと、薫は何事もなかったように本を読みだした。
教室は黒板に書かれた奇妙なメッセージについての話題でもちきりだ。
別のクラスから見物客がやってきたり、ふざけて写真を撮る人もいたりと、色めきだっている。
「ヤバイよ、月葉が言ってた噂マジじゃん。さとこサマ目覚めちゃったんじゃね?」
「ちょっとユッキーやめてよ。あい、怖いよ」
騒ぐ由貴子も怖がる愛も、本心では馬鹿げた悪戯と思っているに違いない。
みんなそうだ。さとこサマが現れて罰を下そうとしているなんて、誰も本気で思っていない。勉強ばかりで灰色の高校生活にぽつりと落ちた、不吉ながらも鮮やかな色を楽しんでいるだけだ。
夏月は席にポツンと座っている月葉に近づいた。
「おはよ、月葉。黒板、すごいことになってるね」
「おはよう。本当、すごい盛り上がりだね」
「誰がこんな悪戯したんだろうね」
夏月が苦笑を浮かべながら疑問を口にすると、明るい笑みを浮かべていた月葉からすっと表情が消えた。
能面みたいな顔。まるで月葉じゃないみたいだ。
「悪戯じゃないかも」
暗く深刻さを帯びた声で告げた月葉に、心臓が嫌なリズムを刻む。悪いことが起きる前触れを察知した時と似た鼓動。
「月葉、それって……」
「なんちゃって。冗談だよ、冗談」
月葉がクスクスと笑う。
つられて笑いながらも、夏月は落ち着かない気分だった。
四限目の化学の授業のときだった。炭酸水素ナトリウムの元素の確認する実験の最中、事件が起きた。
「きゃあっ!」
化学室に甲高い悲鳴が響いた。
驚く生徒たちの視線の先には、髪の毛と右の顔半分が火に包まれて暴れる奈々の姿があった。
誰もが何が起きたのか理解できず、唖然と奈々を見ていた。まっさきに動いたのは朔耶で、彼女は咄嗟にゴムホースを蛇口にとりつけ、奈々に放水した。
おかげで火は無事に消えたが、辺りには髪の毛が焦げるいやな臭いが充満していた。奈々は蹲って、顔の右半分を押さえている。
「南、大丈夫かっ! すぐ保健室へ。みんなはそのまま待機していてくれ」
化学担当教師が奈々を起こして肩を抱き、慌ただしく教室を出ていった。置いてけぼりの生徒たちは騒然とする。
「南さん、大丈夫かなぁ?」
「美人なのにかわいそう」
ひそひそと飛び交う言葉の中に、小さくて細い棘が隠れている気がした。
奈々はクラスの中心人物の一人だ。だけど、高慢な態度を内心腹立たしく思っている子は少なくない。
夏月はこっそりクラスメイトを見回した。友達と集まって話している子たちの口元に、隠れた悪意が透けて見える。
そんななか、朔耶は唇を引き結んで心配そうにドアの向こうを見ていた。
お人好しの朔耶を月葉がじっと見ていた。
最近よく見る、温度のない表情。夏休み明け以降、夏月は月葉が彼女の姿形をした他人のように思えて、ときどき怖くなる。
「これって、さとこサマの呪いなんじゃない?」
夏月の密かな感傷を、誰かの言葉が吹き飛ばした。呪いという言葉が頭の中に渦巻きはじめる。
奈々の事故がもし、さとこサマの制裁だとしたら――
不安になった夏月はふらりと月葉に近づいて小さい手を握った。
「夏月、どうかした?」
「なんでもないよ、月葉。なんでもないんだけど」
「変な夏月」
ふふっと月葉が無邪気に笑う。
変だと言いながらも、月葉は手を握り返してくれた。そのことに妙に安心して、夏月はいからせていた肩をおろす。
単なる実験中の不運な事故だ。さとこサマなんて、実在人物をモチーフにした架空の存在でしかない。夏月はそう自分に言い聞かせた。
お昼休みになっても奈々は教室に戻らなかった。
彼女を見たのは翌朝のことだ。
長い髪はバッサリとベリーショートにカットされていた。それだけならまだしも、右目をガーゼで覆い、包帯を巻いている。
奈々の姿に教室が静かにざわついた。暗い顔で教室に入ってきた奈々から視線を逸らすクラスメイトがほとんどのなか、愛と由貴子が奈々に駆け寄っていく。
「奈々おはよう。あい、昨日は心配で眠れなかったの。ねぇ、大丈夫?」
「マジ心配した。奈々、ヘーキ?」
奈々のアーモンド形の瞳がじろりと愛と由貴子を見た。
凍えるような目だった。
「大丈夫なわけないでしょう!」
雷鳴のような声が響く。
教室が一瞬にして水を打ったように静まり返った。愛と由貴子が顔を引きつらせている。
「そんな怒鳴んなくったっていいじゃん。ウチらはたださ、奈々を心配して……」
「心配なんてしていらないわよ」
「ちょっ、その言い方はないっしょ」
「うるさいわね、アナタたちにワタシの気持ちなんてわからないわよ!」
「そんな。あいもユッキーも大切な友達が怪我して辛いんだよ」
「嘘よ。どうせ他人事だと思ってるくせに」
奈々が自嘲的な笑みを浮かべる。
「アナタたち、内心では醜い顔になったワタシを笑っているんでしょう。知っているのよ、二年一組の女王様がお岩になったって面白おかしく噂していること」
「なにソレ、そんな噂してねーし」
「とぼけないで。学校の裏掲示板のスレを見たわよ」
「スレなんて知らないっつーの。ウチらがそんなことするわけないじゃん」
「あいもユッキーも、奈々の顔のこと笑ったりしてないよ」
「嘘吐きの言葉なんて信じないわ。放っておいてちょうだい!」
奈々は肩から下げていた鞄をヒステリックに机に叩き下ろした。
それ以降、誰も奈々に話しかけようとしなかった。奈々も誰にも話し掛けようとせず、ずっとまっすぐに黒板を睨み付けていた。
誰かが奈々に視線を向けようものならすぐさま、迎撃ミサイルのように殺気すら籠った瞳で睨み返していた。
お昼休み、奈々を除いたいつものメンバーが集まった。
愛と由貴子は奈々の態度にご立腹のようで、昼を食べている間ずっと奈々の悪口を言っていた。
奈々のことを高飛車で嫌な女だと思うことはあるけど、顔を怪我して落ち込んでいる時に追い打ちをかけるのはあまりに可哀想だ。
夏月はそう思いながらも、二人と一緒になって悪口を言った。まりえも同じような行動をとっていた。月葉だけは奈々の悪口を言わなかったけど、向日葵みたいな笑顔で「そうだね」と頷いていた。
彼女らしくない態度だけど、しょうがないのかもしれない。いじめられて一度叩きのめされた彼女は、自分を守る術を身に着けたのだろう。
奈々が教室から逃げるようにいなくなったのをいいことに、これまでの行いまでほじくり返して、みんな言いたい放題に奈々を罵っていた。嫌気が差したのか気紛れか、月葉はいつのまにかふらりといなくなっていた。
あまりにも自然に姿を消したから、夏月以外は月葉の不在に気づかなかった。
十数分後、月葉は何食わぬ顔で戻ってきた。トイレに行っていたのかもしれない。
結局、奈々の悪口トークは昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまで続いた。
放課後、ほとんど活動がないわりに内申書では高評価のボランティア部に所属している夏月は、一人で学校を出た。本当は月葉と帰りたかったけど、誘えずにいるうちに彼女はいなくなっていた。
学校が終わってすぐのこの時間、通学路を歩いている生徒はあまりいない。部活に友達との遊びにとみんな忙しいのだ。そんななか一人でポツポツと歩いていると、自分が孤独な人種になったみたいで虚しい。
少しでも賑やかな場所に早く行きたくて、早足で駅に向かった。
他校生で混みあった駅のホームで電車を待っていると、奈々が傍を通った。
「奈々ちゃん」
思わず声を掛けてしまった。
無視してくれたらよかったのだが、奈々は足を止めて「夏月か」と脱力したような声で呟いた。
なんとなく、二人で電車を待つ。
共通の話題はすぐに尽きて会話が途切れた。沈黙が苦くて必死に話題を探していると、奈々が自嘲気味な声で呟いた。
「どうせワタシのこと、愛たちと笑っていたんでしょう。偉そうな女王様気取りがご自慢の顔に火傷を負って、ざまあみろとでも言っていたんじゃないかしら?」
「そんな、奈々ちゃんのこと、みんな心配しているよ」
「フン、どうかしらね」
疑うような眼差しの奈々に焦る。
「愛ちゃんと由貴子ちゃんとまりえちゃんは少し悪口言っていたけど、わたしはいい気味だなんて思ってないから」
「本当にそう思っているの?」
「もちろんだよ、わたしは奈々ちゃんの味方だよ。愛ちゃんたちは、奈々ちゃんがクールビューティを気取って退屈な女だとか、感じ悪いって言ってたけど、わたしはカッコイイって思っているよ。奈々ちゃんのこと、悪く言うなんて酷いよね」
さっきまで無表情だった奈々の顔に苛烈な怒りが宿った。
「アナタのそういうところ、腹が立つのよ!」
周囲の人がぎょっと振り返る。奈々は舌打ちをして離れていった。
しばらくして乗る予定の電車が来たが、奈々も乗っていると思うと足が動かず、夏月は走り去っていく電車を呆然と見送った。
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