隣人の誘惑~揺れる私達の心と身体~

砂山 海

第1話~希望はマンネリへと変わっていく~

「ではこちらが新居の鍵となります」

 私は恋人の白瀬愛美と共に管理会社の女性社員から新居の鍵を受け取ると、笑顔でうなずいた。隣を見なくてもわかる、彼女もまた私と同じような表情をしているに違いないから。

「では何かありましたら、ご連絡下さい。それでは失礼します」

 女性社員を見送ると、私達は部屋の中を見まわした。オートロック付きのマンションは築二十年とあったが古さを感じさせず、白い壁もまるで輝いているように内装も綺麗にしてある。2LDKの新居は一人だと結構高めの家賃だけど、二人でならそれなり。

「やたら広く見えるけど、色々置いたらきっと狭くなるんだろうね」

「でも、楽しそう。ここから私達の生活が始まるんだね」

 そっと愛美が私の手に触れてきたので、優しくそれを握る。温かい彼女の手が心にもじんわりと熱を伝わらせ、また私の口角が上がった。

「これから忙しいね。引っ越しして、家具入れて、足りないもの買い足して」

「でも近くに家具屋さんあるからいいよね。駅からもそんなに離れていないし、買い物するには困らないし、立地はいいよ。だからすぐだよ、すぐ」

 愛美の言う通りだった。二人で選んだこの新居は値段の割に立地が良く、交通便も良いし大きなスーパーや家電量販店などもある。何かあればすぐに調達できるのは大きい。

「じゃあ、仕事も頑張らないとだね。二年目で嫌な事も見えてきた頃だけど、何か珍しくやる気出てきた」

「私は就職したばかりだけど、同じ気持ちだよ。ねぇ涼音、二人で頑張ろうね」

 見詰め合い、微笑み、やがて二人の顔がゆっくり近付く。彼女のぽってりした唇に吸い寄せられるように私は……。

「待って、駄目だ」

 慌てて私は顔を離した。驚く愛美に私がドアと窓に視線を向けた。

「鍵かけていないし、カーテンだって無いから丸見えだ」

「あはは、じゃあ早速カーテン買いに行かないとね」

 苦笑いする愛美と見詰め合った後、私達はクスクスと笑い合った。窓の外からは爽やかな日差しが遮るものも無く差し込んできている。とりあえずそれにだって見られるのは恥ずかしいから、何とかしないと。

「ねぇ、カーテンの色とか柄とかってこだわりある?」

 愛美が嬉しそうにそう尋ねてきたので、私は少し小首を捻った。

「んー、あまり派手なのは好きじゃないかな。あと、ピンクとかいかにも女の人がいますよってのは防犯上よくないって聞いた事がある」

「そうなんだ。でも、一ヶ所はピンク系を使いたいなぁ」

「じゃあさ、あまり目立たない寝室側につけようよ」

 言いながら私が思わず吹き出すと、愛美が不思議そうな顔で覗き込んできた。

「いやなんかさ、これからこうやってたくさん相談し合って、お互いの好きや嫌いを知っていくんだなぁって思ったら、ちょっと恥ずかしいような嬉しいような気持ちになって」

「楽しいよね。私もたくさん涼音と話していきたいな」

 あぁ、愛美の笑顔が好き。声が好き。何もかもが好きだ。

 晴天が私達の門出を祝福してくれているかのようで、世界全部に応援されているかのよう。再び見詰め合い、もう一度笑い合った後で私達は素早くキスをした。



「なんて時もあったよね」

「いやぁ、あの頃は私達も初々しかったよね。若かったわ」

 同棲生活を初めて五年、あの頃に比べて色んなものが大きく変わった。

 あれだけ広く感じていた部屋は互いの物で溢れかえり、手狭さを感じている。お互いそんなに物を溜め込んだり買い物をたくさんする方じゃないのだが、それでも五年一緒に住んでいれば思い出も荷物も増えてしまう。

 私は二人掛け用のソファに寝転がり、お気に入りの動画を見ている。愛美はもう一脚の二人掛け用のソファに座り、スマホゲームをしている。同棲初期に買った私が寝転がっているソファは布張りのため、今はもう毛玉が目立つ。最初は二人で同じソファに座っていたけれど、やがて快適さを求めてもう一脚買ったのだ。

 愛美は職も変わった。最初は保険会社の営業をやっていたのだが、自分に合わないと一年ちょっとで辞めた。今はオンライン塾講師として、主に在宅でやっている。私は職こそ変わっていないものの、まぁ良くも悪くも会社に慣れた。

 また五年も一緒にいれば当初の燃えるような恋愛も落ち着き、良くも悪くもマンネリに落ち着いてしまっている。それもそうだ、ずっと一緒にいれば相手の事が大体見えてくるし、何を見たり聞いたりしても大体同じ瞬間に立ち会っているのだから。

 だから会話は減った。恋愛が燃え上がる要因として、相手のミステリアスな部分を知りたいと思うからだ。でも一緒にいれば何もかも見えてしまう。わざわざ訊かなくても、もう知っている事ばかりなのだから。

 実に楽な関係だ。でも、相手の事をもっと知りたいと思う欲求が減るにつれ、初々しい恋が冷めていくのを感じていたのは事実。

 だからと言って不満は特に無い。ちゃんと今も私は愛美の事を愛しているし、愛美からも愛されているとわかっているから。頻度こそ減ったけど、今もちゃんと夜の営みはある。週に大体二度、主に週末。

 同棲直後はわざわざラブホに行かなくてもいいからと、ほぼ毎日していたかもしれない。若かったというのもある。当時私は二十三、愛美は二十二だったから体力も性欲もあった。それこそ相手のミステリアスな部分が大きい行為なので、貪欲に知ろうとしたものだ。

 二十八になった今、翌日以降も仕事があると思えばなかなかする気にはなれなかったし、どんな事をして相手が悦び、どんな事をされると私が悦ぶのかもうほとんど知ってしまった。だから今は正直に言えば愛の確認と繋ぎ止めの意味合いが大きい。

 それでもすれば満足するし、気持ち良い。終わった後に裸でそのまま寝る事はほとんど無くなったけど、それでも事後抱き合うのは好きだ。愛美の大きな胸と肉付きの良いいやらしい身体と抱き合っていると、幸福を感じる。

 ただ、このまま一緒にいるとどんどんと熱が失われ、ただ傍にいるだけの関係になってしまわないかと時折思ってしまう。それがちょっと、本当にちょっとだけ怖い。

「そう言えば涼音、明日は早く帰れそう?」

「難しいかな。ほら、人減ったって前に言ったでしょ。募集しても全然人来なくてさ、残業ばっかりで。あれ、明日なんかあったっけ?」

「いや別に何も無いけど。ただ涼音の作るカルボナーラ食べたいなって思っただけ」

「あー……日曜日に作るよ」

 互いに目を見ず、それぞれのスマホを見ながらの会話。同棲初期ならお互いそれに苛立ったのかもしれないけど、今は特に気にしない。会話が成立すればいいし、意思が疎通できれば問題無いから。

「カルボっていつものでいいの?」

「うん。涼音の作るのってチーズ多めで味濃いから好きなの」

「私がそういうの好きだからね」

 料理は得意な方だし、作るのも割と好きだけど今は仕事の都合でなかなか平日作れない。幸いな事に愛美も料理はそれなりにできるため、帰ってきてご飯を用意してくれるのはとてもありがたく思っている。だから今じゃ平日は愛美、週末は私が担当。

「あー、週末楽しみ」

「まだ三日あるけどね」

 でもやっぱり悪い気はしない。求められれば嬉しいし、期待されていれば応えたくなってしまう。何だかんだ、こんな生活がこれからも続くのだろう。でもきっとみんなそうなのかもしれない。

 会社の先輩も上司も、何なら私の両親だって、一見すれば目に見える愛情が無いから冷めているのかなと思っていた。でも違うのだろう。そこに燃えるものが無くとも、続けられるだけの一定の温度があるに違いない。

 私はスマホから愛美に目を移す。よれたTシャツにグレーのハーフパンツ。一見すると色気の欠片も無いような格好だけど、気を許しているからこそなのかもしれない。私もそうだ。

 ただ、それでもどこか望んでいる。何か刺激が欲しい、と。

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