Before Deadth
サビヤ・シャイク
第1話
🌙 ファリアの森の夜
その夜、いつもと違う雰囲気が村を包んでいた。
木々がざわめきをやめ、風の音さえ消えていた。
ファリアは暗がりの森を恐々と進んでいた。
身体はだるく、喉は乾き、心には重苦しい不安が広がっていた。
歩みを進めるたび、前髪に汗が落ちた。
掌はじっとり濡れ、背中にはじんわりと熱がこもっている。
夜風は冷たいのに、恐怖ですべてが熱く感じられた。
ファリアは袖で汗をぬぐい、ひたすら前を見つめた。
そのとき、かすかな光が揺らめいた。
火の揺らぎだった。
遠くに、誰かが焚き火をしている。
落ち葉を踏む音だけが森に響く。
動物の遠吠えが聞こえ、胸がぎゅっと締めつけられた。
危険だと分かっていても、何かが彼女を引き寄せていた。
「…水が欲しい。」
かすかな声でつぶやくと、足元が痛み出す。
血がじわりと染み出し、地面に落ちていった。
それでもファリアは足を止めなかった。
火のそばまで近づくと、そこには動かない人影があった。
じっと座したその影に、ファリアの心臓が早鐘を打ち始めた。
「あなたは…誰?」
声は震えていた。
その影はゆっくりと顔をこちらへ向けた。
そして、音もなく立ち上がり、彼は後方へ歩き出した。
火とは反対方向――川の方へと。
ファリアは息を止め、後を追った。
月明かりと焚き火の光が交差する中、彼の姿が見えてきた。
二十代後半の青年。背が高く、均整の取れた体つき。
顔つきは落ち着いていて、兵士のような佇まいだった。
彼は黒いシャツの袖をまくり、ズボンもくるぶしまでまくり上げていた。
膝を少し折りながら河原で水を掬い、両腕、首、そして靴を脱いで足を洗い始めた。
その動作は見慣れぬものだったが、
どこかで見たような…厳かな儀礼の趣があった。
ファリアは息を殺し、じっと見つめた。
──これは、ウドゥ。
洗い清めの儀式。
幼い頃、彼女の父がバケツに水を張り、ひと息ひと息身を清めていた姿が蘇る。
当時は分からなかった祖語。
でも今、はっきりと思い出していた。
彼はゆっくりと洗い終え、片手を静かに上げ祈りを始めた。
「信仰」や「真実」といった言葉が風に乗る。
その声は、まるで清流が石を伝うようなやさしさだった。
ファリアは言葉を呑み込み、足を更に進めた。
川に膝をつき、掌で水をすくって飲む。
冷たい水が唇に触れ、体中にしみわたり、胸の奥で何かがほどけていくようだった。
涙が頬を伝い落ちた。
彼女には「安らぎ」という名の水が流れ込んでいた。
やがて彼は祈りを終えると、大地に無防備に立ち、何も敷かずに礼拝を始めた。
両手を軽く上げ、胸に下ろし、深く頭を垂れる。
彼の額は静かに湿った土に触れ、世界はその瞬間だけ息を止めていた。
そして、右、左。ゆっくりと顔を向けたのち、両手を胸の前に集めて心の中で祈りを捧げた。
ファリアはただ見届けた。
やがて、彼の足元が黄金の光で染まり始めた。
朝の光が差し込んでいた。
彼が視線を返し、ファリアも目を開こうとした——が、
眩しさで目が閉じた。
そして――母の声。
「ファルズ!ファイザ、起きて!」
ファリアは息をまとった目を開けた。
そこはもう、森ではなかった。
木の香る小さな寝室。
窓からやさしく朝の光が差し込んでいた。
枕は少し濡れていて、彼女の額を冷やしている。
そばには母・慶子の姿。
6時40分。7時の鐘まで20分。
母は朝の支度の途中で、花柄のブラウスともんぺを身に着けていた。
肩には白いタオル。少し摘んできた野菜の香りが混ざっていた。
「さあ、起きる時間よ。遅れるわよ?」
そう言いながら優しく身体を起こす。
ファリアは目をこすりながら起き上がった。
まだ薄い浴衣に包まれていて、短い髪は乱れていた。
彼女の瞳には、昨夜の記憶が残っているようだった。
――あれは夢ではない。
本当に、そこに誰かがいたのだ。
Before Deadth サビヤ・シャイク @shaikhsabiya
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