スイート・リベンジ
双海零碁
かもしれない話
空を見上げてみる。すると雲が、信じられないほど荘厳な絵を描いていることがある。しかし、そのキャンバスに子供じみたいたずらのような絵も同時に残していく。
そうして、絵画は次々と移り変わってゆく。想像なんて追いつかないほどのスピードで。
「・・・そうすれば、相手は大恥かいて、君の前から立ち去るよ。ねぇ、聞いてる?」
「え?うん。ちゃんと聞いてたよ。私だったら逆にムキになって、『もう一回やらせて』とか言ってそう。」
「そうだね。むしろ本人の闘争心に火をつけてしまうかも知らない。」
昼下がり、乾ききった河原に二人でするくだらない「かもしれない」話は、妙に納得する勢いがある。気まぐれに流れてくる心地よい風のせいかもしれない。
私達は、いや正確にはこの男は、「初デートでマジックを披露してくるキザな男がいるかもしれない」、という話をしていた。
「次はきっと、お店にいるお客さんを巻き込むと思うんだ。」
「どんな風に?」
「カードをシャッフルした後に、君が取ったカードをお客さんにも見せるように言うんだよ。そうしたら、さっきみたいに自分だけ嘘をつくわけにはいかないだろ。」
「私が嘘つきってバレるだけじゃん。別にいいと思うけどな。」
「ダメだよ。相手はそうやって君を見下そうとしてるんだから。」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「なんでもいいから、自分の手元にカードをもう一枚忍ばせておくんだ。相手からカードを受け取り、それを他の人に見せる瞬間にそのカードを重ねる。そうすれば、他の人と自分の見たカードも一致する。」
「そのカードはどうすんの?」
「相手に返す時、抜く。」
「無理無理。クラスで発言すんのすら恥ずかしいのに、知らない人の前でなんて。できっこないよそんな芸当。」
「練習すればできると思うよ。それに、案外簡単かも。相手は血眼で自分のトリックに集中しているし、他の人はお酒が入っていてそこまで君の手元は見ていないかも知れない。」
「ふーん。」
名前も知らない鳥が一羽、キャンバスを優雅に横断していく。動ずることのない胴体、美しい軌道をなす羽。その姿は、テレビで見たバタフライの選手みたいで、どちらかがどちらかの生まれ変わりなのかも知れないと思った。
「近ごろはあまり報じられなくなったと思うけれど、レイプドラックなんて卑劣な手段もあるんだ。」
私が空をぼんやりと眺めながら膨らます想像なんてお構いなしに、私の隣にいる男は懸命に喋り続けていた。
☆
枝野チヒロ、14歳。私は、私に懸命に話しかけているこの男の名前を知らない。いや、正確には、苗字しか知らない。
分かっていることはたった三つだけ。まずそいつの苗字。山下という。次に、同じ14歳であり、二中の生徒だということ。そして、水曜の放課後に決まってこの河原にいるということだ。
部活のない水曜日、午後、帰り道、河原の高架下に二人は集まり、「かもしれない」話をしている。
☆
最初に山下に会ったのは、湿気が本格的にうざいと思い始める初夏のことだった。その日は積乱雲が今か今かと言わんばかりに雨を落としてきそうな勢いで立ち込めていて、だから私は、ともかく早く帰りたかった。
河原を早足で駆け抜けていたら、大粒の雨玉が降り出してきて、あっという間に雷雨になった。慌てて駆け込んだ高架下で、少し濡れた鞄の雨粒を手で払いながら、轟音となって降り注ぐ雨と曇天を睨め付けていた。
山下がいつからそこに居たのか、私は知らない。最初から居たのかもしれないし、私の後に入ってきたのかもしれない。確かなことは、高架下で二人は同じ雨を凌いでいたということだ。
私の見つめていた先にあったキャンバスは、下地が他と比べてずっと明るく輝いていて、そこに太陽が隠れていることを示していた。
夏の雨の変化は目まぐるしい。濁流がせせらぎに変わるように、雨音はすぐに遠ざかっていった。
虹だ。
私は無意識に虹を探そうと空を見渡していた。
「もし虹を探しているのなら、太陽の反対側ですよ。」
そうやって話しかけてきたのが、山下だった。
☆
「レイプドラッグ?」
「睡眠薬をお酒に混ぜて飲ませるっていう悪どいやり方なんだ。意識が戻ったら知らないうちに無理やりされてた、なんて、聞いたことない?」
「何となく。」
「世間でも何かと話題になって、薬が溶けると青く着色するものにしたりといろいろ工夫はなされてるんだけど、防御策は知っておいた方が良い。」
「私は、自分がそんなにモテるとは思ってないんだけど。」
「そういう問題じゃないんだ。その手の輩は、相手が女であればいいって考えてる、いわば獣のような心の持ち主なんだ。」
「ふーん。」
私はどうしてこんな男の豆知識に付き合わせているのだろうか、と思い、しかし同時に、ぼんやりと何もせずここに居座る理由としてはちょうど良いと思っている。家に帰りたくないとかではない。ただ、ぼんやりする時間というものが欲しかった。それも、自然な成り行きで生まれるぼんやりが。
「山下はとても獣じゃないね。私に腕相撲で負けそう。」
「それはやってみないと分からない。・・・ともかく、代表的な防御策は三つあるんだ。」
私は最近、話を聞く時に空を絵に見立てる癖をやめた。その代わりに山下からもらったトランプで遊びながら、彼とは目も合わせずにその話を黙って聞くようになった。
山下が高架下から飛び出し、私の前に立った。相槌を打つだけの私はその陰に隠れる。ちょうど日が当たらなくなった。
「まず、自分が席を立つとき、飲みかけのものは全て飲み干すこと。それから、戻ってきた際に知らない飲み物が置かれていたらそれは薦められても絶対口にしないこと。最後に、他人から渡された薬は絶対に飲まないこと。」
「あー、多い多い。もう忘れそう。」
「忘れないで欲しい。とても大事なことだから。」
山下の言葉に妙な重みを感じて、私は彼の顔をチラッとだけ見た。どうしたことか、とても悲しそうで、それが後ろに聳えるキャンバスに似合っていなかった。
「そんな顔しないでよ。不安なら、いつかまた聞けばいいじゃん。忘れたか聞いてよ。で、忘れてたらまた話してよ。」
「分かった。」
私なりの気遣いだった。「無関心は、最も無責任な罪だ」って、前に山下に言われたのを思い出したからね。まだ意味はよく理解できてないけど、多分、こういう私の態度のことを言うんだろうね。
それに、笑った方が良いキャンバスになる。
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