死霊

辰井圭斗

――

 画面の向こうでビルが破片を撒き散らして倒壊する。作画頑張ってんじゃんと思いながら見ていると、次々に他のビルも倒れ、できあがった廃墟に敵のボスが立っている。そこに駆けつける主人公、惨状に憤激して最終決戦へ。

 イヤホンから爆音が流れてくる。もう他の家族は寝ているから、こんなものをつけて観ているのだ。主人公と敵の肉弾戦。なかなか画がうまい。今期のアニメだったら一番かもしれない。録画してあるから、後でもう一回観よう。結構派手だし。

 その一方で、でもなあ、と脳内で撫で尽くした苦さがこみ上げてくる。

 こんな風に分かりやすい敵が現れて、日常が脅かされたりしないから、俺達は生きていけないんじゃないか。

 アニメにそんなことを言っても仕方が無いのだが。

 俺の前のテーブルには英語の教科書が開かれている。明日、というかもう日付は越えているから今日中間テストがあるのだ。こんな、アニメを観ながら勉強をしていて頭に入ってくる訳がない。どうせ今回もさしてできないのだろう。

 だけど、俺は適当に娯楽を突っ込んで脳を鈍らせていないと、このクソみたいな内容を構成しているアルファベットの羅列を学習することに耐えられそうにない。多分英語自体が嫌いなわけじゃない。そうじゃなくて、今俺が巻き込まれている、この全体。いや、もういい、考えないことにしよう。何のためのアニメだ。

 こんな「苦労」をして、結果も期待できないのに教科書を開き続けているのはおかしい。だけど、開き直ることもできないじゃないか。こんな有様でも思い放ってしまうのは怖い。首吊った方がいいのに、いつまで経っても吊れないのと一緒だ。俺は全く集中しないまま、テスト勉強というものに掴まり続けている。


 結局ほとんど徹夜で、眠気をこらえながら朝の電車に乗った。通勤ラッシュに揉まれながら適当な位置に収まって吊革を持つ。眠たい頭には、流れていく外の景色がやたら速く感じた。

 隣に女子が立って狭い中縮こまるように両手で英語の単語帳を開いている。クラスメイトだ。鹿山かやま。下の名前は梨子りこだっけ。少なくとも美人ではない。目立たないというより悪い意味で地味で、真面目なんだろうけど、女子に興味ない俺からしてもトロく見える。大体、テスト当日の電車で必死な顔して英単語覚えているやつが勉強できるわけがない。よくやるよ。もう俺は電車の中でまで勉強しようとか思わないわ。

 電車が大きく横揺れした。俺は吊革を持っていて大丈夫だったが、鹿山がバランスを崩して俺の方に倒れてくる。腕の側面で、鹿山の肩を受け止めるかたちになった。紺色のブレザーを重ねた身体が、それでも柔らかさを主張してきた。だけど、それでやらしい気持ちが起こるということは全くなく、それより「あーあ」という感じで、鹿山がバランスを取り戻すのを待った。

 鹿山の黒目がちの目がキョドって変な小動物みたいで見てられない。

 ようやく俺にもたれかからなくなった鹿山が「ごめん」と言う。「……いいよ」と返すと、鹿山は気まずそうにした。今、なんか他に言いようがあったんだろうか。思い付かない。咄嗟に「いいよ」なんて言った自分に、社会性の名残を見つけて驚いたくらいだ。

 鹿山は多分無理矢理意識的に単語帳に戻った。俺も外の景色を見続けた。そしてやがて着いた同じ駅でバラバラに降りた。


 テストは案の定できなかった。周りが「テストオワったわ」とダブルミーニングを持たせながら笑い合っているのを聞きつつ荷物をまとめる。足早に教室を出た。駅までの道を歩く。俺も「テストオワったわ」と笑えるような人間ならよかったのだろうか。やろうと思えば、できるだろう。言った瞬間ひどい寒気がしそうなだけで。改札を通り過ぎて、しばらく待ってやって来た電車に乗り込んだ。朝とは逆方向。決まった帰り道だ。

 オワった。オワった。言わなくったって、とっくにオワってる。テストだけじゃない。人生が。

 この国だって、どこからどう見たって詰んでて、俺みたいな凡人以下がのうのうと生きていけるようなヌルい国じゃなくなってて、それはこの先悪くなりこそすれ良くなることなんてありえない。

 別に俺に目立った不幸があるわけじゃない。壮絶ないじめに遭ってなどいないし、努力とか頑張りとかが全くできない所まで追い詰められているなんてこともない。ただ、これならと思えるような得意なこともなくて、頭も要領もよくなくて、生きていけると思うには何かがどうしても足りないだけなのだ。

 ある犯罪者が「こんなクソみたいな人生やってられるか! とっとと死なせろ!」と言っていたが、まったくもって同感だ。

 まだしも分かりやすい不幸があれば。いや、積極的に不幸が欲しいんじゃない。だが、俺のステータスを「本当」に追い付かせてくれ。もうとっくに生きていけないんだから、俺のステータス画面に生きていけないって傍目にも分かるように表示してくれ。ちゃんと全部赤文字にして、「死んでる」って書いてくれよ。

 それなりに人がいて、電車の中の酸素が薄い。電車。この日常を繋ぐ乗り物がとにかく色んな人間を満載してどうしようもない速さで走っているということが吐き気がするほど象徴的で、そんなことを認識する俺の脳みそがもし手の中にあったら即座に握り潰したかった。スマホでも見ようと視線を斜め下に下げる。

 そこで視界に鹿山梨子が入った。

 いつもなら日常の変わらぬ風景として気にも留めなかっただろう。毎日乗り合わせているんだから。だけど、今日は朝にあんなことがあったから視線を止めてしまった。鹿山は横並びの椅子の前に立って、すごく体調が悪そうだった。何人かを挟んで向こうにいるのに、ここからでも顔を青くして汗を滲ませていることが分かる。テスト勉強で無理でもしたのだろうか。

 鹿山は必死な顔をして、目の前の横並びの椅子を見ている。サラリーマンが座ってスマホを見ていて、横にどっかりとカバンが置かれている。サラリーマンが席を譲らなくったって、あのカバンがどけば鹿山くらい座れるだろう。多分鹿山も同じ事を考えて、カバンをずっと見ているのだ。その身体からほとんど叫びが聞こえてきそうだ。

 そんなにつらいなら、もう言ってしまえばいいのにと思った時、サラリーマンが鹿山の視線に気付いた。鹿山とカバンをちらりと見て、口元を薄く歪める。

「座ります?」

 明らかな嘲笑だった。そんなあからさまに見てくるなよ、という。うわ、感じわる、と他人事ながらモヤついていると、サラリーマンの顔が一瞬膨れ上がったように見えて、いや確実に肉が外向きに力を加えられて、目が剥かれて、


 ぜた。


 首から上が破裂して、辺りに飛び散った。椅子に、カバンに、隣に座ってた人間に、窓に、そして鹿山に、血と何か分からない柔らかそうな組織が浴びせかけられる。重要なものを欠いて倒れ込むサラリーマンの首から、骨っぽいものが出ている。

 俺はその光景の中で、なぜか鹿山の表情をコマ送りみたいに見てしまった。驚き。罪悪感じみたものに顔を歪めて。目だけが、悟る。

 状況的には、鹿山がいて、鹿山の目の前に座っていたサラリーマンの頭が爆発しただけだ。でも、その一連の表情の流れで分かってしまう。これは鹿山がやったんだと分かりきってしまう。

 この車両にいた乗客が悲鳴を上げて、鹿山とサラリーマンだったものから距離を取る。鹿山の周りに空白の円ができて、その円の中に俺だけ取り残される。

 俺が動かなかったのは、単にそこに立っている女子が知り合いで、頭を雑多な思考が駆け巡っていて、反応が遅れたというそれだけのことだ。

 鹿山と目が合う。黒目がちの目が微かに彷徨いながら俺を映している。多分俺達は今、二人とも他のことで頭を一杯にしながら、その片隅で今日の朝のことを思い出してる。

 何を思ったのか、鹿山が一歩足を進めた。乗客から悲鳴が上がる。鹿山はその多発的でどこから上がったものか定かでない悲鳴のもとを探すように顔を巡らせて、「は」と吐き出した息に肩を小さく下げた。

 俺の足元から予感が急速に駆け上がってきたのと同じタイミングでこの車両の乗客全員が爆ぜた。飛び散り撒き散らかされ至る所に絡みつく何か。俺と鹿山を濡らしてへばりついてくる何か。俺の靴に早くも最初の波が寄せて、鹿山の紺色だったブレザーは黒々と所々に光を跳ね返して、濡れた髪が顔に張り付いていて、赤い流れが頬を伝って、顎のラインで合流して滴り落ちた。

 脳に信号が走りまくる。なんだコレとか、鹿山がやってるんだよなとか、どうやってとか、俺生きてるとか、そういう思考とも言えない思考がコンマ何秒かで次々と閃く。色が塗り替えられてしまった、グズグズのものに満ちた車内を見て、急に頭がクリアになる。

 なんかすごく懐かしい。

 俺はこの電車の中にとても見覚えがあるような気がした。そうだ、こういうことだ。この世界はとっくの昔にこうだった。現実がやっと「本当」に追い付いたのだ。俺がずっといた場所が今ちゃんと見えるようになった。

 はは、俺こういうの結構向いてんじゃね?

 そう思った途端、膝がどうかしてるほど笑い始める。頭が「なんで」で埋め尽くされる。全身が立ってられないほどガクガク震えて、でもちゃぷりといっている床に座り込みたくなくて、吊革を引っ掴んで身体を繋ぎ止める。そんな俺を鹿山はずっと見ている。

 鹿山の向こう側で、隣の車両とここを隔てている扉が開けられた。隣の車両から悲鳴が上がる。俺の後ろでも同じ音がして、そっちの車両にも恐慌が伝わっていく。電車がトンネルに入って、外が急に暗くなった。そしてトンネルの中で止まった。誰かが、非常停止ボタンでも押したのかもしれない。鹿山は固い表情をしている。電車の走行音がやんで、その分だけ音がマイナスされた世界で、鹿山のか細い声が届く。

 ……港田みなたくんは、

 そう、俺の名字を呼ぶ。

「電車は好き?」

 脳が理解を拒んだ。でも、俺は思考をストップさせながら、首を横に振った。

 鹿山は表情をそのままに頷く。

 私も。

 ばがん、と重たい金属が破裂する轟音がして、車内の電気が全て消えた。


 嫌な音で耳が鳴っている。こめかみを押さえてそれに耐える。腕から力が抜けて膝をついてしまった。制服のスラックスが水気を吸って重くぬるたくなっていく。暗い車内、隣の車両だけ明かりが不規則に明滅している。電気が通ったり通らなかったり。数秒おきに白む景色の中、破砕された窓ガラスと車両全体に走る巨大な亀裂が見える。壁にも天井にも床にも一面に何かがこびりついていて、この電車は中の人間ごと破裂したのだと理解した。

 きっと向こうの車両もその向こうの車両も、この車両を除いて先頭から最後尾までそうだ。

 鹿山が、床に撒き散らかされている足を滑らせそうなものを慎重に避けながら、ドアの前に立った。金属製のドアが外に向かっていとも簡単に吹き飛ぶ。「出よう」と俺に向かって言った。

 電車の出口からトンネルの地面までは結構高さがあって、膝を使って飛び降りなければならなかった。着地した時、その音がトンネルの中に反響した。暗い中ぼんやりと周りが見えて、死骸になった電車が歪みながら黒く伸びていた。

 外からの白い光が近付いて来て、前を歩く鹿山が逆光でシルエットになる。久し振りの新鮮な空気が流れてきて、外に出た。

 いつも、電車から見ていた景色だ。左手が山。右手に土手と幅広の川が走っていて、その向こうにビル街がある。鹿山がそちらに顔を向けている。

 ビルの一つが中ほどで爆ぜた。濃い水色の空を背景にして、キラキラとしたものが放出されて、そこから上が下の部分に沈み込むようにゆっくりと崩れた。粉塵があがる。その粉塵に崩れたビルが隠れたくらいで、川向こうから吹く風を感じた気がした。

 なんなんだろう、これは。

 俺はふと今日の深夜に考えたことを思い出す。

『こんな風に分かりやすい敵が現れて、日常が脅かされたりしないから、俺達は生きていけないんじゃないか』

 崩れて行ったビルを反芻して、中に沢山人がいたんだろうなみたいなことも強く考えるのだが、一方でやはり懐かしく、この世界のかたちはこうだという気がして、今更脅かされる日常なんて無かったのだと気付いた。

 それに百歩譲っていま日常が脅かされているのだとして。

 なんで俺はそれをするのが敵だと思っていたのだろう。今、目の前で、陽光を浴びながらぼうっと遠くを見ているのは、電車が同じだっただけのクラスメイトなのに。

 不意に鹿山が顔を歪めた。

「お腹痛い」

 大丈夫? トイレ行く? と言って、自分の言葉の悠長さに驚いた。どこに、行けるというのだ。こんな格好で。

「そんな感じじゃない。でも座りたい」

「……ここからは少し離れよう」

 人に見つかったらまずいという気だけした。客観的にはただの生き残り二人に見えるのかもしれないが、何となく怖かった。


 川とは反対側、山の方へ。青ざめながら歩く鹿山を振り返り振り返り、道なき道を分け入って。しばらく歩いて土砂崩れをコンクリで固めているところに着いた。膝くらいの高さに出っ張ったコンクリがあるのでそこに座らせた。俺は座ろうという気になれなくて、立っている。

 鳥が鳴く声がする。遠く、遠く、微かに尋常でないサイレンの音がする。木々がざわめいて、鹿山は俯いていた。せわしく息を吐いていた。

 何か話をするべきだろうか。あれは鹿山がやったのかという確認をして、どうやっているのか聞いてみるべきだろうか。でも、それは果たして今しなければならない質問なのだろうか。だって、もう、そうじゃないか。もっと大事なのは、今何考えてるとかこれからどうするとか、そっちの方で。

「……お母さんとの約束、破っちゃった」

 切れ切れに泣きそうな声がした。

「あれはしちゃいけないって、お母さんに言われてたのに、破っちゃった」

 それを聞いた頭の半分がその僅少な情報を処理して、本当は全く知らない鹿山の過去を曖昧に構成していく。

「でも、もうなんで約束守ってたのか、分からないの」

 鹿山の肩が震えている。きっと、俺は何か言うべきなのだろう。でも何も思い付かない。

「なんであの人、あんな顔したんだろう。なんで、私をすぐに座らせてくれなかったんだろう。もう嫌だ……」

 声が潰れる。俺はどうしたらいいのか分からなくて、警察来たらどうする、みたいなすごく自分勝手なことを聞いた。

「どうしよう……。何もしなかったら、捕まっちゃうよね……でもそれって大変なことなのかな」

「どういうこと」

「だって、もう変わらないじゃん」

 サイレンの音がする。川向こうじゃない。トンネルのあたりだ。

「ずっと嫌だった、ずっとつらかった」

 あのサイレンがする車に乗っている人間は、もう電車の中がどうなっているか知っているのだろうか。山に消えて行く俺達の姿がどこかに映っていたりするのだろうか。

「毎日、いつも、苦しくて。学校に行けて、ご飯も食べれて、苦しいなんておかしいのに、つらくて。ずっと助けてって言いたくて、でも助けてって言っても『何を?』って言われるよね。私も何を助けてほしいか分からないの」

 だから、私は助からない。

 意識が鹿山の言葉の方に戻った。なんだそれと思った。

 そんなの、俺じゃん。

「……もう嫌だ、もうやめよう、壊そう」

「何を」

「地球」

 その、地球、という響きが、それだけが低くて、力があって、こいつは今おおげさなことを言ってるんじゃなくて、できてしまうのだと分かってしまった。地球が壊れる。世界が滅ぶ。マジで? というのが第一の感想で、だって、もう変わらないじゃんという鹿山の言葉が頭の中でリピートされて、そしてジワジワと、いやぶわりと、死にたくないと思った。


「やめろ」

 鹿山と目が合う。やめたところでどうなるのか、もう取り返しのつかないことになってるじゃないかという考えを、思考の歯車が嚙みこんで、バグった俺の口からまろび出たのは、

「罪を償おう」

 というド三流のセリフ。鹿山が口をぽかりと開ける。ああ。

「港田くん、罪って何」

 ごめん。

「私はどんな悪いことをしたの。――人を死なせるのは、悪いことだよ。でも、何が悪いの」

 それが、殺人は何が悪いんですか、という陳腐な質問なら、俺は答えられたんだろうか。でも、今鹿山が言っていることは違う。人殺しや世界を滅ぼすことが悪いのは分かっているが、何が悪いか教えてくれと言っているのだ。

 俺には鹿山の言っていることが分かってしまう。なんでそんなことを言うのか分かってしまう。

「……ねえ、そんなこと言うなら助けてよ」

 軋んで震えて、すぐ側の地面が割れた。

「私を助けてよ!」

 空気が切り裂かれる。俺の指が千切れ飛ぶ。

 助けてって。いや、そんなの無理じゃん。俺は俺すら助けられなくて、鹿山もそうで、だから二人してこんなことになってるんじゃないか。

 俺達はこの世界でとっくに死んでて、それに現実が追い付いていないだけなのだ。

「分かった。分かった、鹿山」

 頬が切れる。耳が飛ぶ。シャツが破れて。

 俺は鹿山の前にほとんど崩れ落ちて、欠損した指の切り口から血を流すその手を鹿山の手に重ねる。ぬるりと滑って、鹿山が顔を上げる。目から何かが溢れそうになっている。

 流れていく血を感じながら、このくらいじゃ死なないんだよなと今度は失望する。思考が身勝手だ。今ある俺の傷が致命傷だったら、話はとても簡単だったのにね。

「一人にしないから」

 いいよ、とは言えなかった。怖くてすくんで、どうしても言えなかった。でも、言えなかっただけだ。

 追いつめられた人間の意思疎通は大したもので、それだけの言葉で全部鹿山に伝わってしまった。鹿山が初めて微笑む。涙が流れる。

「うん」


 世界が裂ける音を聞いた。

 最後まで感覚したのは、

 縋る指。

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死霊 辰井圭斗 @TatsuiKeito

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