【完結】婚約破棄と王家の呪い

ゆきむらちひろ

01:泡沫の恋と、破滅への計画

 エルグランド王国の若き才能が集う学び舎、王立学園。その中庭に設えられた白亜のガゼボは、生徒たちの憩いの場として知られている。今日の午後も、燦々と降り注ぐ陽光を避けるように、一際目を引く一団が談笑に興じていた。


「すごいな、リリアナ。この刺繍、まるで本物の薔薇が咲いているようだ」

「まあ、ギルバート様。お上手ですこと」


 はにかみながら礼を言う少女、リリアナ・アシュフォードの指先で、一本の絹糸が魔法のように布地を彩っていく。

 リリアナは元平民でありながら、先代の功績により男爵位を与えられたアシュフォード家の令嬢だ。控えめな佇まいの中に凛とした輝きを宿す彼女の周りには、いつも人が集まった。


 特に、この国の未来を担うはずの青年たちが。


 快活な声で彼女の刺繍を褒めたのは、騎士団長の嫡男・ギルバート。たくましい身体つきと裏表のない性格で、誰からも好かれる好青年だ。


 その隣で、銀の竪琴を爪弾きながら優雅に微笑むのは、宮廷音楽家の息子・フェリクス。彼の奏でる繊細な音色は、庭園の鳥のさえずりと見事な調和を見せていた。優れた容姿もあって、彼の演奏する姿は一枚の美しい絵画のようだ。


 少し離れた場所では、宰相の息子・セオドアと、大商会の跡取りであるルーカスがチェス盤を挟んで唸っている。


「チェックだ、セオドア。これで俺の勝ちだな!」

「待て、ルーカス。まだだ。……このビショップをここに動かせば、君のクイーンは逃げ場を失う」

「うげっ、さすが宰相閣下の息子は頭がキレるぜ! ちょっとは手加減してくれたっていいだろ?」

「勝負に手加減はない」


 軽口を叩き合う彼らの中心で、ただひとり、静かにリリアナの手元を見つめている青年がいた。陽光を弾くプラチナブロンドの髪、空の青を溶かし込んだかのような瞳を持つ美丈夫。この国の王太子、アレクシス・フォン・エルグランドその人だった。


 彼の意識は、チェス盤にも、竪琴の音色にも、庭園の薔薇にも向けられていない。ただひたすらに、リリアナというひとりの少女にだけ注がれていた。その眼差しに込められた熱に気づかぬ者はこの場には誰もいない。それこそ、リリアナ本人でさえも。


「アレクシス様も、何か一言おっしゃっては? リリアナ嬢のこの見事な腕前を」


 フェリクスが竪琴を手にしたまま、悪戯っぽく水を向ける。

 アレクシスははっと我に返ると、少しだけ頬を染めた。


「あ、ああ……。素晴らしい、リリアナ。君の指先は、まるで春の女神のようだ。何もない場所に、かくも美しい命を咲かせるのだから」

「まあ……! もったいないお言葉です、殿下」


 王太子からのあまりに率直で詩的な賛辞に、リリアナの白い頬がぽっと赤く染まる。その初々しい光景に、ギルバートたちは顔を見合わせ、仕方がないな、というように笑みをこぼした。


 彼ら四人は、王太子アレクシスの側近候補だ。そして彼らもまた、リリアナの優しさ、聡明さ、そして時折見せる芯の強さに惹かれている。

 だがそれ以上に、敬愛する主君であり、かけがえのない親友であるアレクシスの、焦がれるような恋心を知っていた。王太子という立場がなければ、今すぐにでも彼女を腕の中に閉じ込めてしまいたいだろうに。その抑えられた激情を、彼らは誰よりも理解していた。


 だからこそ、彼らは自らの淡い恋心に蓋をした。このどうしようもないほど真っ直ぐなふたりの恋を、もっとも近くで祝福し、見守り続けることを選んだのだ。例えその恋が、決して結ばれることのない、泡沫の夢だと分かっていても。


「しかし、もうすぐ卒業だな。この庭でこうして集まるのも、あと何回だろうな」


 ギルバートが、ふと空を見上げて呟いた。

 その一言に、ガゼボを包んでいた穏やかな空気がかすかに揺らぐ。


 卒業。それは、かりそめの平穏の終わりを意味する言葉だった。

 学園という垣根がなくなれば、彼らの間には厳然たる身分の差が横たわる。王太子として、貴族として、それぞれの道を歩まねばならない。


 そして、アレクシスには、公爵令嬢のイザベラ・フォン・ヴァインベルクという、王家が定めた婚約者がいる。リリアナとの恋は、この学園の中だけで許された儚い夢物語に過ぎなかった。


 アレクシスの表情から、すっと光が消える。リリアナもまた、楽しげだった刺繍の手を止め、俯いてしまった。誰もが、その先に待つ未来から目を逸らすように、押し黙る。

 その重苦しい沈黙を破ったのは、いつもお調子者を気取るルーカスだった。


「おいおい、しんみりすんなって! 卒業したって俺たちの仲は変わらないだろ? な、殿下!」

「……ああ、もちろんだ」


 力なく頷くアレクシスの姿に、誰もが胸を痛めた。この幸せな時間が永遠に続けばいいと、誰もが願っていた。しかし彼らの願いとは裏腹に、運命の歯車は容赦なく回り続けていた。



 ―・―・―・―・―・―・―・―



 その日の夜。王太子の私室に、アレクシスと四人の側近候補たちが集っていた。

 昼間の和やかな雰囲気とは打って変わって、張り詰めた空気が満ちている。ロウソクの炎が、アレクシスの苦悩に満ちた横顔と、それを見守る四人の親友たちの深刻な表情を揺らめかせている。


「……もう、時間がない」


 絞り出すようなアレクシスの声が、静寂を切り裂いた。

 四人もまた、彼がなにをさして言っているのか理解していた。


「卒業記念の夜会が終われば、私は公務に戻り、イザベラ公爵令嬢との婚姻準備が本格化する。そうなれば、リリアナと会うことすら叶わなくなるだろう」

「殿下……」


 ギルバートが、握りしめた拳を震わせながら呻いた。それはアレクシスが抱く純粋な恋心を知るがゆえの、苦しさに満ちたものだった。


「王太子でさえなければ。ただのひとりの男として、彼女を愛し、守ることができたのなら……! この地位も、血も、すべてが私を縛り付ける鎖でしかない!」


 アレクシスは机を強く叩いた。ガタン、と音を立ててインク壺が倒れ、黒い染みがじわりと広がっていく。まるで、彼の心に広がる絶望そのもののようだった。


「殿下、お心を強くお持ちください。感情に任せた行動は苦境を招くだけです」


 セオドアが冷静に、しかし憂いを帯びた声で諫める。彼は四人の中でも最もっとも現実主義者であると自負している。同時に、この恋の行く末を誰よりも案じていた。


「どう強く持てというのだ、セオドア! 君に分かるか? 光を奪われ、永遠の闇を歩めと言われる私の気持ちが!」

「……殿下のお心は、今、ひどい不協和音を奏でておいでです。その旋律は、聴く者の心さえもかき乱す」


 フェリクスが悲しげに瞳を伏せた。普段は朗々とした美しい歌声を奏でる彼も、こと親友の恋事情となると声音が暗くならざるを得ない。


「何か手はねえのかよ! このまま殿下とリリアナ嬢を引き裂くなんて、神様だって許さねえだろ!」


 ルーカスの悲痛な叫びが響く。普段の軽薄さなど微塵もない、純粋に親友を思うがゆえの怒りが、彼のここを支配していた。

 だがその叫びに、誰も答えられなかった。

 王家の決定は絶対だ。国の安定のため、大貴族であるヴァインベルク公爵家との結びつきは不可欠。一個人の感情で覆せるものではない。


 沈黙が再び場を支配する。誰もが、無力感に打ちのめされていた。

 その時だった。


「……計画がある」


 アレクシスが、顔を上げて言葉を紡ぐ。その瞳には、先ほどまでの絶望とは違う、狂気にも似た昏い光が宿っていた。


「すべてを覆し、リリアナを手に入れるための、最後の計画だ」


 アレクシスはロウソクの炎に照らされた四人の顔を順に見回した。

 そして、禁断の言葉を口にする。


「卒業記念の夜会。王侯貴族が一同に会する、あの場所で……私は、イザベラ・フォン・ヴァインベルクとの婚約を破棄する」

「なっ……!?」


 四人から、驚愕の声が上がった。

 当然だ。よりによって王太子が、王命に逆らうと言うのだから。


「正気ですか、殿下! 公の場で、一方的に婚約破棄など……ヴァインベルク公爵家との全面対決になりますぞ!」


 セオドアが血相を変えて叫ぶ。分の悪い賭けどころではない、どうあがいても悪い未来しか見えない王太子の言葉。普段は冷静な彼でも、声を荒げずにはいられなかった。


「無論、ただ破棄するだけではない。彼女が、王太子妃に相応しくないという『事実』を、衆人の前で突きつけるのだ」

「事実……? イザベラ嬢に、そのような非など……」


 ギルバートが困惑する。イザベラは完璧な淑女として知られている。実際、彼が見るイザベラも、貴族令嬢として非の打ち所のない存在だった。

 だがアレクシスは、彼らの反応を冷たい笑みで一蹴する。


「なければ、作ればいい」


 王太子が口にした言葉は、身分も責任も感じない、自己中心的なものだった。

 その言葉に側近たちは息をのむ。彼らの主君が口にしている言葉の意味を、にわかには信じられなかった。


「例えば、彼女が身につけている装飾品。あれは隣国の様式を一部取り入れている。それを『我が国の伝統を軽んじ、敵国に媚びる行為だ』と断じる。彼女が交わす挨拶の言葉尻を捉え、『王家に対する敬意が足りない』と糾弾する。些細なことを針小棒大に騒ぎ立て、国家への不敬という大罪に仕立て上げるのだ。周囲も、王太子である私がそう断じたとなれば、同調せざるを得まい」

「……殿下、それは」


 ギルバートの口から、騎士道にもとる、という言葉が出かかった。

 ただの言いがかりだ。捏造と誇張に満ちた、卑劣な罠ではないか、と。


「人の心を偽りで汚すなど……そんな、醜い旋律を奏でてはなりません!」

「そりゃ無茶だって、殿下! いくらなんでもやり方が汚すぎる! そんなことしたら、あんたの評判もガタ落ちだ!」


 フェリクスが、顔を真っ青にして懇願する。

 ルーカスですら、必死に止めようとした。


 アレクシスの暴走とも言える考えを、未来の側近候補たちは必至に止めようとする。だが彼らの忠義に満ちた反対の声に、アレクシスは静かに首を振った。


「評判など、どうでもいい。私は、リリアナが欲しい。彼女のいない未来を生きるくらいなら、悪評に塗れた人生の方がよほどマシだ」


 彼の声は、恐ろしいほどに穏やかだった。だがその穏やかさこそが、彼の決意が揺るぎないものであることを物語っていた。


「君たちにもう一度問う。君たちは、このままリリアナが私の前から去り、二度とあの笑顔を見ることができなくなってもいいのか? 彼女が、名も知らぬ田舎貴族に嫁ぎ、静かに一生を終えるのを、ただ指をくわえて見ているだけでいいのか?」


 アレクシスの言葉が、親友たち四人の胸に突き刺さる。

 脳裏に浮かぶのは、陽光の下で幸せそうに微笑むリリアナの姿。彼女の悲しむ顔など、誰も見たくない。彼女が不幸になる未来など、考えたくもなかった。

 王家への忠誠。貴族としての立場。己の信じる正義。

 そして、親友との友情と、愛しい女性の幸福。

 彼らの心の中で、天秤が激しく揺れ動いた。


 重い沈黙を破ったのは、ギルバートだった。

 彼は、ゴン! と自らの額を机に打ち付けた。


「……くそっ! ……分かったよ、殿下。あんたが、そこまで言うなら……俺は、あんたの剣になる。リリアナ嬢の悲しい顔は、俺も絶対に見たくねぇ!」


 実直な騎士は、己の信条を曲げてでも、友と愛する人の未来を選んだ。


「やれやれ……とんでもない大博打だ。失敗すりゃ、俺んちの商会もタダじゃ済まねえぞ。……けど、乗らないわけにはいかねえよな。親友の、人生をかけた大恋愛だもんな!」


 ルーカスはわざと道化たように肩をすくめ、覚悟を決めた笑みを浮かべた。


「……殿下の心が奏でる旋律が、たとえ破滅へのプレリュードだとしても……私どもは、最後まで共に在るアンサンブル。聴き届けましょう。そのフィナーレまで」


 フェリクスもまた、静かに決意する。その瞳には、悲壮な光が宿っていた。


 最後に残ったのは、セオドアだった。彼は最後まで眉間に深い皺を寄せ、腕を組んでいたが、やがて、深く長い溜息を吐いた。


「……まったく、あなたという方は……。分かりました。この計画を実行に移すのであれば、穴が多すぎる。証拠の捏造、根回し、夜会での段取り……すべて、私が手配しましょう」

「セオドア……!」

「ただし」


 セオドアは、鋭い視線でアレクシスを射抜いた。


「一度始めれば、もう後戻りはできません。我らの命運も、アシュフォード嬢の未来も、すべてを巻き込むことになる。その覚悟は、本当におありですか」


 その問いに、アレクシスは力強く頷いた。


「覚悟など、とうにできている」


 四人の側近は、顔を見合わせた。

 そして、まるで誓いを立てるかのように、一斉に立ち上がって膝をつく。


「「「「我らの命、我らの未来、すべてを殿下に捧げます」」」」


 王太子の私室に響いた忠誠の誓い。しかしそれは、輝かしい未来を約束するものではない。破滅へと続く道の始まりを告げる、不吉な号砲だった。



 ―・―・―・―・―・―・―・―



 リリアナはもちろん、アレクシスたちの決意も、葛藤も、何も知らない。

 同じ頃、彼女は自室の窓辺で夜空を見上げ、物思いに耽っていた。昼間のアレクシスたちの、どこか思い詰めたような表情が心に引っかかっていたからだ。


(どうか、皆様に、悪いことが起きませんように……)


 彼女は祈りを捧げる。まるで純真な聖女が神に祈るように。

 だが、彼女の想いはどこにも届かない。

 これから始まろうとしている、逃れられぬ死の運命の連鎖。

 これを止めるほどの力は、リリアナにはなかった。



 -つづく-





 ※第2話は、明日7月20日の朝8時に更新します。

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