第5話 禍根




 所長室での出来事から数日。


 ゼフィラの頭の中はフェリックスが語った「愛の精霊キューピット」や「世界を救う力」といった壮大な話で混沌としていた。


 愛とか世界を救うとか、そんな柄じゃない。

 これまで生きてきた裏社会の常識とはあまりにもかけ離れた話に、正直なところ「は?」としか思えない。


「ンだよ、愛って……弱ぇ奴がすがるもんだろ? あたしはこれまで、裏切りと暴力しか見てこなかったんだ。そんなふわふわしたモン、信じられるわけねぇだろ」


 ソファに深く身を沈め、ゼフィラはぶっきらぼうに呟いた。

 目の前で書類仕事をするフェリックスに聞こえているのかどうか、気にする素振りもない。


 フェリックスはペンを置き、穏やかな眼差しでゼフィラを見つめた。


「貴女が言う『筋』とは相手への信頼や譲れない信念のことでしょう? それは、形を変えた『愛』とも言えます。貴女が以前、魔族の彼を突き放しながらも真剣に彼と向き合い、結果として彼が前向きになれたのは貴女の中にその『愛』の力が宿っているからこそですよ」


 フェリックスはゆっくりと言葉を選び、ゼフィラに話を続けた。


「愛は決して弱さではありません。むしろ、人を最も強くする感情です。それが失われつつあるからこそ世界は争いに満ち、人々は互いを信じられなくなっています。貴女の力はその失われた繋がりを取り戻すための希望なんだ」


 そう言われてもゼフィラにはピンとこない。

 漠然とした不安と、自分には理解できない巨大な期待を向けられている戸惑いだけが募る。


「……だから、結局どーすりゃいいんだよ。そんな曖昧なもんで、世界が救えるわけねぇだろ」

「焦る必要はありません。まずは目の前の人々が抱える問題を解決することから始めましょう。貴女の『規格外の縁結び』がその力を発揮する場はいくらでもあります」


 フェリックスがそう言い終えた時、所長室の扉がノックされて相談員の青年が恐る恐る顔を覗かせた。


「所長、ゼフィラさん。新たなご相談者様がいらっしゃいました。それが……少々込み入ったお話でして……」


 青年の言葉にフェリックスは「ちょうど良い」とばかりに頷き、ゼフィラに視線を向けた。


「貴女の力が試される時です」


 ゼフィラは「なんかめんどくせーことになったな」とぼんやり思いながら、その込み入った客のところに足を運んだ。


 相談スペースには、対照的な二人の若い男女が座っていた。


 一人は透き通るような白い肌に流れるような銀髪、そして特徴的な尖った耳を持つエルフの女性。

 その姿はまるで森の妖精を思わせるほど優美だが、顔には深い悲しみが刻まれている。


 もう一人は、頑丈そうな体躯に赤銅色の肌、そしてたくましい顎髭をたくわえたドワーフの男性。

 彼の瞳は真っ直ぐで力強いが、その奥にはやはり苦悩の色が滲んでいた。


 彼女らの名はエルフのリーファと、ドワーフのバルド。


 フェリックスが穏やかに促すとリーファが震える声で語り始めた。


「わ、私たちは……心から愛し合っています。でも、私たちの恋は誰も……どの種族も許してくれないのです……」


 バルドがリーファの震える手をそっと握りしめた。

 彼の声は決意に満ちていた。


「私たちの部族もリーファの森の氏族も、この結婚だけは認めようとしない。エルフとドワーフは、太古の時代から争い続けてきた歴史があるうえに前例がないからと……」


 ゼフィラは腕を組み二人の話を聞いていた。

 まさかこんな軟弱な恋愛相談所で、そこまで根深い問題が出てくるとは。


 この王国では表向きは多様な種族の共存が謳われているが、裏に根強い差別と偏見があることはゼフィラ自身も痛いほど知っていた。

 特に過去に頻繁に戦争を繰り返してきた種族間の結婚は、まさに「禁忌」に等しい。


「和平協定が結ばれたのは、たった15年ほど前のことです。それ以前は、互いに血を流し続けてきました。私たちが育った場所では、未だに相手の種族を『忌むべき敵』と教えられます……」


 リーファがうつむき、涙を流した。

 バルドは悔しそうに拳を握りしめている。


「私たちがどんなに努力しても、族長たちは全く耳を貸してくれません。このままでは私たちは引き離されてしまう……!」


 他の相談員たちは、同情と無力感が入り混じった顔で二人を見つめていた。

 一般的な“縁結び”の範疇をはるかに超えた、あまりにも重い問題だ。


 フェリックスもまた、難しい顔で腕を組んでいた。

 彼の瞳の奥には、かつての魔石戦争で滅んだ王家の悲劇が重なるように映っている。


「……難しい問題です。彼らの言う通り、エルフとドワーフの歴史は深く、一朝一夕で解決できるものではありません。種族長たちの信念は強固で、特に彼らが抱える過去の憎悪や偏見は……」


 フェリックスはキューピットの加護を持つゼフィラでも、この問題は容易ではないと考えていた。

 彼女の「縁を結ぶ力」が個人間の関係性に奇跡を起こすことは理解できたが、何世紀も続く種族間の確執を、一人の力でどうにかできるとは流石の彼も想像できなかったのだ。


 その時、静かに二人の話を聞いていたゼフィラが突然、椅子から立ち上がった。

 その顔には先ほどまでの困惑は消え失せ、代わりに彼女特有の不敵な笑みが浮かんでいた。


「ふざけてんのか?」


 ゼフィラの声にリーファとバルド、そしてフェリックスまでもが驚いて顔を上げた。


「何が『歴史が深い』だ。何が『一朝一夕で解決できねぇ』だ。そんなもんは、ただの言い訳だろうが」


 ゼフィラは二人を真っ直ぐに見据えた。

 その瞳には、すでに彼らの悩みを超越した強い光が宿っている。


「愛し合ってるのに、周りのクソみたいな偏見で引き離されんのか? そんなモン放り出しちまえ!」


 彼女の怒りの矛先はもはやリーファとバルドに向けられていない。

 彼らを阻む「見えない壁」、そしてその壁を築いた者たちへの純粋な憤怒だった。


「よっしゃ!」


 ゼフィラは迷いなく宣言した。


「そんなワケわかんねぇ壁作って、あんたらの幸福を奪おうってんなら……その族長にあたしが直接殴り込みに行ってやるよ!」


 力強く言い放つゼフィラの姿にリーファとバルドは目を丸くし、フェリックスは静かに頭を抱えた。


 ――やはり、そうなるか……


 フェリックスはゼフィラの猪突猛進ぶりに、やれやれといった表情を浮かべた。


 しかし、彼の瞳の奥にはどこか期待の色も浮かんでいる。


 この規格外の女が、果たして数百年の因習の壁をその力で打ち破れるのか。

 それは、失われた愛の光を取り戻すための最初にして最大の試練となるだろう。



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