雑草ばあちゃん

梅枝魚子

雑草ばあちゃんと出会う

雑草ばあちゃん

 晴天の空を見つめた。

 太陽が照りつける正午。

 ここにきてから、体感時間で三十分は経過していた。

「……すいませえん」

 こんな腑抜けた声を出してるところを、太樹には見られたくない。啖呵を切って来たのだから。啖呵にしては、随分と弱いものだったかもしれないけれど。そう思うと、俺一人でここに乗り込んだのは正解だったような気がした。

 どこまでも続く真っ暗な家の中。長い廊下の先にスリッパが一つ見えるだけで、それ以外の物はごちゃごちゃとしている。大きな箪笥や乱雑に玄関に置かれたままになっている変な帽子が俺の少し震えた「すいませえん」を吸収したのだろう。遠く、スリッパの置かれた場所には到底届いていない。

 いつものように雑草をむしっているのかと、もう一度家の周りをじろじろと確認するけれど、人の姿が見えない。その瞬間、見たくはないものがもう一度視界に入って、うんざりした。ヒビの入ったガラス窓。その下には、俺が投げた野球のボールが落ちていた。

 家の中から物音が聞こえた気がして、急いで玄関先に走る。やはり人の姿は見当たらなかった。

 玄関の大きな下駄箱の上に、インターホンがあることに今になって気づき、それを一度押してみた。柔らかく、そのボタンが俺の人差し指を押し返す。

 俺の家の前にあるものとは違うようで、ピンポーンと軽快な音が鳴らなかった。壊れているのか接触が悪いのだと思い、もう一度強くボタンを押し込んでみる。また音は鳴らなかった。おかしいと思いつつ、続けて三度、また押した。強く押せば鳴るのだろうと思い、勢い余って爪先でボタンを押してしまっていたらしく、ゴムの柔らかいボタンには俺の夢の形がくっきりと残った。

「やっべ。また怒られるようなこと増やしちゃった」

 今度こそあいつらのせいには出来ない。自分で犯した罪だった。てか、ずっと自分がしでかしたことなんだった。

 やべえやべえと考えを巡らせたけれど、残った爪の跡に言い訳が全く思いつかない。

そう考えていた瞬間。

「聞こえとるがいねよ! 何回も押さんでも! 家の中で何回もブーブー言っとるわ! 聞こえとるわ!」

 大きな声に肩が勝手に上がる。姿は未だ見えない。

 心臓の音が大きく、早くなった。

 自分で呼んでおきながら、その人がスリッパを履いて出てくるのを恐れていた。

 この家には、小さな、けれど大きなおばあちゃんが一人で住んでいる。他人と関わりながらも、嫌われている。

 雑草ばあちゃん。

 太樹は、そのおばあちゃんのことをそう呼んでいた。

 俺はまだ、その雑草ばあちゃんに会ったことがない。


*


 初めての登校の朝、緊張していた。

 昨日の夜は、扇風機が動く音を数時間以上聞いていた気がした。その音だけを聞くことに集中し目を瞑ると、いつの間にか朝が来ていた。

 サエちゃんが教えてくれたことだった。大きな病室の、仕切られたカーテンの中で。

『直也。もしも私を思って眠れない時があったら、今ある音に集中して。頭の中に沢山の言葉とか思いが溢れて眠れなくて、けど早く朝が来て欲しくて辛くて耐えられなくなったら、音を聞くことに集中して、目を瞑って深呼吸するの』

 俺は俯いたまま、何度も頷いた。着古したデニムが、ぽつりぽつりと濃く滲んだ。

『後ね、泣きたいときは泣いたらいいよ。私を思って。大切な人のことを思って、泣きじゃくったらいいよ』

 サエちゃんは俺の頭を撫でた。その骨ばった指先の感覚は、今も残っている。


 小さくて、なんでも欲しいものがあって、手に入って、人がたくさんいるところから、大きくて、山しかなくて、ゲームセンターも大きなスーパーもなくて人が少ない場所に住むことが、そして、その場所の子供達に馴染むことができるか心配だった。

東京にいた時よりも小さな学校の同級生は、想像していたよりも遥かに人数が少なかった。みんな日に焼けていて、俺を物珍しそうにみていた。キラキラとした好奇心だけを浴びせられていることに安堵した。村八分だとか、越して来た人はよい目で見られないとか、色々な想像をしていたから。

先生の隣で並ぶ俺の膝は、明らかに震えていたと思う。

「……東京から引っ越してきました。次木直也です」

 小さな声で言った後、どうしたら良いか分からず視線を泳がせた後に頭を下げた。頭を下げた先にあったのは床で、その床は木で出来ていて何本も黒色の筋が出来ていた。何年も何万回も机を引きずられていたのだろう。

 意識をこちらに戻した時、耳には拍手がまばらに聞こえ始めていた。

「次木君、頭あげたらいいがんないけ?」

 次の担任になる地蔵先生は、大きな声でそう言ったから、周りの子供達も大きく笑った。強い訛りに、頭を上げろといわれている事に即座に気づけなかった。自分が受け入れられないかもしれないと怯えていたけれど、ホッとして頭を上げる。少し恥ずかしくもなり、頭を掻いた。耳が真っ赤に熱っている感覚があったけれど、周りから何の反応もないよりはマシだった。

「そしたら、直也は、あそこの席で!」

 急に名前を呼ばれたことに驚く。距離の詰め方が早くて少し困惑しながら、地蔵先生の指差す方向を見やる。

「太樹の隣に席があるから、そこ使って。今日からそこがお前の特等席や」

 先生の顔を見たら、にいっと笑っていた。八重歯が特徴的なおじさん。先生のことをおじさんと言うのは良くないと思いつつも、その八重歯に愛嬌があると思った。

クラスのみんなの視線を浴びながら机の間を抜け、俺の特等席と呼ばれた場所の椅子を引く。

「直也さ、めっちゃお辞儀深かったな。めっちゃ九十度やった!」

 机の横にランドセルを置き、腰を下ろす前に、隣の席になった太樹という男の子に声をかけられる。太樹の声がクラス中に響く。

 授業の準備をしていたクラスメイトの視線がまた一斉に集まるのを感じた。背中から胸から頭から、全てに熱が集まっている。

「あ、そ、う? ありがとう?」

「東京の人や」

「え?」

「やから、イントネーションが東京の人やって」

 首を傾げていると、太樹はありがとうのイントネーションの話をし始めた。

「富山の人は、ありがとうの、りの時に音が上がるんよ。けど、直也はりの時に音が下がっとったから。東京の人やなあ」

 横の席に座ったままの太樹を立ったまま見ていた。太樹に既に直也と呼ばれていることに違和感を感じなかった。訛った言葉遣い、強い語気に圧されて椅子に腰掛けるタイミングを失った。

「あー、そうだね」

「そうだねって言った! 富山の人は、そう『やね』って言うから! すっげー!」

 言葉ひとつ一つに反応するたびの、顔に顔が熱くなっていく。

「こら太樹。直也が困っとるやろうが」

 黒板の前にいたはずの地蔵先生が、太樹の頭をチョップした。けれどそれは強くなくて、なんの音も聞こえない。先生は太樹の頭に小指の横腹を何度も当てた。周りの女子生徒がくすくす笑っている。

「いってー! 地蔵先生なんでそんなことすんがけえ!」

 太樹が大きな声を出す。

「そんな痛いことしとらんやろが!」

「先生の小指、石で出来とんがないがけ!」

「誰が地蔵や!」

 クラスメイトが笑っていた。もしかしたらこのやりとりは、よくあることなのかもしれない。お調子者に見える太樹を地蔵先生が怒り、それをクラスの子達が笑う。

「さ。やわやわ授業始めようか! 太樹! 今日は寝たらあかんがいぞ!」

 微かに笑いの残った教室は居心地が良かった。心臓の音がいつの間にかゆっくりになっているのに気がついた。

「直也、座らんが? もう授業始まるよ」

 太樹にまた声をかけられる。先ほどよりも穏やかな口ぶりに、本当に太樹の声なのか疑うほどだった。

「お前、黒板の前で自己紹介した時、声もやけど手が震えとったやろ。緊張解けた?」

「あ……うん」

 もしかしたら、太樹はお調子者でありながらも観察眼に優れているのかもしれないと、その時に気がついた。周りが見えていて、気遣いのできる人。俺が緊張しているのことに気がついて、みんなの視線を俺から移してくれたのだと思った。

「太樹」

「お?」

「ありがとう」

 太樹は目を大きく見開いた後「やっぱ東京の人やなあ」と小さく呟いた。その後歯を見せて笑って、両手の親指を上げた。

 これからの生活の幸先がいいな、と思った。

 窓から大きな空が見えた。青い空に、最近まではまばらに散っていた雲が、大きなソフトクリームのような形を作っている。夏休みを目前とした中での引っ越しに早めの夏バテが来ていたように数日寝込んだけれど、楽しい生活になりそうな、そんな予感がした。

けれど、家に帰っても、病院に行っても、一番に報告したい人は、もうこの世にはいない。


「あの家には気ぃつけろよ」

「ん? どの家?」

 太樹は帰り道が一緒な方向だった。指を差す方向に視線を移すと、大きな家があった。

 この一帯は高齢者が多く住んでいる。転校してきてから最初の登校日だった今日は祖父である正宗さんに学校まで送ってもらった。その道で井戸端会議をしているのはおばあちゃんばかりだったし、道端で芝刈り機を置いてタバコを吸っているのもおじいちゃんばかりだった。

 若い人が居なくなり、その高齢者が亡くなった後の家はそのまま放置されていることも多いようで、太樹の指差した家もそのようなものなのだと思った。しかし、お化け屋敷のような雰囲気はない。それは、今はまだ明るさを残した夕方だからだだろうか。

 ナスやきゅうりの苗が大きく育ち、実をつけていた。その周りには短い雑草が生えていて、誰も住んでいないとは思えなかった。

「ここ、めっちゃ怖いおばあちゃんが住んどるから」

「ふうん、そうなんだ」

「俺らはみんな、この家のばあちゃんのことを『雑草ばあちゃん』って呼んどる」

「……雑草ばあちゃん?」

 太樹は俺の言葉に急に立ち止まる。俺が首を傾げると、太樹はお化けのように両手をヒラヒラさせながら俺に近づいてきた。その顔はにやにやと笑っている。今日クラスで何度も見かけた、お調子者の太樹の部分が全面に押し出されている。

 太樹がそろそろと近づいてくるたびに、俺は後退り、太樹が「わっ!」と声を上げたところで、肩を大きくびくつかせた。

「な、な、何! 何、今から何が始まるんだよ!」

「雑草ばあちゃんのこわーい話、聞く?」

「うっ……」

 俺はお化けの類のものが嫌いだった。それはサエちゃんのいた病院で背中に冷たさを感じたことがあったからだった。霊安室というものを知って、その名前をネットで検索した時に、見たくもない怖い話を読んだのは最近のことだった。

 相当怯えた顔をしていたらしい。太樹はスッと顔の色彩を落として、お化けのポーズもやめた。その仕草にホッとする。

「お化けとか、そんなんの話じゃないから安心して」

 太樹はまた歩き始める。俺の横を過ぎていく太樹の背中を追いかけた。


 雑草ばあちゃんは、俺たちの同級生の頬を叩いたらしい。それも、身内でもない子を。

 そのことを聞いたとき、サエちゃんが息をせずに目を瞑っているあの様子を思い出した。心臓の音が耳に聞こえているのに、手の先が冷たいような感覚。首筋に汗をかいているのに、無意識に両手の指をぎゅうっと組んでいた。

その前後を太樹も曖昧にしか聞いていないらしいが、噂の話で聞くには、野球のボールが雑草ばあちゃんの家に入って、それを取りに行ったときに打たれたらしいのだ。

「……すっごいね、昭和みたい」

「まだそんなんがさ、田舎にも残っとるんやなあって。生粋の田舎民の俺でもびっくりしたわ」

 太樹は足元に落ちていた小石を蹴った。勢いよく蹴ったそれは、水の張られた田んぼに落ち、ぽちゃんと音を上げた。

「俺さ、人のこと殴ったり叩いたり、暴力振るう奴、めっちゃ嫌い」

 大樹がポツリと呟いた。

 昔だったら良くある話だと思う。けれど今は令和で、昭和からは二つも年号が変わっている。時代は変化しているのに、そんなサザエさんの中に出てくる雷親父みたいな人が存在するとは思えなかった。

 東京ではみんながみんなに無関心だった。知り合って早々本人に『名前で呼んでもいい?』と尋ねず、俺の名前を呼んだ地蔵先生や太樹に驚いた。だからこそ、他人を叱り、頬まで打つような雑草ばあちゃんのことも理解できなかった。

「やからさ、気をつけんなんよ。俺は打たれたことないけど、いまだに野球やったらダメとかは言われてないし。やから気をつけんなんとしか言えん」

 俺もたまに野球するし、と太樹は付け加えた。

 家までの道が早く感じられた。俺の今の家の門扉が見え始める。

「なんかさあ、大人ってめっちゃわがままやんね」

「なんで?」

 ランドセルを背負った太樹の背筋はピンと伸びている。

「だってさ、野球やるなって言わんくせに、ボールが敷地に入ったら怒るわけやん? 都会でもあるやろ? ニュースで見たし。『子供にはのびのび育ってもらいましょう』とか言うくせに、住宅街に保育園のグラウンド作ろうと思ったら『子供の声がうるさくて困ってます!』とか言うんやろ?」

 一緒くらいの背の太樹は、俺の中でもう大きな大人になって見えた。周りを観察していて、色々なことを考えて、自分の言葉で発言するから。

「子供のこと思っとるみたいな風に言うときながら、子供のこと全然考えとらんのは大人の方やん」

 太樹はくちびるを尖らせていた。俺は何を言ったらいいか分からず、頷くことしかできなかった。

 その日、夢の中でサエちゃんは笑っていた。笑ったまま、呼吸をしていなかった。胸が上下せず、繋がれていた電子モニターはずっと真っ直ぐに線を引っ張り、ピーっという音が頭にずっとこびりついていた。

 その音が、アラームの音と重なったところで目を覚ます。

 何度かの登下校の別れ際、太樹に『土曜日は空き地で野球するが決まっとるがいけど、直也も来る?』と言われた。何度か観たことはあったけれど、野球はしたことがなかった。太樹がバカにするとは思えなかったが言い淀んでいたら『見学とマネージャーも募集中やけど?』と笑ったから、頷いた。

 朝から頭が重たかった。眼球の裏の筋肉が誰かにずっと引っ張られて痛い。

 サエちゃんの夢を見て目覚めたのは朝の四時で、Tシャツの袖で何度も目元を擦って瞼を閉じた。それから何度も眠りにつこうと思ったけれど中々寝付けず、扇風機の音に集中したのが先ほどだったのに、サエちゃんはまた夢の中に出てきた。サエちゃんは俺の中で、未だ成仏とやらがされていない。

 重たい体を引き摺りながら顔を洗い歯を磨いた。朝ごはんは、もう畑仕事に出ているらしい祖母の美枝さんが握ったおにぎりだった。食欲が湧かなかったけれど、暑さの中に放り出されるのだからご飯はしっかり食べて行こうと、全面糸屑みたいな昆布で覆われた梅干しのおにぎりを冷たい麦茶で流し込む。

 この昆布のおにぎりは、どうやら富山県ではメジャーらしい。大樹におにぎりの話をしたら『それ、うちのじいちゃんも好きやったわ』と言った。過去形の話を聞くところによると、大樹の祖父は亡くなっているようだった。

 靴を履いて空き地に向かう。「げっ」と明らかに声を出していた。雑草ばあちゃんの話の一環でお化けの話をしていたから気が付かなかったけれど、雑草ばあちゃんの家の前は空き地で、今日野球をするらしい場所はまさしくそこだった。

 俺に気がついた大樹は大きく両手を上げるから、渋々早足で空き地に入った。気づかれなければ週明けに『ちょっとお腹が痛くて行けなかった』と嘘を付けたのではないかと頭の中を過ったけれど、罪悪感に飲み込まれため息を吐いた。

「おはよう! マネージャー遅い!」

「おはよう……あの、マネージャーじゃなくて……」

 俺の言葉を気にする様子もなく、大樹はその場にいる男の子たちに俺のことを紹介した。みんな優しそうな子達で野球をしたことがないことを告げると『じゃあやっぱマネージャーやな』と笑ってくれた。その笑顔には嫌味な様子はなくて、素直にそう思っているみたいだった。

大樹の周りはいつも温かい。類は友を呼ぶという諺を聞いたことがあったけれど、本当にその通りだと思った。

「あのさ、大樹?」

「ん? どした?」

 瞳を右往左往させている俺に対し、大樹はケロッとしている。雑草ばあちゃんのことを言っておきながら、この場所で遊ぶことに不安がないようだった。

「あの、ここ雑草ばあちゃんの家近いけど……大丈夫?」

「大丈夫大丈夫! 今日上手い奴しかおらんから」

 焼けた肌に、白い歯がきらりと光ようだった。

 日陰のないベンチに座っているだけで脇の下から汗が滲んでくる。時折吹く風は緩いけれど、汗を乾かしてくれる。しかしそれに追いつかないほど脇の下や靴下の下で汗がじわじわと滲みてくるのを感じていた。不快感が広がり始めた頃、大樹が俺の名前を呼んだ。額の汗を拭いながら、大樹の方へと駆け寄る。

「どうした?」

「多分、動いた方が涼しいぞ」

 大樹のこめかみから流れた汗は俺よりも多い。けれど笑っている。

「嘘やろ」

「お、シティボーイが富山弁使っとる」

「あ、いや、違う」

 俺が何か大樹を驚かせるようなことを言ったとき、大樹は口癖のように『嘘やろ!?』と言って体を仰け反らせていた。俺たちの経験というのはまだ大きな真っ白なキャンバスで、新鮮で知らないものは沢山の色をつける。大樹の口癖も、まさしくそれだった。

「ボール投げてみたらいいがんない?」

「……いや、でも……」

「アンパンマンも言うとったやろ?」

 虚をつくような言い振りに対して眉間に皺を寄せた。どうしてここでアンパンマンが出てくるのか。俺の訝しげな表情に気がついた大樹は笑う。

「愛と勇気だけが友達やって」

 大樹にサエちゃんの話をしたことはないはずだった。

 けれど住んでみて数日で分かったことがある。田舎は噂が回るのが早い。毎日行われているであろう地域の人達の井戸端会議を行う高齢者の目の色が変わっていたのには気がついていた。都会から子供が来た理由を知った大人たちは、奇妙なものを見る目を憐れみに変化させた。

 そのときに、やっと大樹の言葉の意味が分かった気がする。大人ってわがままだ。

 大樹の耳に直接入らなくても、俺やサエちゃんの話が間接的に入ったのかもしれない。

 母親が死んだから、その母親の地元に母親なしで戻って来たのだと。その祖父母に育てられていると。その母親のサエちゃんは、この町では有名人であると。

 けれど大樹は何も言わなかった。でも、何もかも分かっている気がした。

 俺が今日何度もあくびをしていたことや、授業中に居眠りをしてしまっていること。もしかしたら気を許した俺は、大樹に『今日なんか、頭が痛いんだよね。なんか眠れなくて』と溢していたかもしれない。

 大樹の中で点だった俺の情報が線になって、いくつもの可能性を考えて、考えた先に今日の野球があったのかもしれない。日に焼けていない俺の腕を見ていた大樹が、俺のことを野球少年だと思うはずもない。

「けどあれやな、直也は違うか」

 大樹の言葉に意識を戻す。大きな目を視線が交わる。その黒色の瞳は澄んでいて、飲み込まれそうになった。

「愛と勇気だけじゃなくて、俺がおるし、じいちゃんもばあちゃんもおるもんな!」

 不意に奥歯を噛み締めた。どこかに力を入れていないと、涙がこぼれ出しそうだったから。

 ないものだけを見ていた。あるものを見ようとしなかった。

 サエちゃんの夢を未だ見て、ないものを何度も追いかけて縋りついて、苦しくさせていたのは自分ではないか。

 サエちゃんが夢の中で笑っていたのは、私は大丈夫だと伝えていたのかもしれない。俺にも笑えと言いたかったのかもしれない。亡骸がずっとあるのは、俺自身の現状を表していたのかもしれない。

 心の中の糸がほぐれて行く。糸屑だと思っていた昆布には味があって、美味しくて、俺がここに存在している確かな理由をくれる祖父母の優しさ。言葉をかけてくれる大樹の優しさ。そして、サエちゃんが夢の中に出てくるのは愛。

 俺に今足りないのは、勇気だけ。

「ほい」

 手のひらの中にボールが置かれた。ゴムの軽い白色の玉には刺繍が施されることなく、いくつもの点線が浮いている。

「マネージャーから部員に昇格してやらんことないがいけど?」

 にいっと笑った大樹は、また両手の親指を上げた。

 勇気。勇気。勇気。

 今、球を投げただけで、全てが明確に変わるとは思えない。

 今まで見ていた世界が急に色づくとは思えない。多分そうはならない。

 けれど、今この小さな球を投げたら、少しの勇気が生まれるだろう。

 俺はできるかもしれないっていう、大きな勇気になりうるものがぽっと芽を出すだろう。

 後ろに倒れそうになりながら肩を思い切り後ろに引き、腕をしならせた。

 球が空き地を抜けていく。

「うぉ!直哉めっちゃ肩強いやんか!」

 俺の勇気が飛んでいく。一歩、地に足をつけた。

「や、べえかも」

 遠く飛んでいく球を見て、顔を先に青ざめさせたのは大樹の方だった。

 その後、かんっと音がして、空き地が静かになったのは、俺のせいだった。

 雑草ばあちゃんの家の窓ガラスに当たった音。

 誰かが呟いた声が鮮明に聞こえる。

「俺、拾いに行ってくる」

 自分でもその言葉が口から出たのには驚いた。けれど俺の大事な一個の勇気。その勇気を目の当たりにしたかった。怒られたらそれでいい。頬を打たれたらそれでいい。そんなことよりも、今日の一つの勇気を、俺は大人になっても思い出すと思うから。

「あ、いや、けど」

 大樹は珍しくしどろもどろになって、大きな黒目を右往左往させている。

「……俺も一緒に行こか?」

 眉毛を下げながら大樹は言った。その表情を見たことがなくて笑ってしまった。大樹にも怖いものがあるのだなと、やっぱり太樹も俺と一緒くらいの子供なんだなって思えた。

「お前、俺の親切心を笑ったな?」

「ううん、違う」

 大樹は眉間に皺を寄せたまま首を傾げた。

「俺が、俺の勇気を見てみたい。もしめちゃくちゃ良いもので、最高の気持ちだったら。大樹、話聞いてくれる?」

 大樹の大きな瞳が、また大きくなった。何度も瞬きをして、頷いた。

「ほっぺ叩かれたら大きな声で泣け!俺が仇とってやりにいくから!」

 俺は今、自分の勇気に驚いて、自分の出した勇気に、勇気づけられている。

 言葉じゃ全然意味が分からないけど、本当の気持ちで、これから続く勇気の一つ。

 大樹の言葉を聞いて、走り出した。


 何度もインターホンを押したというのに、未だ雑草ばあちゃんは家の奥から出てこない。ただ廊下をじっと見つめる時間が続いた。遠くに見えるスリッパは揃えられていなかった。

 頭の奥がじんじんと痛い。血管の中に急速に血液が流れている感覚は、耳にまで到達する。

 ぼうっとする視界の中、廊下のスリッパがある方向からヌッと足が出てきて、後頭部が尚更痛くなった。

 どのように謝れば頬を打たれないかを考えるのを完全に忘れていた。

「はいはい、何ね」

 腰の曲がった小さなおばあちゃんが俺を見つめながらこちらにゆっくりと歩いてくる。

 大樹に聞いていたような怖そうな様子は見られず、よく町の中で見掛けるおばあちゃんそのまんまだった。

「……あの、その、えと」

 声が掠れ、震えてもいた。視界が嫌にぼやける。叱られるかもしれない恐怖から来るにしてはおかしい。

 血管が痛く、頭がもげそうだ。どうしてこんなことになっているのだろう。

 ゆっくりと雑草ばあちゃんがこちらにやってくるにつれ、先程まであったはずの勇気が急速に萎んでいく。

 頭をゆらゆらと揺らしていないのに焦点が合わず、気づいた時には雑草ばあちゃんの足の甲が目線の先にある。

 どうしよう。どうしよう。どしよう。

 なんて言えばいいんだ。何を言ったら許されるのだろうか。

「何い!? あんた誰ね!?」

 雑草ばあちゃんの大きな声が頭の中に響いた瞬間、血管がぷつんと切れた感覚になる。

 目の前がチカチカと光り始め、上り框付近に頭をぶつけていた。

「ちょっと! 大丈夫け!?」

 耳を劈く大きな声は未だ響き、体を起こそうにも起こせずにいた。

 けれど無意識に謝らなければいけないことはわかった。何か言わないといけない。言わないといけないことは分かっているのに、口の中が渇いて言葉が出てこない。

「……ごめ、さい」

「起きられんか! あ、あ、あんた、ちょっと!」

 一切動かない俺に対して、雑草ばあちゃんの声色は驚き、狼狽えていた。俺の頭が乗っている床が何度も軋み、微かに頭が動く。

 その瞬間、ひんやりとした感覚が額に乗った。

「あんたデコ酷いあっついねか! 熱中症か熱射病でないがけ」

 冷たい手は、いつだったか撫でられたことがあった。

 骨張っていて、けれど手のひらはカサついている。

「…………サエちゃん……」

 意識が遠のく。先程まで頭に響いていた雑草ばあちゃんの声が異国の言葉に聞こえ始め、消えた。

 俺はもしかしたらサエちゃんのところに行くのかもしれない。本望かもしれないな。

 サエちゃん、会いたい。

 もし会えるなら感謝の言葉を言いたい。一人で育ててくれてありがとうって。大好きだよって。

 忙しいのにたくさん遊んでくれて、話を聞いてくれてありがとうって。


 サエちゃんは笑っていた。

 夢の中のサエちゃんは、いつものように電子モニターの管が繋がれていることもなく、白いカーテンみたいな洋服を着ていた。

 手を伸ばそうとする。遠のいていく冴ちゃんを必死で追いかけた。

 サエちゃん、置いていかないで。俺は寂しいんだ。まだサエちゃんとの時間が足りないんだ。まだ一緒にいたいんだ。


 サエちゃんは癌だった。腸の中の大ってつく方にガンがあって、それを「大腸がんですね」と先生は言った。   

 部屋の中が俺の頭の中と一緒くらいの白さだった。先生の着ていた服も白かった。白衣。先生の後ろに立っていた看護師さんはマスクをしていて、どんな表情をしているのか分からなかった。笑ってはいないだろう。 

 けれど同じくらい、泣いているはずもなかった。

 俺が病院の先生に話を聞いた時は癌の酷さみたいなものが「ステージ2ですね」と聞かされた。

 癌というもの。大きさ。女の人がなりやすいんだよ。今はまだ大丈夫。放射線治療を希望されている。そのあとは通院になると思うよ、この病院はそういう方針だから。その後のことは一緒に考えていきましょう。

 「女の人」と言われた時、この世の中にはたくさんの「女の人」がいるのに、どうしてサエちゃんが選ばれたんだろうって思った。

 サエちゃんじゃなくてもいいじゃん。サエちゃんは俺のお母さんで、大切な人で。俺の大事な人で! 一人しかいないんだよ!

 聞きたくもないことをペラペラと喋っていくから、どうにかして先生の口を塞ごうとしたけれど、そんなことできるはずもない。気が動転して、体を動かすことさえできなかったのだから。

 俺の体は意図せず震え、それを止めようと腿の上で拳を強く握った。けれどまだ震えていて、全然止まってくれなかった。隣にいた美枝さんの手が俺の拳の上に添えられる。震えていた。

 案内された相談室から出た時、世界がすべて霞んで見えた。色眼鏡をかけるっていう諺があるけれど、俺は違った意味で灰色のレンズが入ったメガネをかけさせられた気がした。ずん、と重く、縁がなくて、サエちゃんが死ぬまで外せないもの。もしかしたら、サエちゃんが死んだ後も、この淀むレンズは外れないかもしれない。

 病院の床にべっとりと薄く糊が塗られているみたいに、俺の足は思うように動かなかった。足底が長い時間引っ付いて、離れる。

 隣を歩いていた美枝さんが、先生の後ろにいた無表情の看護師に不意に呼び止められた。「直也は待ってて」と言われ、合皮の皮が貼られた待合室の椅子に座った。看護師も病室も全部が遠くに見えた。全部が自分ごとで、近くのことで。けれど自分とは関係のない戦争の話のようで、遠い異国の話だった。

 看護師と話をしていた美枝さんが俺の元に戻ってきて「……宗さんに話せんといけんね」と呟いた。


 俺が宗さんと呼んでいる、祖父の宗一郎さんがダイニングテーブルの上に口から出たご飯粒を一つ落とした時、俺はお椀を落とした。跳ねて、フローリングに飲み口を下にして止まる。机の上を豆腐とネギが侵食していき、端から何滴かの味噌汁が溢れた。

 放射線治療や検査の関係で、サエちゃんは既に入院していたから、美枝さんと宗一郎さんがわざわざ東京までやって来ていた。この家の電気はサエちゃん好みに調光され、美枝さんと宗一郎さんの目にはいつもよりも部屋が暗かっただろう。そんな中でも宗一郎さんの目は明らかに右往左往しており、白内障の手術をした黒目がキラキラと光っていた。

 喧騒が嘘みたいだった。背中がキンと冷えていく。あの日に、霊安室を見た日に戻った気がした。それが近くなった。

「……宗さん、それ……サエちゃん……死ぬってこと?」

「……いや、違うがや、ちごて、」

「違わないでしょ……違わない」

「ちごて!」

 いつもは穏やかな口調で話をする宗さんが大きな声を出した。壁に反響し、ぼわぼわと言葉の輪郭だけが残っていた。美枝さんも疲れていたのだろう。何も言わなかった。どちらも慣れない都会に疲れ、俺も今の状況に心がズタズタに引き裂かれていた。

「違わないでしょ。違わないじゃん! 俺だって調べたんだよ!? なんなら先生にも言われた! 『紗子さんはまだステージ2ですね。癌には0から4までの段階があってね、お母さんは2だからね』って!」

 五段階の中の三つ目だと思っていた。本当は階段を登った先のない話だった。行き止まりで、今更どうしようもない状態だった。


 眼球の奥が重たくて目を覚ました時には既に陽が昇り始めていた。俺はリビングのソファの上で転がっており、ほの明るい部屋の中で昨晩の夕飯の片付けをしていたのは美枝さんだった。ソファの近くに敷いてあるカーペットの上に、美枝さんが揚げてくれた俺の大好物の唐揚げが落ちていた。少しの辛子が特徴の、特製のケチャマヨソースがシミを作っている。

 美枝さんに言われて頭の奥がズキズキと鳴ったけれど、思い出せなかった。昨夜俺は鬼に取り憑かれたように暴れたらしい。ダイニングテーブルの上に置かれた食器を床に落とし、枯れたひまわりが飾ってあった花瓶を落とし、サエちゃんと並んで撮った写真が飾られた額を投げつけたらしい。

 美枝さんには直接謝った。ごめん。こんなことしてごめん。辛いの俺だけじゃないのに。美枝さんも宗さんも辛いのに。ごめん。

「……宗さんは……?」

「今日夜に寄合があって、その関係で早くに富山に戻ったがよ」

カーペットについたソースのシミを何度も叩く美枝さんが言った。

「……宗さんに悪いことしちゃったよ」

「宗さんはそんなことぐらいでちゃあんたに怒らんのわかっとるやろ?やし、宗さんが黙っとれんかったんが悪いんやし」

 続けて、必ずどこかのタイミングで俺に伝えようと思っていたことを話した。

 美枝さんは「看護師さんに呼ばれて話聞いとったら『本当は末期なんです。けれどご本人様の意向でして……とはいえご家族様どなたにもお伝えしないわけにもいかないですし……』って頭下げられたがや。あの人何も悪ないがに頭下げとった」と掠れた声で話した。何度も大きく鼻から息を吸っていた。鼻水混じりだった。

 カーペットの上に何粒ものシミが出来上がっていた。二人分の。


 走って追いかけていたサエちゃんの腕に手をかけようとした瞬間、サエちゃんはまたすごく遠くにいた。

『サエちゃん……置いていかないで……サエちゃん、お母さん、待って、お願い』

 喉の奥が切れて血が滲みそうなほどに叫んだ。

 サエちゃんは笑って俺に手を振っていた。背中を向けて、どこか白く霞んだ靄の中に消えていく。足元が見えなくなり、背中も真っ白な中に消えていく。

 俺はサエちゃんに置いていかれたんだと明確に理解した。

 俺だけがサエちゃんのことを大切に思っていたんだ。

 上り框でぶつけた頭の横が痛くなり始め、その痛みは頭全体に広がった。

 俺の左肩を誰かが叩いている。痛くはないその手のひら。伝わる温度。

 サエちゃんと似た手のひらの形。

 あるはずもない。あるはずもないと思っている。先程までにくいと思っていたはずのサエちゃんがここにいる気がした。

「サエちゃん……」

 目を開けると知らない天井。顔にエアコンの風が当たり、足元ではブーンと大きな音を出す扇風機があった。体を起こすと、頭に昇っていた血がさっと引いていき、また倒れ込む。

 また頭をどこかにぶつけるという考えが寝転ぼうとした時に思いついたけれど遅かった。しかし、後頭部には枕があった。頭を何度か擦り付けるとカサカサと音が鳴り、蕎麦殻の枕だと気がつく。

 ここはどこなのだろう。知らない香りのする家。

 少しカビ臭くて、線香の匂いが微かに感じられる場所。

 足音が近づいてくることに気がついた時には、雑草ばあちゃんが部屋に顔を出していた。

「起きたがけ? あんた大丈夫かいねよ」

 雑草ばあちゃんは俺のことをじっと見下ろしている。どうやらここは雑草ばあちゃんの家らしい。

「熱中症かなんかなっとったがないけ。大樹が心配して見にきたけど、とりあえず寝かせとくから今日のうちは帰れって言うといた」

 ああそうだ。大樹には球をとりに行くと勇んでいたにも関わらず、泣き声がなければ帰ってくる様子もないことに心配したのだろう。情けなさが心の中に広がった。

 俺はいつだって誰かに助けられてばかりだ。勇気がすぐにつくものではないし、すぐに何かが変化するわけでもないと分かっていたはずなのに。

 心がざぶんと海の深くに沈んでいきそうになった。その瞬間、自分が本当にダメな人間なのだと知り、目尻に涙が滲む。誰かが見ているのに泣くのは初めてだった。

 サエちゃんが死んだ時、俺は脇目も振らずなくことができなかった。子供なのだからと喚き、泣き散らしたかった。けれど目から涙は一切流れてこなくて、悲しいのか辛いのかもわからなくなった。笑い方も分からなくなったから、大樹や他のクラスメイトは俺が表情に乏しい人間だと思ったに違いない。

「あんた、男ながに泣いとんがけ」

「っ、ふ、あ、っ、ぃ」

 はいと言いたくなかったけれど言うしかなかった。

「あんた、名前は? 大樹が直也言うとったけど、名字は」

 目尻に深い皺があった。黒目は宗さんと一緒でキラキラと光っている。

「……次木、です。サエちゃんの。あ、美枝さんの? あと、宗、一郎さんの」

 次木で伝わるのかが分からず、自分に関わる全ての大人の名前を告げた。雑草ばあちゃんの眉間に寄っていた皺が薄くなる。

「あぁ、紗子の。みっちゃんと宗一郎んとこの孫かいや。あぁ、そうかそうか」

 雑草ばあちゃんは何度も頷いたあと、キッチンに向かって行ってしまった。遠くから水の流す音が聞こえていた。

 今のところ、雑草ばあちゃんに頬を打たれてはいない。なんなら形相と語気こそ強いけれど、目は優しい印象だった。もしかしたら雑草ばあちゃんは俺が投げた野球ボールが自身の窓に当たりヒビが入っていることに気がついていないのかもしれない。

「あのお……」

 恐る恐る振り返る。雑草ばあちゃんと目が合った。

「球投げて、窓にヒビ入れたん、あんたやろ」

「……だ、ぅ、そう……です……」

 悪いことをした人間が布団の中にいるのは意味不明な気がして、布団から這い出てキッチンに向かった。大きなスイカを小さな雑草ばあちゃんが切っている最中だった。

「直也!」

「はいっ!」

 急に大きな声で名前を呼ばれ、背筋を伸ばした。大きなスイカに包丁が腹の半分ほどのところまで刺さっている。包丁をそのままにして、雑草ばあちゃんは俺の体をジロリと頭から足の先まで見つめた。

「これ入善のジャンボールスイカ。ただでかいだけ。後ね背筋は伸ばしとった方がいいよ」

「あ、え、はあ」

「私は怒っとらんがよ。紗子もうちの窓ガラス割ったことあんがいから」

 サエちゃんの名前ぽっと出て来たことに驚く。けれど何よりも驚いたのはサエちゃんも雑草ばあちゃんの家のガラスを割っていたことだった。俺よりもタチが悪い。

「血は争えんがいねえ」

 肩を揺らしながらジャンボールスイカとやらに向き直った雑草ばあちゃんは腹の半分ほどまで刺さった包丁をまな板まで下ろす。赤色の果実が顔を出す。

「紗子んことは草むしりで許してやった。来た時すぐに頭下げて謝っとったし。直也はどうする?」

「……えーっと」

「草むしるがと、高い銭払ろて窓直すがどっちの方がいいが」

 口角を上げたのは雑草ばあちゃんだった。

「……草むしり、させてください」

 その場で頭を下げる。床に置いてあった大きな梅干しの瓶と目があった気がした。

「スイカちょっこし食べて、もしあんたの塩梅がよかったら今日せんまいか」

 今日少しだけ雑草掃除をするだけで許されるというのだろうか。

「……それだけで許してもらえるんですか?」

「余生短いがに、誰かのこと怒っとるんダラみたいやろ」

 ダラというのは、富山県でバカやアホを意味する。

 雑草ばあちゃんは俺の前に切られた大きなスイカを差し出す。皮がついたままのスイカは食べたことがない。サエちゃんがスーパーで買ってくるスイカは、既に周りの緑色の部分が取られ、均等なサイズに切られてパックに入ったものだった。

「やからもう怒らんが。スイカ食べてもう一眠りせられか。まだ外で作業するには早いから」

 雑草ばあちゃんは俺に顎を何度も向けた。居間に行けと言われた気がしたから布団がまだ敷かれたままの居間に戻り、スイカをひとかじりした。口の中が水分で大洪水を起こした。今まで飲んだことのないジュース。天然の甘み。

「……美味しい……」

 サエちゃんが死んでから、何も美味しく無くなっていた気がしていた。気がしていただけだったのかもしれない。


「はい、これ被って。後、軍手ね。そっでいいわ。はい、はよ出られんかあ!」

 変な形をした帽子を雑草ばあちゃんに渡され被り方に困っているとため息を吐かれた。雑草ばあちゃんに被せてもらい、顎の下で紐を縛る。

「これあったらお日さんそのまんま浴びることないから。日焼けもせんで疲れにくい」

 雑草ばあちゃんは何も着用しないまま畑に入って行ったから慌てて追いかける。

 積乱雲はつながり、人間を覆うような姿勢をしている。吹く風が、日中よりも涼しい。

「やっと陰なったからね」

「あ、ほんとだ」

 ボールを取りに来た時にはジリジリと脳天を焼かれていたのに、今は家の影で畑が少し暗い。

「今ね、ちょっと膝の調子悪いからしゃがめんがよ。やから代わりに草むしりしてくれたらありがたいがよ」

 俺が体調を崩して目を覚ました時、調子を確認する雑草ばあちゃんが俺のことをじっと見下ろしていたのは、居間の畳に直接座ると立ち上がるのに苦労するからだったようだ。

 靴のまま畑の中に入っていく。雑草ばあちゃんの家の畑はそこまで広くはなく、家の敷地にそのまま併設されいる、車が二台ほど停められる程度のサイズだった。

 膝の痛みから整地ができなかったらしく、雑草が伸びているところが所々あった。

「直也の母ちゃんの話、紗子の話、するか?」

 雑草ばあちゃんの声で背中を反らして振り向く。

 もしかしたら、また聞いたら悲しくなるだろうか。寂しくなるだろうか。サエちゃんに会いたくなってしまうだろうか。

 考えている顔に風が吹いた。

「泣きたいときは泣いたらいいがよ。大切な人のことを思って、泣きじゃくったらいいがよ」

 その言葉は聞いたことがあった。目を見開く。雑草ばあちゃんの表情は陰で見えずらい。

「泣いたらスッキリする。汗と一緒で、流れ出たものは流れ出るがに訳があんがよ、止めたら、体に悪い」

 何度も頷く。もう泣きそうだった。サエちゃんの言葉。雑草ばあちゃんの骨ばった手の甲。

「紗子のこと思って、泣きたいだけ泣けばいい」

 雑草ばあちゃんの言葉に、また畑に視線を移ししゃがみ込んだ。


 紗子はガキだった。そんじょそこらのガキじゃない。ガキ大将だった。

 男の子を泣かせ歩き『男のくせに泣くな! ダラが!』と背中を蹴った。けれど女の子には優しい奴だった。紗子がガキ大将能力を発揮させるのは、必ず女の子が泣かされた時だった。

 敵討。さるかに合戦の中の蜂も臼も栗も全部一人で猿相手にやっていた。

 そんな紗子が一番好きだったのは、宗一郎の好きな野球だった。

 宗一郎やみっちゃんには「女が野球なんかやってどうするん」と言われたらしいが、紗子はずっと聞こえないふりをしていた。

 紗子にくっついて歩いていた女の子たちは野球を一緒にしてくれたようだった。家の中から彼女たちを見て微笑ましく思っていた。

 けれど中学に上がり、女の子たちには他に好きなものや好きな人が出てきた。

 男の子。化粧品。テレビ。雑誌。お菓子。スカート。ズボン。ヘアピン。アイドル。

 そうすると、紗子は一人で壁に向かってボールを投げることが増えた。恋人ができた友人と鉢合わせした時、くすくすと笑われていたことを知っている。

 けれど女の子相手には絶対に喧嘩を売らなかった。彼女らしいと思う。心の奥底が優しく、温かい人間なのだと思う。

 そう思っていた矢先、家の窓ガラスが割れた。夫はひどく怒っていたが、窓ガラスを割った犯人が誰が分かっていたから、なんとか諭すことにした。

 窓ガラスが割れた日は、誰もこの家を訪れないかに思えたが、夕飯を終えた頃に紗子が家にやってきた。

『ごめんなさい。うちがガラス割りました。こんなんで足りるか分からんけど、使ってください』

 差し出された封筒には数万円が入っていた。

『……このお金、どうしたん。どうやって工面したん』

 紗子は俯いたまま呟く。

『……おかんの財布から抜いて来ました。学校バレたら怒られるかもしれんけど。大崎さんに言うのは間違ってるって、分かってますけど。どっかで稼いできて、おかんの財布のお金は何とかして返します。そこは、大崎さん、関係ないやろし。おかんやおとんに話するんは違うと思ってて。これは私がやったことやし。関係ないし』

 唇を噛み締めた。大人をみくびるのではないと頬を打ってやっても良かったのかもしれない。しきりに両親やこちらが悪いことをしていないと言った。全てを自身で解決しようとする人なのだと知った。寂しさや悲しさは二の次。

 こうなるのであれば、私が彼女のキャッチボール相手になってあげたらよかった。

『……紗子ちゃん』

『……なんですか……』

 数万円の入った封筒を彼女の胸に突きつけた。彼女は大きく目を見開いた。

『明日から二日間だけでいいから草むしりしにきなさい。それでチャラでいい』

『なんでやの!』

『夜遅いから帰りなさい。親御さんに説明せんなんことになります』

 親に連絡され、全てを知られる方が心苦しかったのだろう。紗子は踵を返して行った。

 烏賊っていた肩を下ろし居間に戻る。

 彼女の声が玄関から居間に響いていたかもしれなかった。夫は何も言うことなく、爪楊枝を加えたままテレビをじっと見つめていた。

 職場から家に戻ると、体操服でやってきた彼女は畑の草むしりを既に始めていた。じっと草と土とを見つめる彼女は、こちらに気がついていなかった。

 自転車のぎいっという油の少ないブレーキの音を聞いて、紗子はこちらに振り向く。

 ガキ大将であった紗子の背中は細く小さくなった。女に近づいていく友人たちと自身の体。けれどやりたいことはここにはなくて、ずっと子供の頃から変わらないままだった。

 唾を呑み込む。

『…………寂しかったでしょう……』

 彼女のエラがグッと張った気がした。黒目が揺らぐ。

『……そんなん……寂しくないです……』

『キャッチボール、してあげたらよかったんやね』

『そんなん……大丈夫……です……っ』

 土が濡れていく。濃い茶色に滲んでいく。


 サエちゃんが野球を好んでしていたことも、ガキ大将のような幼少期があったことも知らなかった。俺の知っているサエちゃんはもっと静かで、大人しかったから。最後の記憶は弱かった。

「紗子はあの後から野球をせんようなったね。けど、数回だけキャッチボールせんかったかな」

 背もたれの低いキャンプ用の椅子に座った雑草ばあちゃんは笑っていた。

「……俺、サエちゃんの何も知らなかったんだなって、少し悲しいです」

「どうして雑草ってこんなに広がるんやと思う?」

 雑草ばあちゃんは俺の言葉を聞いた後に質問をしてきた。俺の悲しみを受け入れて、共感したり優しくしてくれたりする気がしていたのに。

 その問題に対しての答えを考える。首を捻って、頭を掻いた。

「……わかんない……なんでだろう」

「抜いとって、なんか気づくことなかった?」

 何度も根っこが残ったままの部分が何箇所もある。大根の髭が太くなったような一本を抜き出すと、その近く、またその近くに根が生えていた。そういった雑草の方が根が深く、取りずらかった。細い根っこで、隣り合う植物と共生していない雑草は茎の部分から容易に抜くことができた。

「雑草はね、見えん土の中で繋がっとんがよ。支え合って、群生して。一本が抜かれて元気がなくなっても大丈夫なようにしとるんよ。大丈夫じゃない誰かを支えるために」

 雑草ばあちゃんと目が合う。日焼けして照りのある顔に、皺と大きな瞳が乗っていた。

「あんた、今まで一人で生きてきた?」

考える。サエちゃん。宗さん。美枝さん。東京にいたときに仲良くなってくれた友達。地蔵先生。クラスの子達。大樹。

 俺はみんなと繋がっている。俺がもし倒れても、元気がなくなっても大丈夫なように。ちゃんと、根っこを張っている。みんなんと手を繋いで、張っている。

 土の中。それは今見える世界とは違うところ。だからサエちゃんも俺のことを支えてくれているのかもしれない。大丈夫だって、言ってくれているのかもしてない。

 大きく横に首を振った。

「……俺……一人で生きて、ないみたいです」

 サエちゃんの昔も、今も知らない。サエちゃんが天国にいるのか地獄にいるのかも知らない。まずそんな世界があるかも分からない。けれど、みんなサエちゃんのことを知っている。俺はその土の中のサエちゃんを今から掘り起こして、知って行けばいい。

「ね、そうやろ」

 雑草ばあちゃんの白い歯が見える。

「直也、あんた一人じゃないがよ。大丈夫」

 頷くたびに、顎に涙が伝った。紐の色が変わりそうだ。

「土や植物はね、何でも人間の知りたいこと、教えてくれるがよ」

 積乱雲が青色と赤色を混ぜた色に染まっていく。薄いピンクとも紫とも言える。

 その合間から、金色に輝く夕日を見た。眩しくて目を細めた俺の口角は、やんわりと勝手に上がっていた。

 綺麗だと思った。

 色眼鏡のレンズ。いつの間にか外せていたみたいだった。

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雑草ばあちゃん 梅枝魚子 @fishgirl_uoko

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