5-2
夜中、声にもならない悲鳴を上げる。
首筋を突き動かされ、わたしの意識は溟い海面から急浮上した。
「──────は…っ! はぁ…はぁ…っ───」
起き上がった直後、枕に置いてあるはずの頭が、ぐにゃりと鈍く横に流される。体が怠い。一歩だって動くこともままならないのに、目が回っているみたいで、なんだかひどく滑稽だった。
視界が波打つように明滅している。高鳴り続ける肺はわたしの意思とは独立し、今の今まで溺れかけていたかのように、酸素を乞い求めて止まない。
麻痺した腰のほうはいまも、あの事故の夜に魘されている。
……まるで、赤ちゃんの夜泣きのよう。
落ち着きを取り戻すまでの間、わたしは自分でも聞くに堪えない掠れた呼吸を頭の中に垂れ流し続けた。
みっともないと嘲笑う声は、親戚たちの
ある日の放課後。わたしの通う病院の診察券を両手にじっと俯いて、それにも飽きて視線を巡らすと、こんな標語を掲げたポスターを目にした。
『心に傷を抱えた人たちのためのまちづくりを』
とにかく淡い緑色で彩られた変哲もない張り紙。陽の光なんかで照らされたら、そのままあえなく消されてしまうような影の薄さ。お役所仕事の匂いが染みついていて、大きめに印字されたお題目は立派だけれど、特に関心のそそられない絶妙さだった。
きっと、このポスターをデザインした方はこの街の実情を棚に上げているに違いない。上根市が蚊帳の外にいる人達からどう揶揄されているのか、知っていなかったらここまでの潔さは出せないでしょう。
「……ほんと、ばかばかしいったらない」
そこで名前を呼ばれ、わたしは慎重に車椅子を動かした。
「そうですか。また、薬の効きが悪くなったと」
いつもお世話になっているお医者さまが、困ったように眉を曲げている。
いまは二種類の睡眠薬を処方してもらっていて、お医者さまから口酸っぱく注意された通り、ちゃんと定められた量を服用している。けれど、この間の夜中のように、途中で起きてしまうことが増えてきた。
「薬の耐性ができつつあるのでしょうね」とお医者さまがぼやく。
そして、つい四ヶ月前に処方を変えてもらったばかりなこともあり、向こうも対応に窮しているよう。
しばらく、お医者さまがパソコンの画面に映し出されたデータを眺めると、
「一度、現在怜耶さんがお使いになっている睡眠導入剤の併用をやめ、代わりに効き目の強いものを処方しましょうか」
ただ、お医者さまが説明するには、前回の時とは違い、すぐに処方を変えてしまうのではなく、服薬をいったん中断してから数日ほどの期間を空け、新しく処方したものを服薬してほしいとのことだった。
ちり、と焦げ付くような不安が胸に過ぎる。
「……その数日の間は」
「こちらとしても心苦しいですが、耐えてもらうしかありません」
わたしの躊躇いがちな確認に、お医者さまはきっぱり言い放った。
そして、そんなわたしの不安とは他所に、親戚の女はさらに出費が嵩むことに対し、あまりいい顔をしなかった。論うように余ってしまった処方薬のことであからさまにため息までついてみせた。
「一人じゃなにもできないくせに。要求だけはしっかりしちゃって」
毎日のように繰り返される何気ない皮肉。冷笑。悪態。
回りの世話をほとんど任せている身。文句は言えない。だからわたしは車椅子の上で、ただ息を吸って、吐く。
それでも、やはり不満は堆積していく。
わたしの分の生活費も通院費も、わたしの口座にある両親の遺産で負担している。後見人となった報酬に小遣い程度のお金だって与えられているのに、わたしが死ぬことで将来的に得られる取り分が減ることがどうしても許せないらしい。この人たちは、わたしが長生きしないと思い込んでいるからこそ、わたしに余計なことはしてほしくないんだ。
それからの薬を断った三日間は、まるで地獄のようだった。
一日目の夜は眠れなくても耐えられた。夜の静けさそのものは嫌いではなかったから。カーテンを開けて、窓も開け放って、梅雨の湿り気が一様に染み渡る街中の窮屈で寂しい景色を目に留めた。日が昇り、薄氷のような雲が広がって、だんだんと騒がしくなるまで。目を開けていられた。
でも、雨の日はダメ。月明かりがない夜も。
だから、二日目の夜はとても気が狂いそうだった。
風雨が窓を打つ。ざぁ、ざぁ、と断続的に激しく雨粒の打ち付ける音は、走行中の車内を思い起こさせる。目を瞑っているのか、それとも目を覚ましているのか。感覚は蒙昧で息を止めているみたい。微弱な振動が腰に伝わる。車体が風を切る。とてつもないスピードで夜の山道を駆け抜ける。車体が震え、慣性で全身が締め付けられる。苦しい。叫び声。誰かの叫び声が聴こえる。父の声。母の声。どれともつかない。呼吸が乱れている。誰? この声は、誰?
───ばちん、と頬を打たれた。
うっすらと瞼を開ける。
ぎゅぅ、と体に重い物がのし掛かる。
首を絞められているよう。けれど、ふしぎと呼吸は苦しくない。
だんだんと心が安らいでいき、ふたたび、わたしの意識は闇に落ちていった……。
三日目の記憶は、まるまる抜け落ちていた。気がつくと一足飛びに早朝を迎えていて、学校のほうは休んでしまったらしい。
その日の夜、わたしは新しく処方された睡眠薬を飲んで、ベッドに着いた。
流砂に沈むような倦怠感に襲われながら思い耽る。
わたしの人生はもはや、薬なしでは考えられないことを。
◇
薬さえあれば、わたしは何物にも脅かされることがない夢の住人でいられる。
親戚の女に嫌味を言われる日々も、懺悔を乞うような視線を時折向けてくる親戚の男にも、薬が生み出す抗いようのない微睡みのおかげで、揉み消すことができている。その延長にある息を吸って吐く行為にも、かろうじて祈りを見出せる。
けれど、もとより夢は覚めてしまうもの。
年が明けないうちにまた、その効き目も薄れていた。
お医者さまも匙を投げてしまった。これ以上処方を増やそうにも、法的に頭打ちらしく、当然、健康面にもさらなる悪影響が出る恐れもある。反跳性不眠などの離脱症状のリスクを抑えるため、これからは服薬する量も徐々に減らしていかなければならないという。
「薬物でこれ以上の治療が望めない場合、生活環境の見直しや別の治療法の検討をしなければなりません。定期のカウンセリングは以前にも打診しましたが、断っていらっしゃいますね。もし怜耶さんの無理がなければ、もう一度、検討なさってみませんか?」
「……カウンセリングって、話せば、治るのでしょうか?」
それにお医者さまは何とも言い難い顔つきをする。わたしの問いが、よほど彼を困らせてしまったみたい。けれど、事故の悪夢を、夜更けに不意に訪れる脚の震えを誰かに打ち明けたとしても、何かが変わってくれるとは、わたしにはどうしても思えなかった。
むしろ、話せば話すほどに、どこか遠い場所へ追い遣られてしまう恐怖のほうが何倍も勝った。あの人たちを前にするように。
しばらくして、お医者さまは慎重に言葉を選ぶようにして告げた。
「薬のように、完全な治療とは言い切れません。人の精神というのは、苦しみを受け入れるだけではなく、理解してあげることで、時に和らぐことがあるんです。カウンセリングは、怜耶さんが話すなかでそうしたまだ自分でも気がつけていない蟠りに触れられる機会になります」
しかし、最後は怜耶さんのご意思次第です──。
と、お医者さまは、前にどこかで聞いたようなフレーズを付け足した。
「………」
わたしの気持ちが揺れ動くことはなかった。
これからは処方薬の量を減らされてしまう。
わたしにはなによりも、その事のほうが死活問題だった。
年が明けて、中学校の卒業を間近に控える時期になった。
わたしの場合、高校受験の必要はなくなった。この脚ではとても、義務教育でもない高校の毎日登校は厳しい。だからといって、このまま就職するには同様にハンデを抱えている。わたしには、何かしら取り柄があるわけでもない。結局、義理の姉の勧めで通信制の高校に籍を置くことになり、書類手続きと軽い面談を終え、早々に入学先が決まった。
義理の姉曰く。
「今のあんたが社会に出たって、意味ないでしょ。周りにすごく迷惑かけるだけ」
言い返す余地もないほどに的を射ており、つい感動を覚えてしまうくらいの痛烈さだった。
すると、一月から三月までに、かなりの時間の余裕ができるわけで。
ちょうどよく、薬のことについてじっくり調べられる機会に恵まれた。
ベンゾジアゼピン系の薬物やGABA受容体に作用するもの、がなんでも抗不安薬や睡眠薬としての効き目が強いらしい。わたしが処方されている睡眠薬も確か、依存性のあるベンゾジアゼピン系の薬物だ。お医者さまには何度も『用法にはきちんと注意してください』なんて、お決まりの文句を言われてきた。
ネットで薬のことを調べていると、嫌でもこんな文言が目に飛び込む。
『薬物の乱用はいけません』
聞き飽きた注意喚起にも程がある。わたしがまだ小さかった頃、喘息のお薬を貰う時にも目にしてきた。子守唄にもならないのに我が物顔。
処方箋なしでも薬を購入できるサイトの存在を知るのに、ひと月もかからなかった。
むかし、注射針を手首に向けて、息を切らしながら、脂汗を浮かべた外国の男の人の姿を見た覚えがあった。ドキュメンタリーだったか、映画の中のお話だったのか、ハッキリとは思い出せない。朝焼けが青白く、水浸しの窓に苔が群生したような画面。鼻息を大袈裟に鳴らし、注射器を持つ手は震えていた。どくん、どくん、どくん、どくん。あの時は、言葉も忘れて、ただじっと目を逸らすことができないでいたけれど、今なら、彼の気持ちがよく理解できる気がした……。
一線を踏み越える決心が固まるまでに二週間以上。
わたしはただ、いっときの眠りが欲しいだけ。
鮮やかな色は要らない。豊かな音も要らない。
泥沼のような闇、凄まじい爆発さえも潰える、無響の彼方。
それは喩えるなら悟りに等しく。そんな境地を味わいたいだけ。
あるいは、幼少の頃、屋敷で過ごした過去の記憶でも構わなかった。
夜も更け。息遣いはひとりきり。
一日の摂取量を優に超えた粒たちが、わたしの手のひらで踊っている。
わたしは祈るような所作で軽く握り、そっと、口許に運んだ。
いくつかの粒が、カラカラと音を立てて、木目の床に散らばっていった。
◇
中学最後の春休み以降は、部屋にほとんど籠りきりの生活が続いた。
入学式には出る必要がなかったので、ずっと自分の部屋のなかにいた。担当の先生とテレビ通話を繋げるときまで、わたしはなんとなく、何者でもない気分で日々を過ごしていた。
……だから。
わたしがわたしとして息を吹き返したのは、たとえ僅かでも、再び外との繋がりができてしまった、あの瞬間なのだと思う。
わたしの担当をされる方は、若い女性の先生だった。
たぶん、向こう側の配慮でしょう。打ち解けやすいようにと。
先生がわたしの顔を見て、親しげに話しかけてくる。
「なんか、顔色が悪いように見えるけど、大丈夫?」
「───はい、大丈夫です。生まれつきですから」
わたしは努めて自然体を装うように、微笑を貼り付けた。
いまに思えばこれは、亡くなった母の真似だったかもしれない。
「はぁ……はぁ、っ……はぁ……」
夜中に息を切らす。
思考に靄がかかる。
わたしは、何度目かの過ちを犯す。
この繰り返しは、もはや数えるのも億劫だ。
カレンダーに印をつけていれば、自分の生き汚さを嘲ったでしょう。
ずきずきと、肺が痛みを訴える始末。
胃に溶け込んだ薬剤が血を巡って、肺の中で棘になったかのよう。
「──────」
今夜も、気配を感じる。
部屋の扉が幽かに細長い闇を覗かせている。
そこにいる。
眼球。わたしをじっと見つめる、不躾な視線。
きっと、またあの女だ。
いつからか、わたしの様子を時折、ああして覗き込むようになった。
虎視眈々と餌が衰弱し切る瞬間を待つようにして。
わたしにさっさと死んでほしいくせに、直接手を下そうともしてこない、卑怯者。
その目は、おそらく嗤っていた。
五月の中旬頃になると、睡眠薬に物足りなさを覚え出した。
日に日に咳も酷くなり、粗相をしてしまう頻度も増え、当然、親戚の人たちからの風当たりも強くなった。
汚物を見るかのような眼。しんしんと降り積もる埃のような迂遠な罵倒の数々。
わたしはしっとりとしたタオルに視線を注ぎ、静かに息を吸って吐いて、ひたすら惨めな時が過ぎ去るのを堪えた。
わからない。別にこの人たちを困らせたいと思ったことはないのに、どうしてこんなことになってしまっているのか。
追い立てられるように睡眠薬に代わる
身に覚えのない一通のメールが届いた。
『忘れ物はございませんか?』というタイトル。
中身は当たり障りのない、代行サービスの広告だった。
最初はリンクを踏むのにも躊躇いがあった。でも、すぐに今更だとも思い、手を進めた。SNS上でコンタクトを取り、どうすれば正しく利用できるのか、教えてもらうことができた。文章はとても丁寧で、どこか機械的な印象すらあったけれど、それは違法性のなさを強調するためなのだと思い至る。
だから、自覚そのものもあっさりしていた。
わたしはすでに、そういう世界に足を踏み入れてしまったのだ、と。
若い配達員の方が、ちゃんと家に誰もいない平日の昼間に、部屋を訪ねてきた。でも、相手は何も知らないようだった。中身を知っていれば、こんな実直そうな顔つきではいられない。間抜けな方なんでしょう。わたしの姿を見るなり、少し目を見開いていた。そういう仕草も隠し通せないところが、ますますそう思わせた。
安っぽい茶色の紙袋の感触を指先でなぞり、乾いた音が鳴る。
背筋がゾクゾクした。
もう引き返すこともできない。
そんなことはとっくにわかりきっている。
「さっそく今夜、試してみましょう」
口許は、自然と緩んでいた。
◇
「はっ───、はぁ───っ、はぁ───……」
闇の中で色彩が踊っている。耳鳴りが太鼓を鳴らしている。天井の奥を蝶の群れが舞い、無数の渦巻きが、天井に孔を穿とうとしている。芋虫を産み落としている最中なんだ。頬に粘液が落ちる。熱い。ああ、すぐに氷になって、砂になっていく。天井の芋虫たちが産声を上げるように金切り声を響かせた。
───途端、いっせいに感覚が消失した。
「はぁ……、は、っ、はぁ……──────」
頭にはどうしようもない快楽ばかりが這いずって、鉛のような痼りを残す。じーんとした痺れは脳味噌が鳥肌を立てたようで、後頭部を重くしている。掻痒感に背筋が仰け反りそうになる。夢を見るような浮遊感。でも、なぜかすぐ地に落ちてしまう。そして、なけなしの空想が喉を渇かせた。
今日は何日だろうと、ふと頭を傾げて、カレンダーを見た。
机の上にある鏡に、いまのわたしの姿が映り込んだ。
息を呑む。
思い出す。
迫り上がる吐き気に蹲る。
なんて、醜悪で憐れな姿だろう。
生の渇望に神経を削りながら、死の誘惑に耐えきれもしない。
死の誘惑に身を焦がしながら、生の渇望を振り切れもしない。
どっちつかずの天秤を胸に抱えて、自らの命を弄び、持て余している。
不意に視線を感じて、首だけ横に向けた。
「……物好きな、ひと。私の苦しむ姿が、そんなに、可笑しいのかしら」
開いた扉の僅か隙間。小さな丸い光が、ぼんやりと浮かび上がる。
細長い闇のなかで、眼球が震えている。嗤っている。
はやく死んでしまえ。
そんなふうに嘲る声が執拗に聞こえてくるかのよう。
見物するだけして、あの女はずっと、わたしを遠目にする。
「──────」
心臓の鼓動が加速し始める。頭が内側から膨張するように高鳴って、今にも破裂しそう。怒りを通り越して、笑みが溢れそうになるけれど、その前に咳がわたしの喉を塞いだ。
ゆっくり息を整えていると、視界が滲み出す。
そうして、わたしの意識は次第に重たい泥の底に沈んでいった。
その日は、雨が降っていた。
肺や関節の痛みが気に障るほど、室内はしんとしている。
たぶん、ここは本来薄暗いのでしょう。
でも、あちこちに純白の火の玉が瞬いている。
まるで昼間のように明るく、眩しく、目が傷む。
そういえば、ここ数日、まともに一睡することもできていなかったように思う。
「………」
インターホンが虚ろに鳴り響いた。
誰だろうと思い、モニターを確認すると、もはや見慣れた顔がそこにあった。
ただならない雰囲気を感じる。前回には自分が何を運んでいたのか、どうやら察した気配があったから、たぶん八つ当たりに来たのかもしれない。そんな事を、わたしは思った。
彼を通す。
扉の鍵は開けておいた。
がちゃ、と躊躇いもなく音が鳴る。
仄かながら、曇天の光が玄関に射し込む。
雨垂れのなかを傘もささず歩いてきたのでしょう。
彼は、濡れそぼっていた。
若い男の人が突進するようにわたしの首を掴みかかる。
背もたれにきつく押し付けられて、視界が白ずむ。
ああ、と思わず息が漏れた。
夢心地に呟いてみる。
「───あなたが、私を殺してくれるのね」
結局、彼もわたしの期待には応えてくれなかった。
裏切られた気持ちをありのままぶつけると、彼はおよそ見当違いな方向に決意を固めて、そのまま一目散に部屋を飛び出していった。
その背中を見て、ある思いつきが脳裏を過ぎった。
「……嫌だと思ったら、最初から逃げていればよかったのね」
気がつけば、季節はもう夏を迎えていた。
そして、わたしは季節外れにも、白い息を吐露する。
首を絞められて、わたしは気を失ってしまっていたらしく。目が覚めると、一瞬の高熱が私を襲い、それから程なくして、久方振りに頭の靄が晴れた。胸が腫れ上がったような息苦しさも消えていた。わたしの中で何か、致命的な変化が起きたらしい。
同時にあの薬を飲んでも、慰みほどの微熱を帯びるだけで、僅かの心地よさも数瞬で霧散してしまうようになった。
酷い話。思いがけず彼に殺されかけたことで、今度は一度に、わたしは夢見を失った。
……これは、その代償。
仕事から帰ってきた親戚の女が、わたしの姿を一目してぎょっとする。
ホンモノの幽霊でも前にしたのかのように、信じられない、と恐怖に慄いた表情を見せた。
わたしは、車椅子に頼らず、たおやかにスカートを摘まみ、お辞儀する自分の姿を想像した。
「あなたたちに、心地よい夢を与えましょう。
その代わり、あなたたちはされるがまま、私の願いに殉じなさい──」
◇
それから、わたしは祖父のお屋敷へ戻ることにした。
二年前まで住んでいた家。そこは、とうに荒廃していた。
まったく管理されていなかったのだから、考えるまでもないこと。
空き家なんて一年も人が住まなくなれば結構傷んでしまうという。
形だけでも立派に保っていれば大したものでしょう。
夏の日差しが、お屋敷の様相を克明に照らし出している。
蔓に絡まれた漆喰の外壁。薄汚れた窓の奥には細かい砂状の闇を無数に溜め込み、廃墟然とした構えを強めている。見映えは多少整っていても、中身は想像よりも汚れているに違いない。
胸が痛むことはない。肺に至っては以前よりも調子が楽なほど。
けれど。
とめどなく涙が溢れたのは、自分のことなのに、理由がわからなかった。
親戚の男を連れて役所に行き、住所を今のマンションからお屋敷へ移した。決して少なくない荷物の運び出しも着々と進んでいる。お屋敷を清掃させるための人員の確保も済み、そちらの作業も順調。
まさにこの世の春だった。
無闇に耐え忍ぶだけだったわたしの呼吸が、いまでは人々の意思を容赦なく捩じ伏せている。悪戯に敵を作ってしまうこともなく、いちいち相手の顔色を窺う必要もなくなった。
その時のわたしは、きっと浮かれていた。
地に足が着いていなかった。
白昼夢のような現実にすっかり甘え切っていた。
だからこれは、そんな些細な油断が招いた、わたしの罪……。
七月十八日。木曜日。
その日は全国的に曇りだった。
半袖でも前腕の肌が雨に濡れたみたいに汗が滲む猛暑日。
お屋敷の清掃の様子をある程度まで見届けてから、一度、わたしは親戚の家に戻ることにした。荷物の運び出しがちゃんと全て終えられているか、その最後の確認のために。
時刻は午後の六時過ぎ。
玄関のドアを開けてもらい、中へ入る。
黒と白の対照が際立つ廊下。曇り日の湿気が塗りたくられているよう。
そのままリビングに向かうと、床に何か異物が転がっていた。
親戚の女が倒れ込んでいた。
そこはかとなく水気を帯びた背中。
傍目に、とても息があるようには見えなかった。
ねえ、と呼びかけてみる。
返事はない。
眠っている人に返事を期待する方がこの場合どうかしている。
でも、側へ寄ろうとは考えられなかった。
背筋が知らず張っていた。
相手は衰弱している。わたしはそれを遠目にしている。
この時、わたしの中でようやく、合点がいった。
……ああ、そう。
あなた、そんな風に私に死んでほしかったの。
どうして、いつまでも直接手を下そうとしてこなかったのか。
放っておけば、人なんて簡単に死んでしまう。
ごく当たり前の発想。無知な子供でも思いつく見殺し。
なら、あなたはここでひとり朽ちていけばいい。
醜く、汚らしく、腐り果てる末路。
「……お似合いの最期だわ」
けれど、つまるところ私の最期も、この女と大差はないのでしょう。
お屋敷のなかで緩やかに朽ちていく、これからの停滞した日々を想う。
もはや夢での再会さえも叶わない亡き両親と祖父母の面影。
懐かしくも寒々しい、穏やかだった幼少期の安らぎを。
私は私の望む“死”を迎える為に、いまも呼吸を続けている──。
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