濫觴のあとかた ~Truth like a lie complex~

九葉ハフリ

プロローグ

0/ 井戸に黒百合を散らしたのはだれ?

 十二年前の四月某日。

 N県東部に位置する上根かみね市は、どこにでもありふれた地方都市の一角だ。

 その日も気持ちのよい快晴が広がっていた。春の曙光が昼を迎えた頃でも心地よい風を行き交う人々の下に運び、市の心臓部にあたる上根駅前にはまさしく和やかな日常が流れていた。


 しかし、街の風景は突如として一変した。


 固唾を飲むように、北口前広場に人々の視線が集中する。

 戸惑いと騒めきの渦は、空模様に呼応するかのようであった。

 にわかな雨雲の誘い。

 重々しく影を落とす鈍色の天蓋。

 じくじくと歓喜の声が、堰を切って迸った。


 それは、黒い酸性雨だった。


 大粒の黒い雫は広場を中心にして、直径一キロ範囲に降り注ぎ、地上に斑点の惨状を穿つ。

 十分以上にも及ぶ災いは容赦なく、人を溶かし、草花を枯らし、建物を腐らし、街を覆い隠し──甚大な被害を齎した。

 雨ざらしであった頭皮は髪諸共に焼け爛れ、悲鳴をあげる者が後を絶たず、ビルやアスファルトの道は蜂の巣のように無数の穴を空け、見るも無惨な有り様だった。

 重症者は五百人弱、軽傷者はその倍にまでのぼり、黒い酸性雨に見舞われた半数以上、およそ市の人口の百分の一ほどが直接的な被害に遭ったとの報道がなされた。


『まるで、神懸かりのようだった』と駅の軒下から事の経緯を撮影していた男が恍惚とした笑みで友人達に語ったという。

 それこそまるで、人が変わってしまったかのように……。

 男の撮影した映像には喉仏を掻き出す男の姿が映されていたが、世間はさながら巨大な波に押し流され、黒い酸性雨の話題と、その後の騒動に人知れず呑まれていった。

 その映像を撮影した者は次の日の早朝、自室にて首を吊って亡くなったことが母親の通報によって発覚する。


 黒い酸性雨という人知を遥かに逸脱した現象を契機に波及していく謎の自殺、暴行や殺人といった突発的な犯罪。

 このような事例が短期間のうちに立て続けに頻発し、影響が県全土に及ぶと、治安機構は一時的な麻痺を余儀なくされた。


 天使が気紛れにラッパを吹いたような荒唐無稽な二次災害は、後に“シャドウ喚起性障害”や“エコースプレッド現象”などの名称で知られる事になり、それを境に、人々の変質は始まり──そして、水面下に終息を迎えるようだった。


 新たな時代の幕開けとも影で評された、終末未遂の春日和から時が経ち……。


 年々人口が緩やかに減少していくばかりのN県並びに上根市の現在。

 営みは、着実に元へ戻りつつあった。

 上根駅北口周辺部においては、再開発と託けた復旧の白壁が一部の景色を単調に染めつつ、あたかも貧富の差を晒し上げるかのように、対照的に風化した廃墟ビルが通りのそこかしこに点在し、市の新たな観光資源たるアーケード街が出来上がっていた。

 人間、いつまでも一過の後遺症の脅威を引き摺る事はできない。ただ、人付き合いに対してほんの少し臆病になっただろうか。いつ何のきっかけで気が狂れるかも知れない隣人とは、関わり合いになるのも億劫となる。

 市全体が村落の如き閉塞的な空気感に、かろうじて落ち着きを取り戻しながら──しかし、極所的かつ広範囲に散発する異常犯罪は依然として撲滅の目処もたたず、表面的な解決と後手の捜査に終始し、朝の凡ゆる場面で飾る事件の報道は、たわいない日常と化していた。

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