なりそこないの獣
乃東 かるる@全快
第1話 パンと砂と、ありがとう
この世界には、獣がいる。
人を喰らい、その姿を奪う。
人の形をしていても、それは人ではない。
――
ここは、聖都ノクスファーンの下層区。
高い壁の向こうにそびえる上層の白い大理石の教会や尖塔は、ここから見れば遠い幻のようだった。石畳はひび割れ、壁は煤け、空気はよどんでいた。昼なお暗い路地裏を、ひとりの少女が白パンを抱えて歩いていた。
名をシエラ。
貴族の娘にして、下層で配給活動を続ける慈善家。
貧しい者に平等に施しを与えるその姿から、人々は彼女を「ノクスファーンの聖女」と呼んでいた。
「……シエラお嬢様。今日も、ありがとうねぇ……私なんかに……」
よれよれの布を纏った老婆が、手を差し出す。
手の甲には骨が浮き、皮膚は干からびている。それでも、彼女の声には礼の心が宿っていた。
シエラは微笑み、パンを差し出した。
「どうか気になさらないで、少しでも力になれたなら、嬉しいです。おばあちゃん朝晩冷えますから後で新しい毛布もお持ちします」
どんな相手にも分け隔てなく接するその姿は、まるで生まれつきそう育てられたかのように自然だった。
配り終えるたび、シエラはふと周囲を見渡す。
何かを探しているようだった。
そして、その足はまた別の路地へと向かう。
さらに奥。地図にも載らぬ、廃屋のある一角。
そこに、彼女がもうひとつだけ残しておいた白パンを携えて。
そこに、少年がいた。
十歳ほどだろうか。やせ細り、言葉も発せず、名前も告げない。
誰とも話さず、仲間もおらず、ただ廃屋の影にひっそりと潜む。
初めて彼を見たとき、シエラは声をかけた。
「こんにちは。……おなか、空いていませんか?」
少年は何も言わなかった。ただじっと見つめ、パンを見て、小さく頷いた。
シエラは笑ってパンを差し出し、その日から、彼女は毎日そこを訪れるようになった。
最初は食べるだけだった。
シエラは気まぐれに歌を歌った。彼は黙って聴いていた。
ある日、シエラはしゃがみ込み、砂地に指で文字を書いた。――文字を、ゆっくり、丁寧に。
「言葉が難しければ、書いてみましょうか。私、教えますから」
少年は無言で、それを見ていた。
けれど翌日、彼は砂の上に、震えるような指で一文字だけなぞった。
その翌日には二文字、そして三文字。
やがて、それは綴られた。
「ありがとう」
不格好で、歪で、でも確かに伝わる、五つの文字。
シエラはその場で涙ぐみ、そっと手を握りしめた。
「……あなたからいただいた『ありがとう』は、今までで一番嬉しいわ」
少年は、ぎこちないながらも微かに笑った。
やがて陽が傾く。
シエラは帰路につくが、心は軽かった。
たったひとつの言葉が、少女の心に温かな灯をともしていた。
けれど。
その廃屋の向こうには、誰も知らぬもうひとつの現実があった。
夜が来る。闇が濃くなる。
少年は、静かにひとり、砂に文字をなぞっていた。
「ありがとう」
それだけを、何度も、何度も。
彼の瞳は、どこか熱に浮かされている。
歯を見せずに笑う口元は、人間のそれと、どこか違う。
「ア」「リ」「ガ」「ト」「ウ」
繰り返すたび、文字のかたちは乱れ、砂は乾いて崩れていく。
けれど彼は、それでも書き続けていた。
何度も。何度でも。
それしかできないから。
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