第12話 恐ろしい面相
『カツん────』
小さな音が今、木目の上へとかるく落ち、さっきまで互いの舌と舌を結び合っていた小さな塊が、赤く濡れて、そこに黙り佇む。
静まる壇上で、寄せ合っていた体は、離れた。
重なり合っていたスポットライトの光が遠ざかる足音に移ろい、絡まっていた二人の影を分かつ。
「私の舌を噛むなんて。悪いことを、ふふふ」
「だっ、誰だ……オマエ……」
「ふふふふふ」
舞台衣装のベージュのコートを羽織る。後ろへと突き飛ばされた美しき化物は、垂れ下げた舌先に滴る赤い水滴を平手にゆっくりと拭いながら、微笑う。すすり嗤うその行為を抑えられない。なおも静かにそこに突っ立ち、その存在はワラいつづけている。
後ずさった彼は、未だ痛み痺れるその舌で言を放ち、それが誰なのか問うていた。しかし答えは見つからない。探偵役の衣装を見に纏い不気味に笑う柳しおりの面相がそこにあるだけだ。何故そんなことを咄嗟にも問うてしまったのか。彼は動転し震える己の黒目を凝らしていた。するとアメジストのようにミステリアスで、妖しい紫の眼、艶めく爽やかな黒髪のショート、その月光のような白肌、長くてしなやかなその指つき、柳しおりという人物を構成する美しきそれらがどこか、今は合わぬそれぞれの欠片をかき集め合わせたように、どこかチグハグに映って彼の視界に不快にぼやけて見えた。
「……!」
紫の眼光、吊り上がる口角、あやしい佇まい、まるで面相の定まらない〝混沌〟に、じっと見られている。金閣寺歩は背筋まで凍らせるような目の前の冷たく歪な視線を嫌い、訳も分からずにその場を駆けて逃げ出してしまった。
駆けてゆく、駆けてゆく、ソイツから背を見せ、舞台袖の中を急ぎ脱してただただ出口を求めていく。
やがて、息を切らしいつしか躍り出た暗中に、突然、天から光が差し込んだ。
眩しい、その目を開けると──なぜかまた同じ壇上の舞台にもどってきている。気味が悪くて見たくもなかったソイツが、舞台上でさっきと同じように笑っている。
「……!? ……くそッッ!!!」
対面した再度付き纏うソイツの絡みつく眼差しに、ゾッと肝を冷やした金閣寺は、鬱陶しい視線を顔を振り切り払い、もう一度舞台袖を引き返し急ぎ逃げていく。
しかし、再び暗中を抜けた先は────今度は校舎の中になぜか迷い込んでいる。穏林高校の校舎とは直接繋がらない別館の体育館から外へと確かに繰り出したはずなのに。しかも、彼が迷い込んだこの校舎は、窓の大きさ、教室の扉、褪せた床の色、鼻腔に流れるカビ臭い空気──ありとあらゆるところまで、彼の知らない雰囲気、彼の知らないものであった。
明らかに穏林高校とは異なる様相と気味に、駆けていた金閣寺歩はその足を止め、得体の知れない恐怖の只中に、怯え立ち止まっていた。
『なにをそんなに恐れている、きみは。せっかく繋がれたというのに』
いきなりどこからか聞こえた声に、金閣寺は前後左右、狼狽えるように確認するが誰もいない。
『きみをとめたい、きみを誘いたい、きみを支配するその恐怖を
頭に念仏のようにヤツの声が聞こえる。頭が痛い、思考がまどろむ。茶髪を掻きむしっても、纏わりつくその声と実態のない気配を振りほどけない。
囁くように流れつづける妖しげな声に、おかしくなりそうな頭をかかえながら、金閣寺はふらつく体を引き摺るように歩いては、どこかへと逃げようとする。
すると、向かっていた暗がりの廊下から雨音が聞こえた。
ぽつ、ぽつ、ぽつ────
速まる音は外の雨足ではない。反響する縦横無尽に跳ね回る音の正体が、暗がりの向こうから彼の目に怒涛のように流れ込んできた。
碁石を打ちつけるような音を重ね立て騒ぐ、廊下の窓、天井までを打ち鳴らし跳ね回る数多のボタンの風が、押し寄せてきた。
金閣寺は慌てて進んでいた道を引き返す。そして見えてきた曲がり角へと、走るその身を転がり込むように流れた。
イナゴのように大量で押し寄せた、けたたましい音が廊下の行き止まりの壁にぶつかり鳴り響く。
青い段差を勢い余り転がり落ちていった彼は、階段の踊り場の壁へと衝突した。
壁にぶつかり痛む後頭部を抑えながら、鳴り止んだ上階の音に、恐怖と緊張で詰まっていた息をやっと吐く。
何も分からずただ押し寄せてきた恐怖の集合体から彼はただただ条件反射するように必死に逃れた。階段を落ちていった膝や、体、全身の痛みが、べったりと床に座り吐く落ち着かないその呼吸音と共に、鈍く引いていく。
冷たい壁際にもたれ、青い床の踊り場に座り込んでいた金閣寺歩は、まだ鬱陶しくも尾を引く体の痛みと酷い頭の酔いに、ぼやける己の意識をそれでもなんとか取り戻していく。
やけに、右肩側が重い────
身を潜め休めていた金閣寺はそっと、今、気になった自分の身の右方に視線を下げた。
その本来赤い右肩には、びっしりと知らぬボタンたちが縫い付いていた。
『チカチカチカチカチカ……』
嗤うようにイマ蠢きざわめいた、赤袖を覆い隠すほどのボタンの集合体に、彼はその力ない目を見開いた。
男の情けない悲鳴が、褪せた青い階段に、叫びこだました────
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