第7話 願い



図書館の休憩室。

カップの底をコツンと机に打ちつける音だけが、静寂を切った。


澪はそのまま、カップを見下ろしていた。


「……芹沢さん?大丈夫ですか?」


隣の机にいた後輩の佐久間が声をかけてきた。

気遣い、というよりは、遠巻きな確認のような響き。


「……大丈夫です」


小さな声で答えたつもりだった。

けれど声が少し、かすれていた。



---


先ほど、また“言っていないことを言った”ことにされた。

一昨日の会議で、

「芹沢さんが“優先すべきは児童書”って言ってた」と別の同僚が話していた。


澪は、そんなことは言っていない。

その日は発言すらしていなかった。


でも、同調するように数人がうなずいた。

「うんうん、言ってたよね」「そういう話になってたと思う」


違う。

澪はその日、ただメモを取っていただけだった。



---


「……ねえ、なんでみんな、私が言ってないことを“言ってた”って思い込むの?」


唐突に漏れたその言葉に、

佐久間は驚いたように目を丸くした。


澪は気づかなかった。

自分が声を上げたことに。


「私、黙ってることの方が多いのに……。私、誰かの代わりに言い訳してるみたいになってる……。なのに……」


言葉が止まった。

喉が焼けるように熱い。

心臓が、指先に移ったように震える。


「……もう、何も言いたくない。

言えば言うほど、また“違う意味”にされるから。

でも……でもね……」


コーヒーのカップが、手の中で揺れていた。


「わかってほしいって、思ってしまったんだよ……」


その最後の一言だけが、佐久間の耳に届いた。

それは、怒りではなく、悲鳴に近い呟きだった。



---


その日、澪は早退した。


部屋に戻ると、照明をつけずにソファに倒れこんだ。

暗闇の中で、ひとつひとつの過去の“勘違い”が、

まるで映画の予告のように短く再生される。


→「芹沢さんがそう言ったって」

→「そういう流れになってたよね」

→「まあ、誰でも勘違いするって」


澪の心は、正確さに縛られていた。

“全部、ちゃんと覚えている”のに、

“誰にも通じない”ことが、

声にならない悲鳴として、内部で反響していた。



---


> ——わかってほしい。


でも、わかってもらえるはずがない。


その矛盾を、ずっと一人で抱えていた。





---


眠りにつく前、

澪はスマートフォンを取り出して、

自分あてに短いメモを書いた。


> 「私は、確かに覚えている。


だから、ここに記しておく」




それは、自分を信じるための“唯一の記録”だった。





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