第6話 記憶のさざ波

 別れ際に樫木先生が

「体調は良くなった?」と聞いた。

「今日は…すみませんでした。ちょっと体調が悪くて。でも…弟さんの話のせいじゃないです。先生のせいじゃなくて」

 そう言えば、私は樫木先生の弟さんの話を遮ってしまっていた。

「どうして謝るの?」

「え?」

「君は何も悪い事してないじゃない」

 その一言が心に沁みる。

「…あ」

 涙が断りなく流れて、止まらなくなった。慌てて鞄を探るが、慌てているせいでハンカチが見つけられない。もたもたしていると先生がハンカチを差し出してくれた。緑色のタータンチェックの柄のハンカチだった。

「それ、あげます」

 思わず樫木先生を見上げる。

「変な話してごめんね。どうしてか佐々木さんに話したくなって」

「私にですか?」

「うん。なんでかな…。優しいから?」

 そんなことを言われて、私は驚いた。

「私、特になにも…」

「まぁ、そう言う感じだよね。何気なくコーヒーを淹れてくれたり…。ちょっと甘えてしまった」

「そんなことぐらい誰だってできますし、話しだって…誰だって」

「案外ね、話を聞くっていうのは才能が必要なんだよ。君には…なんかどうでもいい話とか、情けない話を聞いてもらいたくなる」

 初めて言われた言葉にいつしか涙も止まっている。

「君の方がうんと年下なのにね」と言って、樫木先生は笑った。

 初めて誰かに頼りにされたというのは嬉しいし、今までに感じたことのない高揚感がある。

「先生が…そう言って下さって、私も嬉しいです。友達も…上手く作れなかったから」

「そっか。じゃあ…。僕と友達になってください」

 それは不思議な魅力を持って私に降り注ぐ。

 樫木先生が柔らかく笑うから、震える声だったけど、返事をしながら私は何度も頷いてしまった。


 晩御飯を一人で食べることに決めていたから、私は駅前のカフェでたらこレモンバターパスタを注文した。店内は一人でご飯を食べている女性も多くて、私も安心して駅が見えるカウンター席に座る。ふいに黒いカーテンを見てしまったけれど、今日、樫木先生に言われた言葉が嬉しくて、何度も頭の中で繰り返す。

 今度会ったら、樫木先生の弟さんの話をちゃんと聞こうと思った。

『もう大丈夫かな』

 不意に声がして、私は振り向いた。

 一瞬、何かが記憶を掠める。

「隣、いいですか?」

 松葉づえをついた、肩幅の広い男性が立っていた。その横にももう一人男性がいる。

「あ、どうぞ」と私は鞄を自分の膝の上に置いた。

「怪我してしまって。この高さは座りやすいんです」と言って、隣に座る。

「夏の試合…出られなくて残念だけど」と話し始めたから、私は自分のパスタに視線を落とした。

 今、何かが記憶に触れた。

 でももう風に飛ばされたように消えてしまった。

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