第4話 普通

 家に帰ると伯母がご飯を用意してくれて、静かに待っていてくれる。伯母が怒ったのを見たことがない。

「ただいま」

「おかえり」

 伯母が私を育てる義理はないのに、と思いながら、私達はお互いずっと遠慮しながら暮らしている。私が遠慮するのは当然だが、なぜ伯母が私に遠慮しているのかは分からない。

「ご飯できてるから」

「はい。すぐに来ます」と言って、私は手洗いとうがいをする。

 伯母は公務員で市役所に勤めている。仕事をしながら、私の面倒を見るのは大変だったと思う。私もなるべく伯母の手伝いをした。帰ってくるまでにお風呂を沸かしたり、洗濯物を取り込んだりした。お互いに距離があるから、喧嘩もしなければ、笑い合うこともなかった。ただ淡々と日常が繰り返される。

 まだ耳が悪い頃は、伯母が仕事でいない時間、あの人の声がした。

『空ちゃん、勉強、頑張って、偉いね』

「うん。たくさん頑張って、それでいろんなこと知りたい」

『そっか。偉いね。空ちゃんなら、できるよ』

 あの人の声だけが柔らかく、私を受け入れてくれた。安心できる声が聞こえることを変だとは思っていなかった。半分、私の妄想だと思いながら、彼との会話を楽しんでいた。

「テスト百点欲しいのに、なかなか難しいよー」

『頑張れ、頑張れ。次はいけるよ』

「そうかなぁ」

『空ちゃんならできる』

 伯母にも言わないようなことを私は彼の声と話していた。そうして心の平穏が保たれ、少しずつ私の耳は回復していった。

 彼の声はもう遠くなった。

 伯母さんが

「空ちゃんの耳はよくなったけど…」と私を見て言う。

 クリアな世界で聞きたい音もたくさんあった。でも聞きたくないこともたくさん聞こえた。伯母さんの家は地元ではなかったから、事件のことを言われることはなかったが、本当の親に育てられていないということで、あれこれ言う人達がいた。

 その人達にどう接するのがいいのか分からなくて、私は人と距離を置くようになった。ずっと一人で生きていくのだと思っていたのに、最近になって、少し変わった。

 心太が初めて声をかけてくれた。そして樫木先生も。大学に入っても変わらず一人だと思っていたけど、思いがけず関わりを持ってくれる人達がいた。

 それが少し嬉しかった。

「伯母さん…。大学行かせてくれて、ありがとう」

 驚いたような顔で私を見た。授業料はお金は父が出してくれているらしい。それでもそこまで私を育ててくれた伯母には感謝しきれなかった。テーブルの上には夕ご飯がある。用意してくれた中にはスーパーの総菜もあった。インスタントの味噌汁も添えられている。それでも伯母が私のために用意してくれたものたちが並べられている。

「…空ちゃん」

 いつも物静かな伯母の目から涙が流れた。

 そして思いもがけない言葉を聞いた。

「ごめんなさい。…ごめん…」と手で顔を覆った。

 謝られるなんて思いもしなくて、私は驚いた。

 でもそれ以上は伯母は何も言わなかった。

「謝らないでください」と言ったら、首を横に振られた。

 並べられた料理がぼやけてくる。

 私はここにいない方がいいのではないかと思えた。伯母にとって私がいることが重荷なのではないのか、とふと思った。

「私…、明日、晩御飯、友達と食べてくるから…ごめんなさい」

 私もなぜか謝った。

 晩御飯の予定なんて、なかったけれど、一人ででも何か食べて帰ろうと思った。伯母は立ち上がって、ティッシュで涙を押さえると、ゆっくりと頷いた。


 翌日、私は少しおしゃれをした。樫木先生とお昼を食べるのだから、と思って、でもそれでおしゃれをするのはおかしいかな、と思ったが、自分が着てみたかったのだから、結局、そうすることにした。

 伯母はもう仕事に出かけている。私も用意が出来次第、家を出た。伯母がどうして謝るのか分からないけれど、私は早く家を出た方がいい気がする。

 電車の中にいろんな人がいて、私はその人たちがどんな気分でいるのかは分からないけれど、そんな彼らになりたいと強く思ってしまった。

「…普通が良かった」

 そう母が言った言葉が今になって身に沁みた。

 事件の記憶らしい記憶は真っ黒だった。瞳を閉じたのかもしれない。それでも瞼を下しただけでは、真っ暗にはならない。明るさも感じられるはずだ。だから違う。少しの光もない真っ黒だった。ただそれだけが記憶に残っている。

 だから黒が苦手だ。

 喪服も嫌いだ。

 電車から降りて次の電車に乗り換える。夜は何を食べて帰ろうかな、と思いながら、新しい電車に乗る。事件のことは考えなくていい。そう父の声がする。

 それはきっと小さな私が受け入れがたいことをされたのだと今は分る。消えた記憶を掘り起こしていいことなんてきっとない。特に、生きづらいような症状が出ているわけでもない。事件の記憶だけが抜けているというだけで、普通に生活できている。

 嫌な記憶は眠ったままでいい。自分が覚えていないということは起こらなかったこと同じだ。

 ただ伯母さんが泣いたから、胸がざわつく。

 伯母さんが事件に関係していたとは思えないけれど、何かあるのだろう。

 そんなことを考えていたせいか、気難しい顔になっていたようだ。樫木先生に会った時

「どうかしましたか? 昼食は嫌でしたか」と聞かれた。

「いえ。どこで食べるのかと…気になってしまって」

 樫木先生は笑いながら

「申し訳ないですけど、学校の近くですよ? フレンチの素敵なお店というわけではないです」

 私は少しおめかししている自分が恥ずかしくなった。先生はいつもと変わらない。麻のスーツを着こなしている。背も高く、肩幅も広いから、もちろん一歩の大きさも違う。私はちょこちょこと急いで先生の後をついて行く。大学を出て、数分で辿り着いたお店は中華料理だった。真っ赤な壁に黒い家具でおしゃれなお店であったが、ランチは手ごろな価格だった。

「昼は安いので気にせず好きなものを注文してください」

 ランチメニューからチンジャオロースの定食を選んだ。

 樫木先生は酢豚定食だった。席につくなり、バイト代を渡してくれた。

「八月もよろしくお願いします」と先生から言われて、慌てて頭を下げる。

「こちらこそ、頑張りますので」と言いながら、受け取る。

「パパ活に見えるかな」と言うから、私は目を大きく開ける。

 そんなつもりはなかったけど、確かにお金を頂いてるから、傍から見たらそう見えてもおかしくはない。

「先生はパパ活とか…しそうに見えないですけど」

「なら、良かった」

 大きな体が左右に揺れて、安心したように笑う。少し気づまりな、でも少し面映ゆい昼食が始まった。

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