第2話 私の日常
心太は自分の名前が嫌いで、好きだと言う。プールの後、ベンチに腰かけて、自動販売機のアイスを並んで食べた。
「心太って漢字がところてんって読むからさ、そのまんまあだ名になって」
「そっか」と私は地面を見つめる。
「でも学のない親父がさ、心に太いものがあればいいってつけた名前なんだって。ところてんって読むって知らなかったって」
アスファルトの影が少し長くなる。それでも気温は高いから慌てて私はアイスを舐めた。
「だから…なんか…。自分の名前が嫌いで…でも嫌いになれないんだよ」
私に空という名前を付けてくれた時、両親は笑っていただろうか。
「いい名前だと思うよ」と私はそう言った。
「空は…いい名前だな」
「うん」
私は自分の名前が嫌いじゃなかった。アイスを必死に舐める振りをして、話さなかった。心太にはきっと想像もつかない私の家族の顛末を知られたくなかった。
「そう言えば、音さんと連絡は取らないの?」
「うん。忙しいと思うし」
音さんはエリート社員として働いているという設定だ。
「いつか…会うつもり?」
その言葉に私は適当な、ありきたりな言葉を返す。
「大学…卒業したら、行こうかな」
心太は少し動きを止めて、軽く笑う。
「そっか」
否定も肯定もしない。私のいい加減な言葉を流してくれた。どうして心太が私と一緒にいるのか分からないけど、でも少しだけ心太も淋しさを抱えているような気がした。それはなんとなくだけど。
一生懸命に舐めていたアイスだけれど、容赦なく垂れてくる。結局、手をベタベタに汚して慌てて食べた。トイレで手を洗って、駅に向かう。
「晩御飯…」と心太が誘ってくれた。
「あ、えっと。ごめん。お金なくて」
「そっか」
私は伯母さんが用意してくれたご飯を食べなくてはいけない。晩御飯がいらない場合は朝から伝える約束だった。
「…ありがとう」
「え?」
「誘ってくれて。バイト…しようかな」
「あ、うん。俺も居酒屋でバイトしてるけど」
「探してみるね。それで…お金が溜まったら行こう」と言うと、心太が笑った。
それでも
「待ってる」と言ってくれたから、優しいなと思った。
バイトはすぐに決まった。ゼミの樫木先生のお手伝いだった。大学の隙間時間にできる上に、人と話さなくていいのだから、気が楽だった。時給も悪くない。
「佐々木さん」
「はい」
コピーを頼まれたら、事務室でコピーをするし、樫木先生が授業中に私はこっそり準備室で居眠りすることもできる。ただ実働時間をちゃんと申告するので、居眠りした時は申告しなかった。
「真面目ですね」と樫木先生に言われた。
「居眠りしてましたから」
「じゃあ、これを三部ずつ分けてください」とどっさり資料を渡される。
樫木先生は歴史の先生で、私はその科目は苦手だったけれど、大きな体で、思い切り体を使ってする授業は楽しかった。先生の授業を聞いて、興味が持てるようになったから、ゼミに入った。でもみんな歴史に詳しい人ばかりで、私は浮いていた。何を聞かれてもさっぱり知らないことばかりだった。
浮いているからか、先生は私に声をかけてくれた。
「佐々木さん、バイトに来ませんか?」
「え?」
ちょうど、バイトを探そうとしていた時だったから、何も聞かずに頷いた。でも後から考えると、あまりにも分からなさすぎる私の指導も考えてのことだった。
「その資料読んで分からないことあれば言ってください」
分からないことだらけだとは言えずに、私は自分で調べて、少しずつ知識を広げていった。みんなの言ってることがなんとなく理解できるようにもなっていった。
樫木先生がコーヒーを淹れている。
「どうして佐々木さんは歴史を学ぼうと思ったんですか?」
「あ…すみません。なんか…知識ないのに」
「いえ。いいです。知識なくても学ぼうとする姿勢はいいことですから」
私にまでマグカップを渡してくれる。本当は紅茶の方が好きだけれど、そのまま受け取った。
「牛乳いれますか?」
そう言われて、私は大きく頷いた。準備室に置かれた小さな冷蔵庫から牛乳を取り出してくれる。
「先生の…授業が面白かったので…もう少し…理解を深めたいと思いまして」
「コーヒーのおかげでお世辞をもらったかな」
「そうじゃなくて…。でも先生はどうして歴史のことを学ぼうと思われたんですか?」
「ひいお祖父さんが戦争に行って…帰って来なくなって」
私は思わず息を飲んだ。
「いや、生きてたんだけどね。南の島に行って、戦争して、その間に現地の女性と家庭を持って…。日本に家庭があるのにね」と言って笑った。
「それで…帰ってこなかったんですか?」
「うん。帰って来なかった」と言って、柔らかく笑う。
樫木先生のお祖父さんは現地で暮らして、農業を教えたり、絵を描いたりして、現地の人たちと仲良く暮らしていたようだった。戦争がなければ、また変わっていたかもしれない、と思って、歴史を学ぶようになったと言う。
「歴史を学んでいるとね…。不思議なんだけど、その時に起こるべくして起こったような気がしてしまうことがあって…。あの時、違ってたらっていうのはないのかなって思ったり。でもこれからは変えられるからね。歴史を学んで未来に生かしてください」
「はい」
素直に私は頷いた。樫木先生は身体も心も大きい。だからか私は安心できた。時々、勉強して、時々、お仕事して、そして時々お昼ねをする。誰にも会わない隙間時間は私には居心地が良かった。
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