第一章 奈落 3,4

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 カーテン越しにも空が明るいのがわかる。雪が降り積もると、日の出に間があっても外が明るくなる。

 雪はかなり積もったのだろう。今日は雪かきに汗を流すことになりそうだ。

 そう考えると同時に、この朝が雄大のいない朝であることを思い出す。胸を掻きむしられるような喪失感で息が詰まる。雄大を思う気持ちが、体の中から溢れ出て、行き先を失って奈落の底に落ちて行きそうだった。

 そんな馬鹿な。あり得ない。

 比奈子は布団の襟を口元に引き寄せ、力一杯噛みしめた。

 今日だけじゃない。明日も明後日も来年も再来年も、この世界は雄大のいない世界なのだ。パンデミックでも変わらなかったのに、こんな空虚な意味のない世界に変わってしまった。

 そんな馬鹿なことがあるか。

 大声で叫びたかった。

 身も世もなく泣いて声が枯れるまで名を呼び続けたかった。

 だが比奈子は、ゆっくりと起き上がった。身支度をして階下に下りていった。父も母もまだ起きていなかった。

 ストーブを点けるとダウンのコートを着て、軍手をはめ外に出た。

 天気予報のとおり夜のうちに大雪が降ったようだ。一面が降り積もった雪で、こんもりとした雲の絨毯の中にいるようだ。車の上も門扉の上も物置の屋根の上も、綿帽子と言うには大きすぎる雪の塊が載っていた。

 その雪塊に朝日が差して、雪の粒を虹色に燦めかせていた。

 比奈子はまぶしさに目を細め、オレンジ色の雪かきスコップを手に取った。

 隣家の玄関ドアが開いて、顔見知りの主婦、ふもと美千代みちよが出てきた。雪かきをするらしくオーバーを着込み、スコップを手にしていた。

「おはようございます」

 比奈子が挨拶をすると、麓は驚いたように身を引いたが、すぐに笑顔を作って、「おはよう。降ったわね」と返してよこして、さっそく雪かきを始めた。

 以前ならここで少し立ち話をしたものだった。お父さんのお仕事は忙しいの? それはいい事よね。暇なのよりはずっといい。でも体に気をつけなきゃね。雄大くんは元気? 高校生になったら忙しいのね。ちっとも顔を見ないわ。そんなとりとめのないことを麓のほうから言ってくる。

 子どものいない麓夫婦は、比奈子や、とりわけ雄大のことを自分の子どものように、とまでは言わないが、隣の家のおばさんとしてはずいぶん可愛がってくれた。大きくなってしまったのが残念なのか、昔の話ばかりをするのだった。

 だが雄大のことがあってから、白石家の家族とは、あまり顔を合せないようにしているのがわかる。

 それはそうだろうとも思う。葬式が終わったばかりの頃は、お悔やみを言いに来てくれたし、四十九日にはわざわざ線香をあげに来てくれた。だが、道で会ったときになにを言ったらいいかわからず、居心地の悪さを感じているのが比奈子にもわかった。

 麓が雪かきをする音が、ザクッ、ザクッと聞こえてくる。

 気まずかった。

 比奈子は足もとの雪にスコップを勢いよく突き立てた。ザザッという音と共に、湿った雪の粗い感触が腕に伝わった。スコップを抜いて左右にコの字型に刃先を入れる。四角く切り出された雪を手前からすくうと、ずっしりとした雪の重みを感じた。

 雪は降ったが、いつもの年よりも気温が高いので雪が重い。寒い朝なら、すくい上げた雪はさらさらとこぼれ落ちるのだ。

 比奈子はまるでコンクリートブロックのような四角い雪を、春になればマーガレットやペチュニアを植える花壇の上に投げ捨てた。

 ぽっかりと空いた穴の隣に、また同じようにスコップを刺して雪を切り出し投げ捨てる。 それを何度か繰り返すうちに体が温まってくる。

 比奈子は一心不乱とも言うべき心境で、黙々と雪かきをした。額の汗はすぐに冷えてどこかに行ってしまうが、背中の汗は服の中でするりと線を描いて滑り落ちた。

 雪かきが終わる頃には、全身にびっしょり汗をかいていた。

 いつの間にか麓美千代の姿はなくなっていた。

 比奈子は家に入り、玄関脇のコート掛けにダウンを掛け、居間に入った。

 暖房のきいた室内の空気に、汗がさらに噴き出す。

 母はリビングのテレビをチラチラ見ながら朝食の支度をしていた。

「倶知安とか、これからまだまだ降るみたい。嫌ね」

 だし巻き卵を皿に盛り付けながら眉根を寄せる。

 母は表面上、以前の母を取り戻したように見える。もちろん比奈子と同様、常に雄大のことが頭を離れず、悲しみに覆い尽くされた日々であっても、以前のように心配になるような危うさは見られなかった。

 こうして番組がニュースになっても、チャンネルを変えることがなくなったのが比奈子には嬉しかった。

 父が二階から降りてきた。父は白石設備工業という小さな会社を経営している。社員は四人で、電話番と経理を担当する女性が一人と、三人の現場作業員がいる。主な仕事はビルのメンテナンスで、ボイラーの修理やエアコン取り付けなどをするらしい。父もよく現場に出て作業をするのだが、出勤するときはいつもきちんとスーツを着ていて、会社で着替えるらしい。

 父は、雪の積もり具合を見るためか、掃き出し窓に掛るレースのカーテンを少し開けた。

「雪かきしてくれたのか」

 と比奈子を見る。比奈子がうなずくと、「ありがとう」と微笑んだ。

 父に「ありがとう」と言われると、比奈子はいつも嬉しいような悲しいような気分になる。自分を気遣ってくれる優しさと、どこか消し去れないよそよそしさを感じるからだ。

 父は食卓について食事を始めた。母と比奈子もいつもの場所に座って箸を取った。

 会話はなかった。この先も、ずっと自然な何気ない会話は、家族に訪れないような気がした。

 父を送り出し、母と分担して家事をすませる。掃除機をかけ終わった母は、ソファに座ってぼんやりとテレビを見ていた。ひどく疲れた顔をしている。雄大の死以来、母の体力は落ちていた。

 比奈子は緑茶を二人分いれて持っていった。

 隣に座り、湯飲みを渡す。

「ありがとう」

 母は受け取ってそう言った。さっきの物思いがよみがえる。そういえば母もよく、「ありがとう」という人だ。父の「ありがとう」だけが気にかかるのは、自分に屈託があるからだろうか、などと考えながら母と一緒にテレビショッピングを見ていた。芝生の庭にテーブルとバーベキューグリルが並んでいる。赤いエプロン姿の父親が満面の笑みで肉を焼いている。おそろいのエプロンをつけた子どもたちのはしゃぐ声。母と娘が、トングを手に楽しげに笑い合っていた。

「樹くん、とうとう来なかったわね」

 バーベキューをする家族に触発されたのか、母はぽつりと言った。

 大学を卒業してからアパートで一人暮らしを始めた樹は、ほとんど家に寄りつかなかった。それでも家族の誕生日とクリスマス、年末年始は家に帰ってきていた。それは、どうやら雄大がその都度電話をかけて、樹に家に帰って来るように促していたらしい。

 それを知ったのは二年前のことだ。クリスマスに帰って来た樹が、「まったく、この年でクリスマスでもないんだがな」とぼやいたのだ。

 毎年律儀にやってくるので、すっかり樹が自分の意志で来ているものと思っていた。顔には出さないが心の中では家族の温かさに飢えていて、やはり母の作ったケーキが食べたいのだと。

「だってさ、せっかくのクリスマスなのに兄ちゃんがいないなんて寂しいじゃん」

 雄大が照れもせずに言う。

「それに結構楽しんでるよね。やっぱ家はいいなあって思ってるんでしょ?」

「雄大が毎度毎度、絶対帰ってきてって言うから仕方なしに来てるんだよ。俺だっていろいろ忙しいんだよ」

「だけどさ。彼女は料理が下手なんでしょう? たまに帰ってきてお母さんの料理が食べられて嬉しいんじゃないの?」

 樹に彼女がいるというのは初耳だった。雄大にはそんなことまで話しているのが驚きだった。

「まあな」と樹がまるで気持ちの入っていない返事をする。

「彼女いるんだ。どんな人? 写真見せて」

 比奈子がせがむと、意外にも樹はすんなりとスマートフォンを取り出して、画面を比奈子に向けた。

 樹の恋人はボブカットの髪をやや明るめに染めた、顔の小さな都会的な人だった。こちらに向かって微笑みかけている両頬にえくぼがある。

「素敵な人ね」

「そうか?」

 樹は恥ずかしそうに目をしばたたいた。

「名前、なんていうの?」

「夕子」

 空に指で漢字を書いて教える。

「へええ、古風な名前ね」

 比奈子はスマホの画像を見ながら言った。

「年はいくつ? なにしている人? 結婚するの?」

 樹は笑った。

「興信所みたいだな」

 樹は市内の私立大学を卒業し地元の銀行に就職した。高校時代に禁止されているアルバイトをして、停学処分になりそうになったことがあったが、それ以外は比較的まじめで順調に成長したと言える。アルバイトは中学時代の友人の代わりを頼まれた、というものだった。麻生あさぶの飲食店の厨房でアルバイトをしていた友人は、急に出勤できなくなり樹にピンチヒッターを頼んだのだ。飲食店の、しかも夜のアルバイトということで停学処分が相当だということになったが、父が頭を下げて頼み込み、なんとか不問にしてもらったのだった。その時の担任が樹に好意的だったのも幸運だった。

 だからこそ銀行に就職できたわけで、白石家では大喜びだった。特に雄大が我がことのように喜んで就職祝いのパーティーを開いた。

 母がちらし寿司を作り、雄大が鍋を担当した。比奈子はサラダとデザートを作った。たいしたメニューではないが、樹が嬉しそうにこっそり頬を緩めていたのを比奈子は見ていた。

 そういえば比奈子の就職祝いをしようという話はなかったな、と思い出す。比奈子の就職が決まった頃、雄大はどうしていただろう。

「よかったね。おめでとう」と言ってくれたのは覚えている。あれは雄大が自殺する少し前のことだ。雄大に特に変わったようすはなかった。けれども、もしまったく普段通りの雄大なら、比奈子の就職祝いをやろうと家族に持ちかけ、なにかしらの催しを計画したのではないだろうか。あの時にもっと注意深く雄大のことを見ていたら、鬱屈したなにかを抱えていることを見抜けたのだろうか。


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 買物から帰ってくると、母は洗濯物を畳んでいた。相変わらずテレビはつけっぱなしで、時代劇の再放送が流れていた。

「お帰り。今日はなににするの?」

 元気になったとは言え、まだ献立を考えるのが辛いと言うので、比奈子がスーパーへ行き、そこでメニューを考えていた。

「鶏肉が安かったから親子丼。あとキャベツが残ってたでしょう? それを炒めて……。それから、わかめの味噌汁」

 母は微笑んでうなずいている。

 比奈子は母が畳んだ洗濯物を抱え、二階の自室に向かった。

 二階の階段を上がってすぐが雄大の部屋だ。母は雄大のへやだけでなく、子どもたち全員の部屋を毎日ざっと掃除してくれていた。自分でやるからいいと言っても、掃除機をかけるだけだからと三人の部屋を掃除する。

 樹が家を出たあとも部屋はそのままだった。いつ帰ってきてもいいよと、待っているよと樹に知らせたいみたいに。そんなところにも、なさぬ仲の気遣いがあったのだろう。

 洗濯物を自分の部屋の箪笥に仕舞い、部屋を出た。雄大の部屋の前を毎日通るが、開けてみることはない。

 このドアを開けたら、雄大が机に向かっている後ろ姿を見てしまうのではないだろうか。くるりと振り返って、「なあに、姉ちゃん」と言う笑顔を見てしまうのではないか。雄大が死んだことを、毎日あれほど納得しようと努力してきたことが、無駄になってしまうのではないか。そんな恐れがある。

 母がいまだに一階の和室で寝起きするのも、このドアを見たくないからなのかもしれない。

 雄大はどうして自殺してしまったのだろう。何百回も自問しかけて呑み込んできた問いを、ようやく冷静に考えられそうな気がした。

 だれが言い出したのか知らないが、いつの間にか成績が落ちたことが原因だということになっていた。これまではそれで納得しようとしていた。

 しかし、そう信じていたわけではない。雄大がそんなことで死を考えるだろうか、という疑問は常に胸の奥でくすぶっていた。受験までは一年以上あるし、下がったといってもそれほどではない。雄大なら少しの努力で挽回できるだろうと、少なくとも比奈子は思っていた。

 比奈子は雄大の部屋のドアノブに手を掛けた。階下からはテレビの音が聞こえる。時代劇はまだつづいているようだ。

 ドアのノブを回した。

 雄大の葬式以降、この部屋はさながら開かずの間だった。しばらくの間、母は掃除そのものをやめていたし、最近になって再び家事をするようになっても、二階に上がってくることはない。母が掃除をするのは、もっぱら一階だけだ。それで比奈子は、自分の部屋と父だけが寝起きしている寝室を簡単に掃除していた。

 ドアを開けると、わずかにほこり臭い澱んだ空気が頬に触れる。

 やはり雄大はいない。主のいない部屋で、机やベッドや本棚が、記憶の中のままに鎮座していた。

 正面にある机の上にスマートフォンが置いてある。雄大のものだ。マンションから飛び降りたときに身につけていたという。父は業者に頼んでロックを解除してもらった。比奈子も見せてもらったが、メールにもメッセージアプリにも自殺をにおわすようなものはなかった。それどころか、死の直前まで友人たちと普通に遣り取りをしていた。

 比奈子はスマホを手に取った。電源を入れてみたが、バッテリーが切れているようで画面は暗いままだ。

 もとあった場所にそっと戻した。

 机の上の本立てには教科書や参考書が並べて立ててある。ノートやプリント類は机の左端に揃えて置いてあった。その中から適当に選んで、パラパラとめくってみるが落書きのようなものはほとんどない。教科と関係のない書き込みは見当たらなかった。

 引き出しを開けると雑多な筆記用具の他に、お守りや目薬や整髪用のワックスやテーピングテープ、小銭が入った古い財布など、それこそ無秩序に収納されている。

 中段には手帳やフォトブック、ゲームのソフトとコントローラー、そして攻略本が入っていた。手帳はかなり古いものからとってあって、なるべく新しいものを探して開いてみたが、部活のスケジュールや友だちとの約束の日時などが書いてあるだけだった。フォトブックはおもにバスケットボール部の試合やレクリエーションの写真だった。どの雄大も屈託のない笑顔なので、比奈子は思わず泣きそうになる。

 フォトブックを閉じて一番下の引き出しを開けると、ファイル類とスポーツ関連や男性用のファッション誌がぎっしりと詰まっていた。ファイルの背表紙にはなにも書いていないので一冊ずつ取り出して中を見る。模試の過去問と成績表、部活関係のルーズリーフばかりだった。

 ベッドの横の本棚には、バスケットボールのコミックスがぎっしりと並んでいる。夏目漱石やトルストイがあるのは、読書感想文用に購入したものだろう。他には辞書類や、ここにもバスケット関連の本や雑誌が置いてある。ベッドの下を覗いたがなにも置いてない。

 クローゼットを開ける。替えの制服やシャツやパーカーや、コートが掛けられていてその下には衣装ケースが二段ずつ四個積まれている。

 日記のようなものがあるとしたら、机の引き出しの中だろうと思っていたが、途中から雄大はなにも残していないだろうという気がしてきた。

 それでも一応、衣装ケースの中を見てみるが、やはり下着やスエットやセーターがあるだけだった。

 雄大は自分の自殺の理由を知られたくないのだろう、という気がした。

 ひょっとするとスマホの中に、その痕跡があったかもしれないが、飛び降りる前にきれいに削除したのだ。

 きちんと片付けられた部屋を見て、比奈子はそう確信した。

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