その秘密に、名前をください。
Chocola
第1話
「ここでは、名前も年齢も聞かない。
ただ、ルールは守ってもらう。それだけだよ」
私が「忘却屋」に来た日のことは、よく覚えている。
その店は、大人に見放された子供だけが暮らせる場所だった。
客の情報は外部に漏らさない。名前も過去も問われない。
ただし、掟を破った者には「居場所を失う覚悟」が求められる。
私には名前がなかった。
正確には、名前はあった。でも、使いたくなかった。
──母を、殺したから。
虐待の末の正当防衛だった。
でも少年院にいた間、誰も味方にはなってくれなかった。
出所してからは親戚にも見放され、行くあてもなかった。
そんなときに見つけたのが、この“忘却屋”だった。
最初は怖かった。
でも、ここでは「誰も過去を聞かない」という、それだけで救われた。
買い出しとオンライン授業が日課。
他の子とも言葉は交わすけれど、本名は知らない。
私はずっと、このまま生きていくと思っていた。
──でも。
ある日、客として現れた男が、私の前で立ち止まった。
「……来栖 美雨、だよな?」
私は思わず一歩、後ずさった。
その名前を知っている人が、いるはずがなかった。
「俺は、朝比奈 凪斗。君のお父さんの、甥にあたる者だ」
「は?」
「君の父親、朝比奈 俊明は、俺の伯父だ。
彼は数年前に亡くなったけど──君のことをずっと気にかけてた。
『もし何かあったら、美雨を頼む』って」
私は何も言えなかった。
「……でも、父親なんて知らない」
「そりゃそうだ。俊明さんは“庶子”だった。俺の父さんとは腹違いの兄弟なんだ」
「祖父が酔った勢いで受付嬢に産ませた子。
でも血は争えない。俊明さんは“朝比奈の人間”として育てられた」
初めて聞く“父の話”に、心がぐらぐらと揺れた。
「君が持っていたこの写真──それ、俊明さんの若い頃だよ。
彼が言ってた。“娘がいる。どこかで生きてる”って」
それは、私が母の遺品からこっそり持ち出した唯一の品だった。
「君が何を背負ってきたか、全部はわからない。
でも、君を“家族”として迎える準備はできてる。
俺たち5人兄弟は、君のいとこにあたる。……うちに来ないか?」
私は……涙が出そうになるのをこらえながら、頷いた。
*
朝比奈家での暮らしは、不思議だった。
長男の獅堂さんは寡黙だけど、毎朝私を迎えてくれた。
紅音さんは服を仕立ててくれた。美琴さんは肌ケアをしてくれた。
陽翔さんはパソコンを整えて、凪斗さんは何も言わず守ってくれた。
「美雨。もう、名前を捨てなくていいんだよ」
その言葉に、私は初めて「名前」を肯定できた。
私は──朝比奈 美雨。
忘却されるために生まれた命じゃなかった。
*
大学の卒業式。
壇上で私はスピーチを任された。
「私は、朝比奈 美雨です」
「かつて、名前を捨てようとした私が、今こうして立てているのは……
“秘密”にしていた私を、名前ごと愛してくれた人たちがいたからです」
スピーチが終わると、会場から大きな拍手が響いた。
私の“秘密”は、もう秘密じゃない。
それは「家族」という名前で呼べる、あたたかな絆になった。
──ようやく、私は私になれた気がする。
その秘密に、名前をください。 Chocola @chocolat-r
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