[Episode 3]信念と疑念の戯れ

出勤前、支度を終えて、部屋の鏡の前でぼんやり自分を見つめていた。

メイクも髪型も、今日は特に変えてない。

けれど、どこか違って見える気がした。

「...なんか、私、気にしてんの?」

思わず口にして、小さく笑った。

アリマさん。

何もしてこないし、優しすぎて、正直ちょっと拍子抜けした。

でも──安心する。

そんな人、これまでいなかった。

好きって言ってきた人は、何人もいた。

でも、結局は身体のことばかり。

信じたって、最後には裏切られるって、もう何度も思ってきた。

だからこそ、わかんなくなる。

優しさが、逆にこわい。

こっちが勝手に期待して、勝手に傷つくのがいちばんダサい。

「次、会っても、また何もしてこなかったら...」

その続きを言葉にしなかった。

鏡の中の自分が、なんだか少し笑っていた。



仕事帰り、ふと気づくとカノンのことを考えていた。

(今日あの子は、何時に出勤して、どんな客と会ってるんだろう)

そんな想像は、以前の自分ならしなかった。

名前も知らない相手に、こんなふうに気持ちが揺れるなんて。

“あの笑い方、また見れるかな。”

帰り道の交差点。信号が変わるのを待ちながら、有馬はポケットの中でスマホを握りしめた。

「また会いに行くよ」

自分に言い聞かせるように、つぶやいた。


――――――――――――――――――――

カノンは、少し遅れてやってきた。

ノックの音がして、ドアを開けると、彼女はすっと視線を上げて笑った。

「こんばんは〜。お待たせ」

「ううん、大丈夫。会えてうれしいよ」

いつもより少しラフな格好だった。

ショートパンツに、ゆるめのカットソー。

髪は下ろしたままで、肩にふわりと触れている。

「今日、ちょっと暑くない?」

そう言って彼女は、ベッドの上にぱたんと寝転がった。

足を組んで、腕で頭を支えるようにして、ちらっと有馬の方を見上げる。

「ねえ、こっち来ないの?」

「......え?」

「ほら、こっち。別に変なことしないから」

そう言いながら、片方の腕を上げて空けてみせる。

まるで「ここ、空いてるよ」とでも言うように。

有馬は戸惑いながら、そっと彼女の隣に横になった。

距離は──近い。

カノンの肩と、彼女の太ももが有馬に触れる。

カットソーの袖から見える肌が、やけに眩しかった。

「ふふ、アリマさん緊張してる?」

「そ、そんなこと...」

「ほんとに? 顔、ちょっと赤いよ?」

そう言って、彼女が腕をぎゅっと絡めてきた。

有馬の心拍数が一気に跳ね上がる。

まずい──

そう思った瞬間、下腹部に微妙な違和感。

カノンがちらっと視線を落とし、すぐに気づいた。

「......あ」

「あ...っ、ち、違っ......これはその、いや、その...っ」

「ふふっ...」

笑いながら、有馬の胸に額をコツンと当てる。

「だめだよ〜。変なこと考えちゃ」

「か、考えてないよ! べ、べつに、勝手にそうなっただけで...!」

「うんうん、かわいい」

カノンはそう言って笑ったあと、そっと有馬の肩に頭を乗せた。

彼女の髪の香りが、鼻先をかすめる。


しばらく、そのまま沈黙が続いた。

けれど、その沈黙は不思議と心地よかった。

──そして、時間になった。


身支度を整え、ふたりで部屋を出る。

ホテルのロビーを抜け、外の空気に触れたとき──

「アリマさん」

そう呼ばれた次の瞬間。

彼女が、いきなりぐいっと有馬に抱きついた。

「んん...」

言葉を飲み込む間もなく、唇が重なった。

一瞬のキス。

けれど、そこには迷いがなかった。

強引で、まっすぐで、どこか苦しげなほど真剣なキス。

唇が離れると、彼女は有馬の胸に軽く拳を当てた。

「...次来たら、私が襲うから」

「え......?」

照れを隠すように、彼女はくるりと背を向けた。

早足で角を曲がって、その姿が見えなくなる。

有馬はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。

──カノンも俺を?

そんな気がした。

彼女の目が、声が、唇の熱が、全てを物語っていた。

「......次は、俺がやらなきゃ」

夜の寒空を見上げ、今、自分にできる精いっぱいの“信じる心”を、彼女に見せるときが来た。

有馬はそう決意した。



あの日、キスをしたあと、

なんであんなことしたんだろうって、帰り道で自分でも呆れた。

でも──あの瞬間、止まらなかった。

アリマさんが、こっちをまっすぐ見てたから。

なんか、ズルかった。

私だけ、ずっと様子見してるみたいで。

翌朝、目が覚めても、胸の奥がじんじんしてた。

...次、ほんとに、襲う?”

口にしてたのは勢いだった。

でも、心のどこかでは、ちゃんと決めてたのかもしれない。

中途半端に優しくされるの、もう限界だった。

彼がどういうつもりなのか、ちゃんと知りたい。

「...信じてみてもいいのかな」

シャワーを止めたあと、鏡の前でポツリと呟く。

顔を拭くタオル越しに、頬の熱が伝わってくる。

この感覚を信じていいかどうか。

それを決めるのは──次だ。


――――――――――――――――――――

カードキーをかざすと、静かにドアが開いた。

いつものホテル、いつもの部屋。

けれど、有馬の心は、いつもと違っていた。

──あのキスのあと。

──彼女の瞳、あの熱。

あの宣言は冗談にも思えたけど──

(もし本当だったら、俺は…)

考えても答えは出なかった。

でも、今日こそは覚悟を決めようと決めていた。

バッグの中から財布を取り出し、例のものをしっかり胸ポケットにしまう。

──見せるタイミングを探るための夜。

そう思っていた。

ノックの音がして、有馬はドアを開ける。

そこにいた彼女は、いつもより少しだけ顔が紅潮しているように見えた。

「いらっしゃい、カノン」

「うん...」

それだけ交わすと、彼女は一歩、距離を詰めた。

まっすぐに有馬の胸元へ。

「え、ちょっ──」

言い終える前に、唇が重なった。

押し倒されるようにして、ベッドに背中が沈む。

「ちょ、カノン、待って....」

「いいの。今日は、もう、そういうのいいから」

彼女の手が、シャツの前をまさぐる。

一気にボタンを外し、有馬の胸元があらわになる。

舌先が、乳首をかすめた。

「うわっ...ちょ、や、ちょっと!」

「ふふ...やっぱ、反応するんだ」

笑いながら、彼女の手がズボンの上から股間をなぞる。

有馬は必死で両手に力を込め、意識を維持しようとした。

心拍数は跳ね上がり、理性がぐらつきそうだった。

──だめだ、流されたら、何も伝えられない。

「...だ、だめ、スト、ストーップ!!」

思わず両手を伸ばし、彼女の肩をぐっと押し返した。

「え〜〜〜! またなの? もう、しないとぉ~だってぇ...」

ぷくっと頬を膨らませて、カノンが不満を露わにする。

「ご、ごめん、ほんとに。でも今日は、俺……実は見せたいものがあるんだ」

「...見せたいモノ?」

「俺のこと、今日はちゃんと知ってほしくて」

そう言いながら、有馬はカノンに剥ぎ取られたシャツの胸ポケットから免許証を取り出した。

カノンの視線が、有馬の手元に落ちた。


運転免許証──

本名、生年月日、住所、顔写真。

どこにでもある、当たり前の身分証。

けれど、今この瞬間だけは、それがとてつもなく重たいものに思えた。

「...これが、俺、です」


カノンは無言のまま、それを受け取った。

黙って写真を見て、名前に視線を落とす。


“有馬 貴久”


その字面を、彼女がどう受け取ったのかはすぐにはわからなかった。

ただ、しばらく無言のまま、ゆっくりと免許証を両手で持ち直した。

「...貴久、くん、なんだ」

小さく呟いたその声に、有馬の喉が詰まるような感覚を覚えた。

誤魔化しも、隠し立てももうできない。

風俗嬢と客──その枠組みの中にいた関係が、今少しだけ、確実に、逸脱した。

「...見せといて変なこと言うけど、覚えなくてもいいよ。今まで通りアリマでもぜんぜっ」

「ううん。覚えるよ。もう、忘れないと思う」

カノンは有馬の声に被せるように言った。

声はかすかに震えていた。

免許証をそっとベッドの上に置いたカノンに、有馬は目を合わせながら言った。

「カノン...おれ、本当に君が好きだ。付き合って欲しいと思ってる。カノン。俺は君がOKしてくれるまで頑張るつもり」

彼女は、一瞬だけ驚いたように瞬きをした。

そして、まっすぐ目を見ながら──

「...うん」

その一言に、有馬は固まった。

「え? “うん”って...どういうこと? 俺と、付き合っても、いいってこと?」

カノンは小さく首を振ってから、言葉を継いだ。

「ううん、ごめん。...まだ“付き合う”まではできない、と思う。でも...貴久くんのこと、好き、かもしれない」

「えぇぇぇ...!?」

カノンの意表を突いた告白に、有馬は声が裏返る。有馬は自分の頬を両手で覆い、そのまま倒れ込みそうになった。

「えと、本当にごめん。正式には付き合えないけど...半分くらい、なら」

「──あ、うん! 全然いい! 半分でも。俺めっちゃ嬉しい!」

舞い上がるような高揚のなか、彼は言葉を重ねる。

「本当に...私が、いいの?」

カノンは一瞬、視線を伏せて、それからゆっくり顔を上げた。

「カノンだからだよ。俺、本気で、真剣にカノンが好きなんだ」

「うん...ありがとう」

その言葉には、照れも、迷いも、嬉しさも混ざっているようだった。

少しだけ黙ったあと、有馬がふと何かを思い出したように言う。

「そうだ、もしよかったら...カノンの名前、ていうかあの、本名、教えて、ほしいな」

カノンは少し考えてから、静かに答えた。

「......莉奈だよ。佐藤 莉奈です」

“本物の名前”が、空気を震わせるように響いた。

それは、ずっと知らなかったはずのものなのに、なぜか自然に馴染んでいく気がした。

カノンじゃない、莉奈。

彼女が初めて、自分を「誰かに渡した」瞬間だった。

こうして、有馬とカノンの──

いや、貴久と莉奈の、半分だけの恋が、静かに始まった。

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