4.誕生の光

 私は、静かにドアを開けた。

 奏が、そこにいた。ソファの前に仁王立ちになり、私を待っていたようだ。その顔には、安堵と、それ以上に深い困惑が浮かんでいる。彼は何かを言いかけたが、その言葉は、形になる前に彼の唇の上で霧散した。私の纏う空気が、彼にそうさせたのだろう。


 私は、彼を無視した。

 いや、無視をしたという意識すらなかった。私の目には、彼は部屋の風景の一部、例えば、壁の染みや、床に落ちたクッションと同じように、意味を持たないオブジェクトとして映っているだけだった。


 夢遊病者のように、ゆっくりと部屋の中を歩く。

 一歩、足を踏み入れた瞬間の、よどんだ、緊張を孕んだ室内の空気。

 私の視線が、ゆっくりと部屋全体を巡る。二人で選んだソファ。奏が撮った、私の笑顔の写真。そして、キッチンのカウンターの隅に置かれた、青いガラスのソーダ水の空き瓶。

 それら、かつての幸福を象徴していた遺物たちを、私は、何の感慨もなく、ただの「物」として認識していく。ここは、もはや、私の家ではない。私が演じていた「詩織」という名の女の、美しい墓標。あるいは、その人生の、精巧な残骸。


 奏が、私の背後で、何かを言っている。

 私の名前を、呼んでいるようだ。

 その声は、私の耳を、ただ、滑り落ちていくだけだった。


私の視線が、壁に掛けられた一枚の写真に吸い寄せられた。奏が撮った、去年の夏の、私の笑顔。完璧な光の中で、完璧な角度で切り取られた、幸福な偶像。けれど、その偶像は、今、この精巧な残骸の中で、ひどく滑稽に見えた。その瞬間、私の内側、凪いでいたはずの湖面の底から、初めて、微かで、しかし焼けるような熱を持つ感情が、ふつりと湧き上がった。それは、奏への怒りではなかった。この、完璧な偶像であったはずの“私”が、なぜこんな残骸の中に打ち捨てられているのか、という、裏切られた自己への、静かな、しかし絶対的な憤りだった。


 私の身体は、定められた目的地へと、寸分の狂いもなく進んでいく。

 それは、儀式だった。

 私が、私でなくなるための、最後の。

 私の足は、ドレッサーの前で、止まった。

 その鏡面には、雨に濡れた、見知らぬ女が映っている。

 そして、その女の向こう側、鏡の奥に、狼狽した顔の男が、こちらを見つめていた。


***


 私の指が、ゆっくりと、ドレッサーの上を滑る。そして、一つの小瓶の前で、止まった。

 奏が初めて私に贈ってくれた、アンティークの香水瓶。繊細なカットが施された、脆く、美しいガラスの小瓶。それは、奏に与えられた「偽りの女性性」の、最後の残骸だった。

 私はそれを、静かに、手に取った。そのガラスの冷たさを、指先で確かめる。

 奏は、息をのんだまま、私の一挙手一投足を見つめている。彼はまだ、言葉を発しない。ただ、部屋の空気が、彼の緊張によって、ピンと張り詰めていくのが分かった。

 私は、彼に背を向け、部屋で一番大きな、何も飾られていない白い壁へと向き直った。

 そこは、かつて、二人の未来を描くための、真っ白なキャンバスだった場所。

 けれど今、その白は、あまりにも空虚で、無意味だった。

 私の口元に、ほんの僅かな、しかし、確かな笑みが浮かぶ。

 そして、腕を、振り上げた。

 その、バレエダンサーが何かを捧げるような、静かで、滑らかな動作で。


「詩織、待て。何を……何を、しているんだ。理解できない。やめろ」

 私の意図を、ようやく悟った奏が、掠れた声で叫んだ。

 その声は、もう、遅かった。

 私の指先から、小瓶が放たれる。

 それは、スローモーションのように、宙を舞った。ガラスの多面体が、部屋の照明を不規則に反射させ、一瞬、虹色に輝く。

 パリン、と。

 破壊音は、私の耳には、新しい世界の誕生を告げる、美しい結晶音として響いた。

 壁に、濡れた染みが広がる。砕け散ったガラスの破片が、ダイヤモンドダストのようにきらめきながら、床へと降り注ぐ。

 そして、一瞬の静寂の後。

 解放された香りが、爆発するように、部屋中に飛散した。

 奏の理想の女性像を凝縮したような、ベルガモットの爽やかさと、白い百合の甘さを併せ持つ、この香り。私が、本当の自分を殺し、奏のためにだけ纏ってきた、「完璧な詩織」の香り。私たちの、幸福だったはずの時間の香り。


 けれど、今、その香りは、あまりにも濃密で、むせ返るようで、まるで、供えられたまま、忘れ去られた供花が、その命の最後の輝きを放ちながら、ゆっくりと腐敗していく、その過程の匂いのようだった。

 私たちの愛の、亡霊だった。その亡霊が、この部屋の隅々まで、壁に、ソファに、カーテンに、そして、私の皮膚にまで、その見えない手で、しがみついてくる。

「ああ……っ!」

 奏の、短い悲鳴のような声が、その香りの霧の向こうから、聞こえた気がした。

 けれど、その声は、すぐに、別の音によって、掻き消された。

 キーン、と。

これまで部屋の底で鳴り響いていた不気味な通奏低音が、その役目を終えたかのように、清らかで、高い音へと昇華された。

 それは、ガラスや、クリスタルが、永遠に共鳴し続けるような、絶対的な音だった。

 苦痛ではなかった。

 むしろ、その音は、この部屋に充満した、思い出の亡霊の匂いも、奏の声も、この世界の全ての雑音を遮断し、私だけの、静かで、安全な空間を作ってくれる、守護の響きだった。

 それは、嘘のない、私の、新しい心音だった。


***


 私の内側で鳴り響く、清らかな心音。

 その絶対的な響きに守られながら、私は、自らが創造した、美しい残骸へと、ゆっくりと歩み寄った。

 そして、その前に、ひざまずく。


 それは、敗北のポーズではなかった。ひれ伏すためではない。自らがこの世に産み落とした、新しい、そしてあまりに危険な元素の性質を、その創造主として、初めて確かめるために。


 床に散らばったガラスの破片が、部屋の明かりを乱反射させ、きらきらと輝いている。それは、ガラクタの山などではなかった。夜空からこぼれ落ちた、無数の星屑。あるいは、砕け散った、硬質な宝石の群れ。

 その中で、ひときわ大きく、鋭い、ひときわ美しい破片が、私を呼んでいた。

 私は、それに、まるで聖遺物にでも触れるかのように、そっと、指先で触れた。

 ガラスの、冷たく、滑らかな感触。

 私は、その破片を、拾い上げた。

 そして、立ち上がり、窓から差し込む、街の光に、その鋭い切っ先をかざす。

 すると、ガラスの破片はプリズムのように光を屈折させ、先ほどまで、私の絶望を映していただけの白い壁に、小さな、震えるような虹を映し出した。けれど、その虹の赤色は、私の手のひらに滲む血の色と、不気味なほどに、よく似ていた。それは、痛みを伴わない、安物の希望の光ではなかった。


 息をのむ。


 赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。


 絶望の底で、瓦礫の中から、私は自らの手で「本物の美」を創造したのだ。

 私は、その光の破片を、ぎゅっと、強く握りしめた。


 手のひらに、鋭い痛みが走る。


 じわりと滲む血の熱さが、その、確かな痛覚こそが、私が、今、新しく「生まれた」ことの、何よりの証だった。


 奏が、私の背後で、何かを言っている。

 だが、もう、どうでもよかった。

 私は、壁に映る、か細い虹を見つめながら、静かに、そして深く、微笑んだ。

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