ソナタ14番
増田朋美
ソナタ14番
その日も暑い日で、本当に疲れるなぁと思ってしまう日々だった。もうどうしてこんなに暑いのかなぁと思うけど、盛夏という時期なので、そうなってしまうのだろう。
その日、持田敦子さんこと、もーちゃんは、いつも通りにピアノを練習していたのであるが、
「弾けないなあ。」
と思わず呟いてしまった。
目の前には、モーツァルトのピアノソナタ14番の楽譜がある。なんで弾けないのかなぁと思うけど、モーツァルトはなかなか指が動かないのと、フレーズが息継ぎをする暇もなく弾けない。モーツァルトの曲は、フレーズが長すぎるというか、なんか次々に新しいフレーズができてしまうというか、そういう曲ばかりで弾くのが難しくなってしまった。前は、モーツァルトを弾くことができたのに、いまはなんで弾けなくなってしまったのかなぁ。
そんなわけで、持田敦子さんはどうしようかなと思いながら、椅子から立ち上がり、一人で外へ出た。いつもは、買い物に行くルートなのであるが、疲れてしまったため、彼女は、別の道をとった。
到着したのは製鉄所。製鉄所といっても鉄を作るところではなく、ワケアリの女性たちが、勉強や仕事をするための部屋を貸し出すための、福祉施設である。時々ここで、カウンセリングのような物が行われる時もある。
「こんにちは。」
もーちゃんは、製鉄所の玄関の引き戸をガラッと開けた。製鉄所の玄関は、あいさつの大切さを伝授するために、インターフォンが設置されていないため、声に出して挨拶する必要がある。
「はい、こんにちはといったら、もーちゃんか。いったいどうしたんだよ?」
杉ちゃんが応対してくれた。大体来客の応対は杉ちゃんの役目である。
「ちょっとね。相談したいっていうか、お話したいことがあるのよ。」
もーちゃんは、申し訳なさそうに言った。
「はあ、何のことかなあ?ピアノのことか?それとも日常生活のことか?」
「まあ、両方かなあ。」
もーちゃんは杉ちゃんと、製鉄所の廊下を歩きながらそう言ったのであった。
「そうなんだねえ。それではいつ頃から何について悩んでいるのかい?」
杉ちゃんにそう言われて、もーちゃんは、
「一月くらい前からかな?」
と答えた。
「なんかトラブルでもあった?」
杉ちゃんがまた聞くと、
「そういうことかなあ。」
もーちゃんは申し訳なさそうに言った。
とりあえず、杉ちゃんともーちゃんは、水穂さん達がいる、四畳半の部屋の中に入る。部屋に入ると、水穂さんが布団の上に起きて、正座で座布団の上に座った。枕元には、盲目の古川涼さんがいた。
「おい、ちょっと聞いてやってくれ。なんだか聞きたいことがあるんだって。なんかトラブルでもあったらしい。まあ、こういうご時世だから、なかなか人にも聞けないよなあ。」
杉ちゃんがそう言って、もーちゃんを中へ入れると、涼さんも、話をお伺いしますと言ってくれた。
「それでは、悩んでいることを話してみてくれや。始めから頼むよ。それで終わりまでちゃんと聞かせてもらう。」
杉ちゃんがそう言うと、
「はい。それでは、ちゃんと話しますね。実は、最近主人のすすめもあって、偉い先生にピアノを聞いてもらったんです。」
もーちゃんは話し始めた。
「へえ、どこ大の先生だろ?」
杉ちゃんが聞くと、
「はい。芸大を出ている先生で海外へ留学までされて、すごい偉い先生だって、言われました。だから、私の演奏を聞いてくれるのかなって思いました。」
と、もーちゃんは言った。
「それであたしは、一番得意だったモーツァルトのソナタ14番の第1楽章を演奏したんですが、そこで先生が、こんな簡単な曲を私の前に持ってくるとは何事だと言って、怒り出したんです。あたしは、なんのことだかわからなくて、簡単な曲ではないっていいましたけど、そうしたら、人に文句つけるとは何事だと言って怒り出すし。」
「はあ、そうですか。モーツァルトのソナタ14番といいますと、モーツァルトの作品としては珍しく、短調の作品で、結構有名な教材ではあるんですけどね。」
水穂さんがおかしいなと言う顔でそういった。
「それを簡単な曲だと言って、怒られたのなら、その先生は大したことありません。だって、大事な教材なのに、そんな簡単な曲で処理してしまうのは、問題です。」
「そうですね。その先生はどうしてモーツァルトの曲をあなたがやりたいと言ったのに、激怒されたんでしょうね?なにか、気がかりになることはありますか?」
涼さんが、水穂さんに続けて言った。
「ええ、あたしは全くわかりません。なんでこんな簡単な曲をって言われたのか。その時は、ひたすら謝って、家に帰りましたが、それ以降、ピアノが弾けなくなってしまいまして。」
もーちゃんはそういうのだった。
「確かに、いきなりそうやって怒られるんじゃ、ピアノが弾けなくなっても、仕方ないですね。あなたは、何も知らなかったわけでしょ?そのモーツァルトのソナタが、簡単な曲だったってことも。」
涼さんがそう言うと、
「はい。なにも知りませんでした。偉い先生は、モーツァルトのソナタというものを簡単な曲だと思ってしまうのでしょうか?」
もーちゃんはそういった。
「そうですね。もーちゃんさん。残念ながら、そういう例はたくさんありますよ。例えば、協奏曲なんかをやるときもそうなんですけど、モーツァルトの協奏曲をオーケストラといっしょにやりたいと先生に申し上げた場合、そのような簡単な曲で何をしているんだと、激怒されたと聞いたことがありますから。」
水穂さんが、そう「現状」を言った。
「海外では、超絶技巧はあまり受け入れられないと言われますが、日本では、超絶技巧的な独奏曲や協奏曲をやらないと、聴衆受けしないので、モーツァルトは、流行らないんです。」
「そうかあ。そういうことか。じゃあ、モーツァルトのソナタ14番は、」
杉ちゃんがそういいかけると、
「ええ。簡単すぎる曲ということで、きっと人を馬鹿にするなと思われたのでしょうね。もしかしたら、そんな簡単な曲をやって、やる気がないのかと思われたのかもしれません。多分、両方の感情が湧いてしまったんだと思います。」
と、水穂さんが言った。
「女性の先生ですよね?多分、そんなことで感情的になるというのならそうでしょう。男性は、あまりこういうことで感情的になる確率は少ないですから。」
涼さんが、専門家らしくそういう事を言ってくれると、
「ええ。女性の方です。」
ともーちゃんは答える。
「それで、次のレッスンはもう予約できたのか?それとも、これ以上レッスンを受けるのは怖くて何も予約はとらなかった?」
と、杉ちゃんが言った。
「それがですね。もっとやる気を出してくれればレッスンはするというのです。」
もーちゃんは意外そうな顔をしていう。
「そうですか。現在ピアノの先生は、常に供給過多のようなところがありますから、その先生も生徒を獲得したかったんでしょうね。でも、自分のプライドの高さから、モーツァルトのソナタを持ってきたことが許せなかったのでしょう。まあ、今の世の中だったらよくあることですよ。音楽学校を選ぶときも、昔みたいに、音大の先生に委ねればいいかという時代ではなくなっていますからね。」
水穂さんは、そうにこやかに言った。
「じゃああたしは、どうしたらいいのでしょうか?もう、あんなふうに怒られていたら、ピアノが弾けません。それでまたレッスンに来いと言われているのだから、曲はどうしようとか、そんなことばっかり考えて、あたしはどうしたらいいのかわからなくなってしまいました。」
もーちゃんが、そう自分の悩みを言うと、
「そうですね。まあ大変でしょうけど、もう少し難しい曲を持っていって、やる気があることを示すのが必要なんじゃないでしょうか。そうすれば、今度は教えてくれるかもしれません。一度は、怒ったけど、二回目以降は、そうではなかったということも、これまたよくあることですから。そうだなあ。例えば、ベートーベンの田園ソナタ程度の曲を持っていったらどうですか?」
水穂さんはそう解決策を言った。
「田園ソナタですって?あんな難しい曲、私、弾けませんよ。」
もーちゃんはすぐそういった。
「でもね。簡単な曲を持っていって怒られたっていうんだったら、難しい曲を持っていって、じゃあ教えてくれっていう態度を取ったほうが、いいのではないかと思うんです。一生懸命やってる姿とか見せれば、やる気があるんだなと、納得してくれるはずです。」
「そうですね。ただ、難しい曲をやって完成度が低いと、またやる気がないのかって、言われる可能性は無きにしもあらずですが、いずれにしても、モーツァルトではなくて、他の作曲家の作品をやってみることが大事なのではないかと思います。」
水穂さんと涼さんが相次いでそうアドバイスしてくれたのであるが、
「いや、これはモーツァルトを持っていったほうが良いと思う。だってさ、いきなり簡単な曲を弾くなって怒られたんでしょ。それは、いくらなんでも間違いだと思うぜ。そうやって、モーツァルトの作品馬鹿にするって、作曲者本人だっていい気持ちはしないと思うよ。だったら、その先生に、お前さんの方からガツンと言ってやれ。」
杉ちゃんはそういうのであった。
「なんですか。そんなこと言ったら、またそんな簡単な曲をって、怒られてしまうのでは?」
水穂さんがそう言うが、
「いや、それはないと思う。だって、その先生の虚栄心を満足させるために、生徒がいるわけではないでしょ。それなら、それは間違いだって、ちゃんと言い聞かせることも必要だと思う。」
と、杉ちゃんはでかい声で言った。
「そうですが、あたし、そんな事をピアノの先生に、言える勇気はありませんよ。」
もーちゃんはそう言うが、
「そうかも知れないけれど、でも、どっかで誰かが、間違っていることを伝えないとさ。被害者は増える一方だ。偉い人だからといって、間違った教育させるわけにはいかない。単にピアノが弾けなくなるだけではなく、人生もボロボロにさせられるやつだって出る可能性があるんだよ。それを出させないためにも、誰かが止めることが必要なんだ。だからそれをお前さんがやり遂げろ。」
と、杉ちゃんが言った。
「杉ちゃんの言うことは正しいんですが、日本の権力や秩序を考えると、そうやってピアノの先生に歯向かうことは、、、。」
涼さんがそう言うが、
「いや、誰かがしなくちゃだめだ。それは、誰かが止めることが必要だ。お前さんがそれでピアノが弾けなくなったなら、そうなったってちゃんと先生に言って、暴走を止めさせろ。」
と、杉ちゃんはいうのだった。
「だけど杉ちゃん。相手は、ピアノの先生で、言ってみれば権力者ですから、それに背いては、大変なことになりかねないのでは?」
水穂さんがそう言うと、
「そうだねえ。確かに洋楽では、家元制度とか、そういうものはないからなあ。ピアノの世界で、家元のような人物がいれば、そういう事をしてはいけないと注意してくれることができるんだが?」
と、杉ちゃんは言った。確かに、不自由なことが多い家元制度であるが、こういうときには役に立つかもしれない。
「そうですね。ピアノの世界は、そういう人はいませんからね。そうなると、やはり必要なのは、曲を変えるとか、先生を変えるとか、そういう事をするしかないのですよね。芸大というと、日本の音楽学校の頂点ですが、それだけが全てではないですよ。地方の先生だって、すごくうまい方はたくさんいますから、その先生のもとで新しくレッスンを受け始めるのも良いのかもしれませんね。」
水穂さんが、そう杉ちゃんに言った。
「でも、これはね。家元がいようがいまいが、自分の虚栄心を満足させるために生徒がいるって考えるのは、ちょっとおかしいと思うぞ。ピアノの先生だけではなく、人としてな。人は、道具じゃないんだからさ。そういう事を誰かが伝えなければ行けないと思うんだ。それは、やっぱり、ガツンと言わなくちゃいけないと思うんだよ。だから、もう一回レッスンの予約があるんだったら、もう一回ソナタ14番を持っていってだな。その先生に間違ってるってはっきり言わなければだめなんじゃないかな?」
杉ちゃんは自分の意見を崩さなかった。
「そうですね。あまりにも非現実的な。」
と、涼さんが言うと、
「なんて名前の先生なんですか?」
と水穂さんが聞いた。
「ええ、浅井という方です。浅井英子。」
もーちゃんが答えると、
「ああ、聞いたことありますよ。確か、武蔵野かどこかで教えていらしたような。何人も武蔵野へ合格させているようですが、それだけじゃありませんよね。先生の力量というのはね。演奏も聞いたことありますが、なんだか女性であることを隠したいような演奏でした。ただ叩きつけているだけで、何も演奏になってないような。」
と、水穂さんは、また現状を言った。
「なるほどねえ。それじゃあ、なんというか、奢っているのかもしれないね。でも、そいつに、ちゃんと間違いを指摘することは大事だと思うからさ。首になるの覚悟して、もう一回ソナタ14番を持っていってみたら?」
杉ちゃんがそう言ったので、もーちゃんはもう一回レッスンに行くということを決断した。何を言われても、ピアノを習いたいということに、代わりはないんだとちゃんと伝えておくほうが良いと思った。
それから数日経って、もーちゃんはまた浅井先生のところにレッスンに行くことになった。浅井先生の富士市でのレッスンは、自宅ではなくて、楽器屋のレッスン室を借りて行われるのである。それがまた浅井先生の偉さを象徴しているように見えるのであるが、もーちゃんは、それに負けないようにしようと思った。
「こんにちは。」
と、もーちゃんは浅井先生の部屋に入った。確かに、堂々として、偉い人らしい感じの女性であった。
「先生。また、モーツァルトのソナタ14番を持ってまいりました。今度こそ、簡単な曲という感じには演奏いたしませんから、見てくれませんか?」
もーちゃんは真剣な顔でそういう事を言った。
「何を言ってるの。私のところで、そんな簡単な曲をやるわけにはいかないのよ。」
浅井先生は、前回と同じ事を言ったが、
「どうしてだめなんですか?モーツァルトだって、立派な作曲家ですよね。それをなぜレッスンしてくださらないのです?あたしは、これであっても、真剣にやってきたんです。やってくださらなければ。」
と、もーちゃんは先生の顔を見ることもできないまま、そう言ってしまった。
「もう一回言うわ。そんな簡単な曲を私がやらせたとなれば、私の顔に泥を塗ることになるのよ。」
浅井先生がそういうのであるが、
「でも、あたしにとっては、大事な課題曲です。それをレッスンしてくれなければ困ります。それなのになんでしてくださらないのか、その理由を聞かせていただけないでしょうか?」
と、もーちゃんは、勇気を出してそういった。浅井先生は、もーちゃんの顔を見て、
「何がいいたいの?」
とだけ言った。
「何がいいたいのじゃありませんよ。あたしはただ、モーツァルトのソナタ14番をやってほしいということです。先生がだめだというのだったら、なんでだめなのかその理由を聞きたいのです。あたし、何もしませんよ。何も悪意はありません。ただ、先生が、モーツァルトのソナタがだめだというのか、それを教えていただきたいのです。」
「まあ、この私に逆らうなんて、一体何を言っているのかしら。あなた、私を何者だと思ってるの?私はこれでも、音大で教授をしているの。そのような私が、そんな簡単な曲をやったらどうなると思ってるの?それくらい、考えられるわよね?それを考えて、もう一回出直してちょうだい。」
浅井先生はそういったのであった。もーちゃんは、その文句を聞くと、なんだか彼女が可哀想というか、地位にしがみついている哀れな女性のように思えてきた。
「おんなじなんですね。」
と、もーちゃんはいう。
「あたしも、今の主人といっしょにいて、かろうじてピアノがやれるということだけが、唯一の幸せです。先生はきっと、音大で教授をしていることだけしか、幸せを見いだせないのではないですか?音楽をしている楽しさよりも、ソッチのほうが大事になってしまって、本当に教えることを忘れてしまっているのではないですか?」
浅井先生は、何を言っているのだと言う顔をする。それをもーちゃんは否定ではなくて、肯定であるとすぐに分かってしまって、
「ええ。だからおんなじじゃないですか。女性なんて悲しいものですね。そうやって、地位や家庭環境でしか幸せを見いだせないのですよ。先生も、私もおんなじですよね。それは、悪いことじゃありません。あたし、先生の顔に泥を塗るのは申し訳ないから、やはり、他の教室へ行こうかなと思います。」
と、言ったのであった。
「待ちなさい。」
立ち上がって出ていこうとするもーちゃんに、浅井先生が言った。
「聞くわ。」
「ありがとうございます!」
もーちゃんはピアノの前に座った。これでやっと、モーツァルトのピアノソナタ14番を弾くことができた。それはやはり、怒りのソナタというような感じの曲で、明るくて、陽気で楽しそうな一面ばかりが強調されているモーツァルトの曲としては異色の作品である。もしかしたら、モーツァルトも、作曲家という地位に甘んじていなければならない自分に、つらい思いをしていたのかもしれない。そういうわけだから、こういう辛い雰囲気の曲ができてしまうのだろう。人間なんてそんなもの。だから、その寂しさをもう少し、口に出して言うことができたなら、もっと世の中は生きやすくなってくれるのかもしれない。
外は、いつの間にか雨が降っていた。夏の季節は、ひどい猛暑の裏で大雨が降るものなのだ。それはもしかしたら、お互いに片一方だけではありえないという人間社会の様子を示しているのかもしれなかった。夏はまだまだ続くだろう。それがいつまでも続いていくのが、人間の宿命みたいなものだから。
ソナタ14番 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます