私が捨てた者、私を捨てた者
目が死んでるキリン
ーー私は。或いは、私『たち』は救われたかった
潮風が、ざらめきと共に頬を擦り抜ける。
その撫で方はあまりに無為自然で、まるでこちらの存在など最初から知覚していないかのようだった。
眼前の水平線、その彼方で揺らめく太陽は燦燦と、静かに拍動している。
何も求めず、奪わず、ただ在るものに、私は理由のない劣等感を抱いていた。
私は、常に応えを欲し、赦しを渇望し、無音を恐れる生き物だった。
この吹き抜ける潮風も、時に暴風となり、凪を飲み込む。
そうした無常のあり方を、私は“あの子”に重ねてしまう。
朗らかで、感情豊かで、優しさに溢れていたというのに、
誰よりも孤絶していた、あの子。
空元気と仮初の微笑の裏で、どれだけの痛苦を呑み込んでいたのか。
私は知っていた。気づいていた。
けれど、踏み込まなかった。手を伸ばせば触れられる距離だったはずなのに。
怯懦(きょうだ)。ただそれだけが、私の真実。
ーー踏み込めた。けど、踏み込まなかった。
もう答えは出ている。否、初めから出ていた。
だけど、それでも涙は止まらない。
私は、純白の制服に包まれた腕で何度も顔を覆った。
しかし、濡れた頬を幾度拭っても、滴は頑なに零れ続ける。
止めたいと希(こいねが)えば希うほど、それは嘲笑うように落ちて行く。
声を上げればよかったのかもしれない。
返らぬものだと知りながらも、一言でも呼びかけるべきだったのかもしれない。
或いは、陽に焼かれた砂の上に跪き、目を覆っていれば......
咽び泣いていれば、よかったのか。
きっとそれは違う。だって、今こうして後悔してるから。
傲慢にも、赦しを乞うてるから。
なら、寂然(じゃくねん)たる海へとその身を投じ、
この存在ごと忘却に委ねればよかったのか。
違う。違うと、分かっている。
ーーああ、結局......これも言い訳だ。
あの子が私が後を追うのを望んでいない。
そう妄想して己に言い聞かせてるだけ。
ーー誰かに、『私のせいじゃない』って言ってほしい。
こんなことを考えるのは、傲慢で身勝手だ。
それを分かっているのに、何故私は問い続けるのだろう。
思考とはしばしば理性の外側で蠢く。
そして私は、考えてしまうのだ。
『私が、あの子を“殺した”のではないか』
あの子は、「助けて」とは言わなかった。
でも、その裏で幾度となく手を伸ばしていた。
なのに、私はそれに虚ろな宙を彷徨わせた。
あの子の笑顔は、いつだって沈黙の悲鳴だった。
目を逸らし、耳を塞いだのは、他ならぬ私だ。
友達という語の曖昧さに安住し、その距離感で自分を守っていた。
手を伸ばせる距離にいたのに、結局握り返さなかった。
あの子の笑顔はすっかり光を失っていて、中には黒雲が立ち込めていた。
私の笑顔は愛想を持っていても、中には何もない。空っぽだった。
あの二つの笑顔を思い出す。
それだけで、嗚咽と後悔と自分の無力さと卑しさに気が狂いそうだ。
どんなに理由を並べようと古今問わず、
私が最も卑劣であったことを、私は認めざるを得ない。
静謐(せいひつ)が、私を責める。
この砂浜にこだまする無音と、遠くから断片的に届く都市の喧噪。
それらが、私の醜悪な自己保身の本能を、無慈悲に炙り出す。
世界の時制は止まらない。
冷然と、淡々と、彼岸と此岸を繋ぐ回路の如く、それは私に告げてくる。
『虐げた者だけが、罪人ではない』
ーーねえ。誰か、教えてよ
その無音の祈りもまた、潮騒に溶けて消えた。
私があの子を遠くから眺めていたように、
世界は私を遠巻きに、見殺しにしている。
あの子が震えていた夏の日。
私がその肩を抱けていれば、
躊躇わずに名を呼んでいれば、
勇気を絞り出せていたら、
記憶は、こんなにも苛烈な悔恨にならなかったのかもしれない。
今、私は問う。
この空っぽな懺悔を、形のない『何か』に投げかけることは、咎なのだろうか。
『何か』は神か、或るいは未だ名づけられぬ私自身の醜き良心か。
この問いは、天にも届かず、地にも還らない。
けれど、それでも、問わずにはいられなかった。
吐き出さずにはいられなかった。
だから、今、私はここにいる。
世界は陽を暮らし、夜明けを運び、再び宵を呼び寄せる。
それは、まるで断罪にも似た自然の輪廻。
故に。失った物の大切さは、ベッドから起き上がる度に増す。
私は、永久に応えのない対話を続ける。
あの子と交わすはずだった言葉を、
もう二度と応えてはくれない水平線に向けて。
あの子がいつの日か手を伸ばしたように、
私も、後悔の念を吐き気と共に抱きながら伸ばす。
幾億数の星の中にいるかもしれないあの子に向けて。
ーーこれは、感情の矛盾だ。
それを知ったとしても、許しを乞いながら、生き続けなければならない。
生きていることが贖罪なのかもしれないから。
ーー誰も、何も......
いつまで経っても、私が伸ばしている手を握り返してはくれない。
これが、あの子の答えであり、私があの時出した答えなのだろう。
あの時、喉を震わせられていたら、
手にできたはずの、今は無き日常は......
ーー私たちは、救われてたのだろうか。
何の事情も知らない、私の大切とは似ても似つかない、
そんな、『何か』に問いかけるのは間違っているのだろうか。
ーーああ。やっぱり、
誰も答えてはくれない。
誰も、救ってはくれない。
誰も、この手を握ってはくれない。
私が捨てた者、私を捨てた者 目が死んでるキリン @kensakukamimoto
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