ワインの里(3)
弓を意味するロス・アルコスの町に到着した。今日、通ってきたなかでは最も大きな町とはいえ、人口は2000人にも満たない。目抜き通りもひっそりとしていて、いくつかのお店が申し訳程度に並んでいるくらいだ。でも、アルベルゲは何軒もあり、巡礼で成り立っている町といった雰囲気がある。
ロス・アルコスのサンタマリア教会は町の規模には似つかわしくないほどの風格があった。扉が開いており、中に入ってみると、外観に負けず劣らず内部も壮麗だった。色鮮やかな彫像が柱と柱の間にずらりと並んでいて、どれを見ても装飾が豪華だ。祭壇の前の長椅子に腰を下ろし、前回と同じように両手を組んで額に当て、巡礼達成の祈りを捧げた。
達成証明書の発行を拒否されないよう、スタンプをもらうのも忘れてはならない。
入り口付近に教会関係者の姿が見当たらず、仕方なく自分で巡礼手帳にスタンプを押していたら、黒い長衣をまとったスキンヘッドの男性がスタンプ台のそばに近づいてきた。一瞬、神父か修道士かと思い、勝手にスタンプを押したのはまずかったかと後悔したら、彼もどうやら巡礼らしく、自分の巡礼手帳をおもむろに取り出してスタンプを押し始めた。ああ、びっくりした。胸をなでおろしながらも、彼の服装につい目が行ってしまう。この酷暑の中、黒い長衣なんて暑くないのか?
ベンチがサンタマリア教会の影にすっぽりと覆われて、おあつらえ向きの休憩スペースになっている。そのベンチに腰掛けながらガイドマップを確かめると、今夜の宿があるサンソルの町まではここからわずか8キロ。せいぜい2時間、休憩を挟みながらでも3時間あれば十分な距離だ。このあとは急ぐ理由もないし、のんびりと歩くことにしよう。
たっぷり30分は休憩し、教会横の水道でペットボトルを満たしてからふたたび歩き始めた。
長めに休んだからこのあとはバッチリかというと、そうは問屋が卸さないのが巡礼だ。歩いている最中は気にならなかった筋肉痛が戻ってきてしまい、しばらくはペースが上がらない。
歩き始めて30分も経たないうちに、雲がすっかり消え去り天気は快晴に逆戻り。気温は35度。昨日と同じように暑くなってきた。たった8キロなんて完全に見くびっていた。
ロス・アルコスからサンソルまではほとんど一直線の土道が続く。周囲に目を凝らしても、背の高い木はほとんどなく、視界を埋めるのは一面に広がる野草だけ。日陰はどこにもなく、強烈な日差しが容赦なく降り注ぐ。
何気なく野草に目を向けると、黄色い菜の花の茎に小さな白い殻がびっしりと貼り付いている。近寄ってよく見ると、それは直径1センチくらいのカタツムリだった。でも、カタツムリといえば雨の日の風物詩。幼い頃の記憶では紫陽花とセットになっているけれど、それも紫陽花が梅雨時に咲く花だからだろう。この炎天下にカタツムリと遭遇したのが信じられない。
生きているのかどうか確かめたい。そう思って白い殻に触れてみたら、火傷しそうなほどの熱さに驚いてすぐに手を引っ込めた。
思わずひとりで苦笑いして、誰か知り合いに見られていたら恥ずかしいなと思って周りを見回した。でも、知り合いどころか、僕の前にも後ろにも、歩いている巡礼者なんかひとりもいなかった。この見晴らしの良い巡礼道で人っ子一人見当たらない。
みんなロス・アルコスの宿に散っていったのだろうか。確かに、日差しが最もきつい時間帯を避けて宿に入るというのは合理的なやり方だ。炎天下でカタツムリの殻に手を出して火傷している僕とは違うというわけだ。
ふと、怖い考えが頭に浮かんだ。もしいま日射病にでもなって倒れたらどうなるんだろう? みんながロス・アルコスで足を止めてしまえば、明日まで誰もここを通らない。僕が発見されるのは翌朝の8時だった……なんてことになりかねない。
足元に目をやると、乾いた土の上に蛇の抜け殻がのび、その先にはネズミの死骸が転がっていた。
思わず立ち止まり、教会の水道で汲んだペットボトルの水を少し口に含んだ。ぬるくなった硬水のいやな苦さが舌に広がった。
背の高い木が一本だけぽつんと立っているのが見えた。わずかな日陰にすぎないかもしれないけれど、あそこまで行けば少しは休めるだろう。とにかく、進まなければ。ウルトレイヤだ。
サンソルは本当に小さな集落で、どれくらい小さいかというとバルやレストランが1軒もないくらい小さい。さっき歩きながら見かけたミニスーパーも扉に鍵がかかっている。……まさか食べ物にありつけないなんてことはないだろうな。この日の宿に僕が選んだのは民泊で、食事の提供はないのだ。
幸いなことに、歩いて5分の場所にあるアルベルゲの食堂で夕飯を食べられると分かった。アルベルゲのレセプションで「夜7時なんだけど、いま予約しておく?」と聞かれ、空腹の状態で3時間も待てるか心許なかったけど、ほかに選択肢はない。2つ返事で予約した。
受付にいたのはまだ20代前半の若い女性。台湾から来たそうだ。サンティアゴ巡礼をすでに1度達成していて、いまは2度目の最中なのだが、しばらくこのアルベルゲでボランティアを務めることにしたという。
「前回はいろんな人がわたしを助けてくれたから、今度は自分の番かなって」
これは僕にも共感できる。四国遍路でも、自ら歩いて結願し、その時に助けてもらった恩返しとして接待所を開く人がいる。巡礼で受けた恩を、巡礼で返す。ポジティブな輪の広がり方だなあ、と思う。
さて、夜7時に食堂へ顔を出すと、すでに7人の巡礼者がテーブルを囲んで盛り上がっていた。なるほど、予約制というのはこういうことだったのか。各自で料理を注文するのではなく、大皿に盛られた料理が順番に取り分けられるスタイル。夕飯の形式うんぬんよりも、英語で会話するのが面倒だなあと思いつつ、手前の席に座った。テーブルの上の赤ワインがもうだいぶ減っている。
すぐに目の前のお皿に料理が盛られた。フキのような野菜と小さく刻んだベーコンらしき肉をしょっぱく煮込んだもので、伝統的なナバラ地方の料理らしいけれど、「え、まさか夕飯これだけ?」と愕然とする。
会話はひとまず聞き流し、まずは食べることに専念する。味は僕好みだ。2回目のお代わりの時にトマトの乗ったポテトオムレツが出てきた。最初のフキ料理で腹一杯にするつもりで食べていたので、ポテトオムレツにはもうあまりそそられなくなっていたけれど、とりあえずフォークで一口大に切って口に運ぶ。会話もそこそこに食べ続けていた僕を見て、ほかの人たちはさぞかし空腹だと思ったのだろう。余っていたポテトオムレツが全部僕のところに回ってきた。いや、さすがにもう食べられないんだけど。
食べるのがひと段落して、赤ワインをチビチビとやり始めた僕に、斜め向かいの女性が話題を振ってきた。
「日本には八十八ヶ所のお寺を訪ねる巡礼があるわよね?」
日本と聞けば、普通ならフジヤマ、ゲイシャと来るべきところを真っ先にお遍路というあたり、さすが巡礼者だ。カミーノを数百キロも歩こうという人は情報の選択が偏っているのかもしれない。
「そう、四国っていう島にあるんだ。全部で1200キロ。僕は2年前に歩き通したよ」
そう答えると、一同の顔に尊敬のまなざしが浮かんだ。巡礼をしようという人たちはどうやら価値観にも偏りがあるようで、長距離を歩いたことが一種の勲章のように評価されるらしい。正直、満更でもない。
ちょっと嬉しくなった僕は、サンティアゴ巡礼と四国遍路の違いについて得意げに話し始めた。
「サンティアゴ巡礼と違って、四国遍路には『時間の制約』があるんだ。88か所の札所には納経所があって、ご朱印をもらうためには朝7時から夕方5時までの間に到着しないといけない。だから、どんなに体力があっても、その時間を超えて進むことはできないんだ」
みんな、興味深そうに耳を傾けている。ワインを一口含んでさらに続ける。
「それに、四国遍路には「お接待」という文化がある。地元の人がお遍路さんを労って食べ物や飲み物を施してくれるんだ。これは目の前のお遍路さんだけじゃなく、弘法大師に差し上げるのと同じだけのご利益がある。少なくとも、そう考えている人は多いよ。カミーノでもたまに、巡礼のために果物やお菓子を用意してくれる場所があるけど、寄付箱を備えてあることが多いよね。そこがお接待とはちょっと違うかな」
テーブルを囲んだ巡礼者たちがうんうんと頷いていると、隣に座っていた中年の男性がふいに口を開いた。
「四国遍路とサンティアゴ巡礼、お金がかかるのはどちらの方なんだい?」
考えたことがなかったけれど、確かにどうなんだろう? ちょっと間を置いてから「サンティアゴ巡礼かな」と答えると、みんな一斉に「えー! 信じられない」という反応。
「だって、四国巡礼は八十八ヶ所のお寺でそれぞれお金を払わないといけないんだろ?」
別の男が口をはさんだ。彼が言っているのは納経料のことなのだが、いやあ、本当によく知っているなあと僕は舌を巻いた。
確かに札所に付き500円だから(去年までは300円だった)合計で4万4千円は決して安くない。それに引き換え、サンティアゴ巡礼で集めるスタンプは基本的にタダだ。でも、とりわけ円安の現状を考えると、食事や宿泊にかかる費用はサンティアゴ巡礼の方がはるかに高い。実を言うと、サンティアゴ巡礼を終える頃には僕の考えも少し変わっていたけれど、この時点での僕の考えはそうだった。
ひとしきり、巡礼・遍路談義に花を咲かせたあと、夕飯を食べ終わったら教会のミサへ一緒に参加しないかと誘われた。「いいね、巡礼手帳にスタンプも押せるし」と答えると、その場の全員が腹を抱えて爆笑した。え、そんなに面白いこと言ったか?
巡礼たちの感覚というのはちょっと普通とは違うのかもしれない。
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