第2話 考えなしの皇子様 ①

 もう四月だが、宮殿の中はどこもひんやり冷たい。堅牢な石造りの宮殿は、今でこそ宮殿と呼ばれているものの、元々はマーロがまだ小さな都市国家だった頃に霊廟として建てられたものだ。それからいくたびの戦乱の中で城塞として増築され、複数の建物や塔を持つに至り、現在はマーロ帝国皇帝陛下の居城として利用されている。いまや大陸の西の覇権を握っている大帝国の中心として表門や大広間は大理石や彫刻で豪奢に飾られているが、そんなのはしょせんハリボテ。裏に回れば無機質で質素な空間が広がっている。

 マーロ帝国の第四皇子アレックスは、広大な宮殿の隅にある練兵場から第二図書室に向かって中庭の回廊を小走りに駆けていた。アレックスは九歳。明るい金髪に濃いグレーの瞳は生気にあふれ、白い肌はほんのり上気している。

 これならリン先生の授業にギリギリ間に合うだろう。アレックスは図書室に駆けこんだ時のリン先生の反応を想像して小さく笑った。リン先生は綺麗好きだから汗臭いとプリプリ文句を言うだろう。でも最後には礼儀より熱意を買ってくれる。

 組手や剣術といった体の訓練はきついが、ある意味、楽だ。動くのは好きだし、日々強くなっている充実感と達成感がある。だが頭の訓練は、やればやるほど苦しくなる。リン先生は優しいし、九歳のアレックスにたくさんの事をわかりやすく教えてくれる。だがアレックスが思考を止めることは許さない。脳みそで汗をかけと、どれだけ苦しくても考え続けろと言われる。

 アレックスが優しいけど厳しい授業に向かっていると、柱廊のなかほどで二人の女性が何事かを話しているのに気付いた。いや、話ではなく叱責だ。黒い足首丈のドレスに白いエプロンを締めた背の高い女性が、亜麻色のチュニックを着たずんぐりした女性を、一方的に怒鳴りつけていた。

「もう! なんど言ったらわかるの!? あんたたちのチュニックは洗濯板で適当に洗っていいけど、同じ麻でもセンダルで糊付けしてある麻は高貴な人用なの! 高級な麻は手洗いで素早く! 水に漬ける時間もなるべく短く! 見てわからない!? 手で触っても感触が全然違うでしょう!? なんで一緒の桶でゴシゴシ洗っちゃったのよ! 信じられない!」

「は、はい、もうしわけ、ありません」

「前も申し訳ない申し訳ないって謝っていたけど謝ればいいと思っているでしょう!? 誰がこの失敗の尻拭いをするの!? 私がカーラさんに謝らなきゃならないのよ!? カーラさんは更に上の人に謝らなきゃならない! 台無しになったこの麻の弁償は誰がするの!?」

「は、い、もうしわけ、ないと」

「ねえなんで!? なんで同じことを繰り返すのか本気でわからない! ちょっとは覚える努力くらいしたらどうなの!?」

「……」

「返事くらいしなさいよ!」

 黒服の女性がヒュッと手を振り上げたので、アレックスは慌てて駆け寄った。いくら女性同士とはいえさすがに暴力は見過ごせない。アレックスは二人の後ろから大声で呼びかけた。

「あの!」

 甲高い子供の声に、黒服の女性が振り返り驚きで目を見開いた。

「え、あ、まあ! アレックス殿下!」

「はい、あの」

「まあまあ! お見苦しい所を! 申し訳ありません! この奴隷にはきちんと言い聞かせておきますので!」

「いえ、あの」

「ああ、もう、全部この奴隷のせいです。この奴隷ったら本当に覚えが悪くて困っているんですよ。これだから南方あがりの奴隷は嫌ですわ。しつけがなってなくて、怠惰でサボることばかり。六年前だって働くのが嫌だというだけであんな大反乱を起こして。社会の一員である以上、労働はあたりまえの」

「あの!」

 愚痴が続きそうだったので、アレックスは再度大声で遮った。黒服の女性が口をつぐんだ隙に、なんとかこの場を収める策をひねり出す。

「あの、ですね、あなたは洗濯の失敗が気がかりでいらっしゃる、ですよね?」

「え、いえ、殿下、気がかりなんてそんな。ただこの麻のドレスはラフンドルリネンという高級な糊付け生地を使っていまして」

「僕が謝ってきます」

「え?」

「僕が謝ってきます、この女性と一緒に」

「まあ、殿下!」

 とにかくこの二人を引き離すのが先決だ。アレックスはカーラさんとやらを知らないが、リン先生に聞けばいいだろう。アレックスはサッと足元の洗濯桶を抱えると、奴隷の女性に行きましょうと声を掛けようとした。

 だが声を掛ける前に、突然、黒服の女性が奴隷の女性に激高した。

「アンタのせいよ! アンタがバカだから私まで殿下に呆れられたじゃないの!」

「え、いや僕は」

「もういや! 私は何度も教えたわよ!? どうして覚えられないの!? どうして覚えようと努力すらしないの!? 何度も何度も同じ失敗を繰り返して! 洗濯すらできないのになんでここにいるの!? ここは皇帝陛下の宮殿なのよ!? 私はめちゃくちゃ努力してここにいるのに! なんでアンタみたいな無能が」

「それは陛下がお決めになったからですねえ」

 激しい怒りの奔流にアレックスは呆気に取られていたが、後ろからのんびりした声が聞こえてハッと振り返った。そこにはリン先生が立っていた。

リン先生はいつものニコニコ顔で、驚きに固まっている黒服の女性に話しかけた。

「洗濯女中のアンジェラさんですよね? はじめまして、アレックス殿下の家庭教師でリンと申します。あ、アンジェラさんのことは女中頭のカーラさんから聞いていまして。カーラさん、アンジェラさんは知識が豊富で丁寧なのに仕事が早いって褒めていましたよ?」

「……」

「アンジェラさん、あなたは優秀で、加えて努力も怠らない。これはすごいことですよ、誰にでもできることじゃない」

「……」

「でもだからこそ、ちょっと考えてみてはくれませんか? 誰しもアンジェラさんのようにやればできる訳ではないし、努力ができる訳ではないかもって。アンジェラさんは他の人とは違うからこそ、この宮殿に登用されたのでしょうし」

「……」

「ごめんなさいね、無理言って。やっぱり駄目?」

「……」

 リン先生は三十過ぎのオバチャンだが、少女のように可愛らしく小首を傾げてみせた。黒服の女性はしばらく呆然とリン先生を見つめていたが、興奮が収まったのかなんなのか、アレックスの腕からそっと洗濯桶を引き取った。

「……御前、失礼します。アレックス殿下、リン様」

 黒服の女性はその場から歩み去った。その後ろ姿は、フラフラというかトボトボというか、なんだか憔悴しているように見える。

 アレックスが心配そうにリン先生を見上げると、それにリン先生はニッコリ笑い返し、俯いてジッとしている奴隷女性の後頭部に話しかけた。

「ね、あなたの名前を教えてくださる?」

「……ハ、ハディヤ、です」

「ハディヤさん、はじめまして。リンと申します。と言っても、さっき聞いていらっしゃったわね」

「……」

「さっきのこと、気にするなって言われても気にしますよね。あなたはどうしたいですか?」

「……」

「ごめんなさい、質問が漠然としていましたね。長期的な将来展望とか失敗を繰り返さないための改善策とか、そんな小難しいことを聞いている訳じゃないんです。この次の瞬間、あなたはなにをしたいのかということだけ」

「……」

「アンジェラさんにパンチを食らわせたい? カーラさんに辞表を叩きつけたい? 部屋に戻って休みたい? お水を一杯飲みたい? どこでもいいから一人になりたい?」

「……」

「ハディヤさん、時間はたっぷりあります。次の一秒後にあなたはなにをしたいのか、ゆっくり考えてください。考えなきゃ次の一歩は出ませんよ?」

「……」

 問われても奴隷の女性はずっと俯き無言のままだった。リン先生も辛抱強く回答を待つ。だが一分が過ぎ、二分が過ぎても、奴隷の女性は俯いて無言のままだった。会話から取り残されたアレックスは、自分が回答を求められている訳でもないのに、自分が問い詰められているような緊張を味わっていた。

 三分が過ぎ、ようやく奴隷の女性は口を開いた。

「……ひとりに、なりたいです」

「わかりました。一人になれる場所はありますか?」

「……はい」

「お水かなにかをお持ちしましょうか?」

「……いえ」

「わかりました。さっきは面倒くさい質問をしてごめんなさいね。これでも普通のおしゃべりもできるの。私の部屋は北館の三階、ドアに青い小鳥が描いてあるの。鍵はかかっていないから、いつでも遊びに来てくださいね、ハディヤさん」

「……」

 はいともいいえとも言わず、奴隷の女性は深々とお辞儀をすると、重い足取りで去っていった。

 二人きりになって、アレックスは詰めていた息をようやく吐いた。それにリン先生はニッコリ笑いかけた。

「殿下からあの二人に話しかけたのですか?」

「はい、最初は叱責だけでしたが、暴力に発展しそうだったので、つい」

「まあ、大人のケンカに割り込むとは度胸がありますね」

「いえ、度胸というか、僕は皇子ですから身分を盾にすればいけるかなと」

「あはは、いずれにせよ良い判断をなされました」

「リン先生の教えですよ。強い者こそ力の使い方を学ぶべきって」

「ええ、殿下は権力の使い方をわかっていらっしゃる」

 褒められたものの、アレックスは情けなさそうな顔をした。

「いえ、まだまだ未熟です。僕が話しかけてもあの二人を止めるどころか、ますますエスカレートさせてしまった。リン先生が来てくれて助かりました」

「いいえ、私の存在はあの二人にとってなんの意味もありませんでした」

 リン先生が謙遜していると思ったアレックスは否定の言葉を言おうとしたが、その前にリン先生が続けた。

「どだい言葉一つで誰かの考えを変えるなんて無理な話ですけど、あの二人に私の言葉など微塵も響いていませんでした」

「そうですか?」

「そうですよ。アンジェラさんは自分ができることは他人もできて当然と思っている。謙虚を思い違いしている人が結果を出してしまうと陥りやすい思い込みですよ。人間なんて容姿も性格も違うことだらけなのに生まれ持った能力だけは同じなんて、そんな訳ないじゃないですか」

「ははあ、なるほど?」

「ハディヤさんは、自分の気持ちを口にするのが怖いのね。いえ、気持ちの言語化が難しいのかもしれない。そんな人に、考えろ、言葉を出せなんて無茶な要求でした。たぶん一人になりたいっていうのも私の言葉を繰り返しただけでしょうし」

「リン先生、ひとついいですか?」

「なんです? 殿下」

「南方あがりの奴隷って、どういう意味ですか?」

 マーロは周辺諸国と同様、奴隷が存在している。宮殿の至るところにも奴隷はいるが、その能力によって仕事は多岐にわたっており、見た目や服装だけでは奴隷かどうか判別できない。ましてや出身地など。だがあのアンジェラという女性は、南方あがりという言葉を使ってハディヤという女性を詰っていた。

 アレックスの質問に、リン先生はちょっと表情を引き締めて答えた。

「殿下、南方のダーマラダという町はご存じですか?」

「はい、名前だけは」

「六年前、その町で奴隷の反乱が起こり、あっという間に周辺の町にも反乱が伝播しました。そのことは?」

「はい、近衛の一人がその鎮圧に従軍したと言っていましたから」

「その反乱による死者はおよそ八千。貴族も、自由民も、奴隷も、多くの者が死にました」

「……はい」

 一語一語を区切って話すリン先生の口調はカラカラに乾いている。その荒漠さにアレックスも短く返事をするに留めた。

 リン先生は一つ息をつくと、話を続けた。

「ダーマラダの領主一族も反乱奴隷に殺されました。現在、彼の地は皇帝陛下の直轄地となっていますが、行き場を失った奴隷たちを陛下が宮殿に引き取ったのです」

「行き場を失ったというのは? ダーマラダではもう働き口がなかったのですか?」

「街も農地も酷い有様でしたからね。そんな中で、年老いた奴隷、病んだ奴隷、知能に遅れのある奴隷、そういった奴隷たちをダーマラダの市民が買い取る余裕はありませんでした。そこで陛下は彼らをこの宮殿や直轄地の農園で引き取ったのです」

「そうでしたか。じゃああのハディヤという女性も」

「ええ、その内の一人だと思います。ですがそのことで不満は出ているようですね。奴隷は本来、仕事が出来なければ打ち捨てられるだけですから。ダーマラダの奴隷にだけ厚遇過ぎる、働けない者を税金で養うのか、と議会に陳情があったと聞きました」

「……」

「アンジェラさんは努力してこの宮殿で働く地位を勝ち取りました。それなのに他人の失敗の尻拭いをいつもやらされている。彼女の不満もわからなくはありません」

「……」

 弱者に対する社会保障をどうすべきか、公平さをどう保つべきか。九歳の子供には大きすぎる問題に、アレックスは黙り込んだ。マーロ帝国は繁栄しているが、その内には大小さまざまな不満や矛盾を抱えている。自分は皇子だ。ゆくゆくはこういった問題にも取り組んでいかねばならないだろう。

 アレックスは自分を鼓舞するように小さく頷くと、リン先生にお願いした。

「リン先生」

「なんでしょう? 殿下」

「アンジェラさんとハディヤさんの件、今の僕には荷が重すぎます」

「はい」

「でも二人ともマーロの民です。いつか彼女たちが納得のいく解決策を出せれば、いえ、出したいと思っています」

「はい」

「それまで、リン先生、僕の先生でいてくれますか?」

「はい、もちろん。私は殿下を応援していますからね」

 アレックスとリン先生は互いにニコッと笑い合うと、二時を知らせる鐘が遠くで鳴り響いた。リン先生は北塔の時計をチラと見ると、苦笑してアレックスを促した。

「二人そろって遅刻ですね。早く図書室へ行きましょう。殿下、宿題はやってきましたか?」

「あー、もし僕が三十年前のカンバルの将官だったらゾディア海戦をいかに勝つか考えてこい、でしたっけ」

「そうですよ。過去の失敗をねちっこく洗い出してみましょう。殿下は軍事がお好きですからね、楽しそうでしょう?」

「いや、全然ですね」

 仲の良い師弟はああだこうだ話しながら第二図書室へ向かった。

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