第5話

「……緋央ひおうさま……?」

「正妃としての契りも破却とし、今をもって白紙だ。俺はもう後宮に来ない」


 そうして形のいいくちびるは、朱華しゅかの最も聞きたくなかった言葉を紡ぐのだ。


「もう二度と、死ぬまでな」

「……っ!!」


 その瞬間、身体中の血が凍りついたかのような心地になった。


「今日はそれだけを伝えに後宮に来た。……もう戻る」

「……緋央ひおう、さま」

「それと」


 振り返った緋央ひおうは、冷たいまなざしのままこう続ける。


「案ずるなら俺ではなく、自分の身を先にすることだ」

「…………」


 後に取り残された朱華しゅかは、しばらくそのまま呆然と、渡り廊下に座り込んでいた。


***


 緋央ひおうの死期まで残り三日。


 後宮でひとりぼっちの朱華しゅかは、半ば呆然としながら庭を見つめていた。


(……緋央ひおうさま、今日は何をして過ごしていらっしゃるのかなあ……)


 朱華しゅかが手元に広げた巻物は、数日前に緋央ひおうに読ませてあげた本だ。

 朱華しゅかにとってはとうの昔に読み終えた物語なのに、緋央ひおうが読んでいた物語だと思うと、ついまた読み返したくなったのである。


(あれから緋央ひおうさまは、一度も後宮にお見えにならない。けれど)


 朱華しゅかがちらりと一瞥したのは、自分の元に運ばれてきた今日の朝餉だ。


(私のところに運ばれてくるご飯は、いままでの水みたいなお粥だけじゃなくて、緋央ひおうさまが手配してくれたご飯……)


 あのときの緋央ひおうは、まるで朱華しゅかのことが邪魔で嫌いになったかのように冷たい振る舞いだった。


『――俺は金輪際、お前に関わるのをやめる』

「……っ」


 彼の言葉を思い出すと、心臓が抉られたかのように痛い。


(だけど)


 朱華しゅかはきゅっと体を丸めつつも、首を横に振った。


(あれはきっと、緋央ひおうさまの本心じゃない。……ううん)


 顔を上げ、きりっと表情を引き締める。


(たとえ本心でも、関係ない……!)


 心の中にある想いは、たったひとつだ。


(あの人を死なせたくない。――怖い思いも痛い思いも、苦しい思いもしてほしくない)


 ただ、それだけだった。


緋央ひおうさまは『どうでもいい』だけで、死にたい訳じゃない。……生きるのがどうでもいい人に、生きていて良かったと思ってもらえるまで、何度でも挑まなきゃ)


 緋央ひおうの死期を知っているのは、彼自身と朱華しゅかだけだ。


(あと三日なんかじゃ、全然足りない!)


 朱華しゅかは決意し、後宮の庭を駆け出した。


 そんな朱華しゅかの姿を見た他の姫たちが、驚いて声を投げつけてくる。


「ちょっと、『冥妃』さまが日中にうろつかないでよ!」

「そっちは花の庭よ! あなたみたいな人が近付いたら、花が枯れてしまうわ!」

(小さな頃からそう言われて、人目に触れる場所や時間は外に出ないように気を付けてきた。でも)


 花畑を囲う塀の向こうに、緋央ひおうの住まう宮殿の屋根が見える。


(後宮の中でここが一番、緋央ひおうさまに近い場所。だから)


 朱華しゅかは立ち止まると、彼女たちに向けて宣言した。


「……その通りです」

「え……?」


 これまでどんなことを言われても、言い返さずに耐えてきた。そんな朱華しゅかが言葉を発したのを、姫たちがたじろいで見詰める。


「私はこれからこの花畑で、世にも恐ろしい儀式の支度をいたします。命が惜しいと感じられるお方は、決して近付かれませんよう……」


 朱華しゅかは冷たいまなざしを作り、妖艶に笑う。それを見た彼女たちがごくりと喉を鳴らし、一歩後ろに下がった。


 強い風が吹き、朱華しゅかの赤い髪が靡く。


 煽られた無数の花びらが舞い散る中で、これまで冥妃の身に注がれてきた恐れを利用して、朱華しゅかは言い切った。


「――次にこの花畑で私の姿を見れば、忌むべき死があなた方に襲い掛かるでしょう」

「ひ……っ!」


 みんなが一様に逃げ去って、朱華しゅかは心の中で拳を掲げる。


(やったあ! 緋央ひおうさまの冷たそうな表情の真似、大成功だわ! この一ヶ月近くの『作戦』で、緋央ひおうさまの表情がぴくりとでも動かないか観察し続けてきてよかった)


 結果としてあの表情を動かせた回数は少ないのだが、目を瞑っていても緋央ひおうの顔が思い浮かぶほどに詳しくなった。

 怖がらせてしまった人たちには申し訳ないものの、誰もいなくなった花畑の隅で、高い壁に触れて考える。


(よし。……この壁を越える方法を、考えないと!)


 そして朱華しゅかは、ううんと首を傾げる。そしてひとつ、閃いた。


(……死期見をする楼の、あの縄飾り……)


***


 新皇帝である緋央ひおうは昔から、ずっと母にこう呪われてきた。


『お前はね。他人の死を呼ぶ存在なのよ』


 痩せ細った母が緋央ひおうを見る目は冷たく、憎しみがこもったものだった。物心ついた幼い頃から、これ以外の母の顔を見たことはない。


『……三人もいたお前の兄たちは、お前が生まれてから命を落とした。お前が生まれた直後に、陛下の病が露見して、残り十五年しか生きられぬと……。お前が生まれる少し前に見た死期は、もっと未来を示していたというのに……!!』


 一度見た死期も何かのきっかけで変動することを、朱華しゅかに言われる前から知っていた。その理由は緋央ひおうの父こそが、あるときから大幅に死期が近くなった張本人だったからだ。


『皇后陛下、床にお戻りくださいませ……お体に障ります。殿下、あちらでお勉強を』

『私もこの子に殺されるのよ……! 緋央ひおうが生まれてくる前に、死期見の女に私の子供たちを見せていれば!! 緋央ひおうが死を呼ぶ子供だと分かっていれば、お腹にいたうちに殺してしまったものを……!!』


 その言葉を耳にした幼い緋央ひおうは、そのとき考えたのだ。


(俺がいると、みんなが死ぬ)


 そしてこうも考えた。


(俺が死を呼ぶ人間ならば、戦場に出ればいい。周りに味方を近づけなければ、死ぬのは敵兵だ)


 勉学だけではなく剣術を学んだ。周りに人を近付けないように、人から距離を置いた。


 その行動は正解だったらしく、緋央ひおうが戦場に立てばあっさりと敵が死ぬ。母が死に、父が衰弱しはじめてからは、無心で剣を振るった。


 振るって、殺し、斬り続けた。長らく続いていた各国との戦争が、この国の圧勝で終わってしまうほどに。


(……ああ)


 戦場で無数の屍の中央に立った緋央ひおうは、勝利を告げる自軍の旗が翻るのを見てぼんやりと考える。足下に転がるのは、緋央ひおうによって生み出された死の軍勢だ。


(母上の仰っていたことは、本当だった)

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