葬歌の旅路
clows
灰の国に響く歌声
第一話
──風が、死者の名を囁いた。
陽が傾き、空が琥珀と灰のグラデーションに染まるころ。
静かに
かつて、ここは大地の契りを司る精霊と人々が祈りを捧げた、聖なる都だった。
だが今や、その象徴であった巨石は崩れ、苔と風にさらされた霊廟は、まるで大地に穿たれた口のように闇を抱えている。
気配は、ある。音も、息づきも。しかし、それは命ではなかった。
オルメガは黙して竪琴を取り出す。その指が静かに弦を撫でると、ひと筋の音が空を震わせ、旋律は重く、ゆるやかに大地へと沁み込んでいく。
「……我が唄よ、還りし魂を導け」
それは言葉ではなく、響き。
魂と魂を繋ぐ“名”の呟き。
彼の唄は、名を失ったものに名を返す。
失われた命に、終わりの形を与える。
石と灰に覆われた地に、霧のような影が現れた。
精霊のなれの果て…名を喰われ、形を失い、呻きながら彷徨う亡骸。
影はゆらり、と空中に浮かぶ。無貌のそれに感情はなく、ただ痛みだけが漂っていた。
「……ここでは、眠れぬか」
オルメガはまた弦を弾いた。
その唄に込められるのは、祈りと、赦しと、別れ。
影が揺れる。
苦悶──、そして微かな安堵。
だがその時。
「止まれ! 武器を捨てろ!」
鋭い怒声が背後から飛ぶ。
一瞬で空気が張り詰め、風が止まった。
地を蹴る足音。布が擦れる音。金属の鈍い響き。
振り返ると、十数名の武装者が、弧を描いて彼を囲んでいた。
粗野な鎧、混成の武器…だが、その目だけは獣のように鋭い。
「おい、見たか。あれ……精霊じゃねぇのか?」
「唄だぞ。擬態の手先って話じゃなかったか?」
「生きてるかどうかも怪しい顔だな……近づくな!」
その瞬間。ひとりが剣を抜き、鋼が閃いた。
──空気が裂ける。
火花が散り、刃はオルメガの竪琴の弦をかすめる。
音が歪み、風の流れが乱れた。
「……交戦意思はない」
オルメガは構えることなく言った。
だが、誰ひとりとして耳を傾けなかった。
「拘束しろ!」
敵意と恐怖に突き動かされ、男たちは動く。
短剣と鉄棒が振るわれ、影が踊った。
オルメガは静かに呼吸を整える。風の流れを読む。
短剣が迫る。風を裂いて、刃が右肘を狙う。
──三拍子目で、右から。
オルメガは一歩も動かず、ただ竪琴を傾ける。
柄で刃を受け流し、半身で鉄棒の一撃を避けた。
そして、反転する体勢のまま、左手が弦に触れる。
その瞬間、“音”が空気を裂いた。
澄んだはずの旋律は、耳元で爆ぜるように歪む。
低音と高音が同時に波打ち、
聴覚をねじるような振動が、脳の奥を直撃した。
「ぐっ……!」
「耳が、音がっ……何だ、これ……」
男たちの足が止まる。
剣を振るおうとした筋肉が、命令を失ったように硬直する。
それは音ではない。共鳴する“干渉“だ。
骨を伝い、神経を揺らす、不可視の刃。
風すら触れない音圧が、彼らの思考をかき乱す。
「目眩ましだ、包囲を保て……っ!」
指揮の声が響く。だが、その声すら、鼓膜の奥で揺れていた。
オルメガは動かない。ただ竪琴を抱き、指先を離さずに旋律を織り続ける。
唄うようでいて、唄ではない。音楽のようでいて、戦術。
それが唄人の“抑止”名なきものに名を返し、敵意に静寂を与える術。
「……それ以上は、やめておいた方がいい」
静かな声が、逆に恐怖を誘った。
ひとりが、口を噤む。もうひとりが、武器を握る手を震わせる。
音はまだ止んでいない。
竪琴が鳴らすのは、敵意を殺す鎮静の歌。戦場における“終息の呪”。
「……交戦意思はない」
再び放たれた言葉に、今度は誰も口を開かなかった。
その静寂を断ち切ったのは、もっと重く、もっと地を揺らす声だった。
「全員、下がれ!」
空が震えるような声が響いた。囲みが割れ、岩のような男が歩み出る。
青褐色の短髪、広い肩、鍛え抜かれた体。
手には双剣。だが、その刃先は下を向いていた。
「……オルメガ。まさか、本当にお前だったとはな」
翡翠の瞳と、鋼の瞳が交わる。
「久しぶりだね、ダルシュ」
長い沈黙のあと、男たちは剣を収めた。
__________
その場所には、まだ世界が壊れる前の匂いがあった。
バリュク・グランの神殿裏庭。
聖域でありながら、誰もが気を抜ける“隙”のある場所だった。
石環の隙間に咲く花が、名も知らぬ風に揺れている。
白と青の、小さな花。その名を知る者は、もういない。
「……なあ、また唄ってくれねーか」
土の匂いを纏った少年が、腕を組んで立っていた。
声は拗ねていたが、瞳には真剣さが宿っていた。
「さっき唄ったばっかりじゃないか。……まさか、途中で寝てた?」
「寝てねぇ! 聞き入ってただけだ」
「じゃあ、聞き入ってる最中によだれ垂らすのは、君の流儀?」
「ぶっ飛ばすぞ!」
怒鳴った拍子に、鳥が一羽、枝を蹴って飛び立った。
空へ昇るその影を見上げながら、少年は竪琴を構える。
ひとつ、弦を鳴らす。
風が、その音に誘われるように吹き抜けた。
柔らかく、それでいて遠くの鐘のような響きが、空に消えていく。
その音には、精霊の囁きが混じっていた。
「……なぁ」
「んあ?」
「全部の精霊の“名”を覚えて、唄にしてみたいんだ」
唐突に聞こえるそれは、少年にとっては揺るがぬ夢だった。
弦の響きを手繰るように、彼は続けた。
「名があるってことは、誰かがそこに“いた”ってことだろ?
それを唄にすれば、きっと、誰かが忘れないでいてくれる」
「でも、お前……それ、何千、何万ってあるぞ?」
「それでも、唄ってみたいんだ。
一つひとつ、名を呼んで、帰る場所を作ってやりたい」
風が、ぴたりと止んだ。
少年の言葉に、空気が静かに寄り添っていた。
もう一人の少年は、黙って石に腰を下ろし、拳を握ってぽつりと呟く。
「……お前、変わってるな。だけど……そういうとこ、ずるいよ」
「なにが?」
「お前って、遠くばっか見てるくせに……目の前の奴のことも、ちゃんと見てんだ」
その言葉に、少年は少しだけ戸惑ったような顔をして、
それから、静かに笑った。
「じゃあさ、忘れてもいいよ。
また会えたら、その時にもう一度唄ってやるから」
その瞬間、風が吹き抜けた。
花が揺れ、竪琴の弦が、誰にも触れられずにひとつだけ鳴る。
まるで、未来の自分たちへと送る、音の手紙のように。
少年の唄が、空の高みに、静かに滲んでいった。
──そして次の瞬間、空が裂けた。
それは、世界の崩壊のはじまりだった。
神殿が震え、石が裂け、契りの根が断たれてゆく。
叫び、怒号、風、血の匂い。
空の色が反転し、精霊たちの悲鳴が、森を満たした。
「オルメガ!!」
彼の声が、瓦礫の向こうで響いた。
竪琴の弦が切れ、少年の手が風に弾かれる。
「ダルシュ!! またな!!」
叫びは、届いたのかすら分からなかった。
風が、その名を呑み込み、遠くへと攫っていった。
──その別れは、永遠になるはずだった。
けれど、運命はふたたびふたりを交差させる。
滅びた王国の残響と、未完の唄を抱えて。
──時は、戻らない。
あの日、風に攫われた約束の音。
それを聞いた少年たちはもういない。
だが今、ふたたび、その唄の余韻が、地の底から呼び起こされている。
_____
《竜の処刑場》。
罪を背負った古き竜が、自ら命を絶ったとされる断崖の聖地。
赤錆びた風が吹き荒れ、朽ちた供養碑が、数える者のいない名を刻んでいる。
今ここで、ふたたび命の選択が、静かに問われようとしていた。
「……この場所、覚えてるか?」
ダルシュの声が、風に乗って響く。
双剣を腰に下ろしたまま、沈黙の岩場に立つ彼の背は、かつてより広く、影はより深くなっていたがその眼だけはあの日と変わらず、確かにオルメガを見つめていた。
「うん、覚えてる……お前と、ここで喧嘩したことも」
オルメガは竪琴をそっと撫でながら、微笑むように言った。
「お前が唄った竜の歌、まったく似合ってなかったって言って怒られたぜ」
「ひどいな。あの頃まだ声変わりもしてなかったのに」
ふ、と二人の間に小さな笑いが生まれる。
だが、それはすぐに風にさらわれた。
その笑い声が、いまやこの場所に似つかわしくないほど、儚く、眩しかったからだ。
「……ここ最近、増えてきてるんだ」
風の切れ間に、ダルシュの声が落ちてきた。
「“奴ら”がな。名を喰われ、記憶も失って、ただ恨みだけで動いてる。
死んだ精霊が亡霊になって、それを見た生き残りがまた壊れて……悪循環だ」
「唄じゃ届かない?」
「届く奴もいる。けど、だんだんと減ってる。
精霊の本質は“契り”にある。だが……今の時代、その“契り”自体が、もう腐っていやがる」
オルメガは目を伏せ、竪琴を抱き直す。
その音色も、すべてを癒すにはあまりにも遠すぎた。
「だから“七契の残響”を追ってる。あれは……精霊王が残した、最後の“本当の契り”だ。それがどこかにまだ息をしてるなら、俺たちは…この滅びを、少しでも先延ばしにできる」
「……後戻りじゃなくて、延命か」
「そうだ。それしかできねぇ。だが、それでもやらなきゃならない」
ダルシュの拳が、無言のまま岩を握る。
その掌は、剣を振るうそれではなく、誰かの命を掴もうとするように震えていた。
「……なあ、ダルシュ」
「……ああ」
「お前、誰かを守る顔してるよ。俺じゃない。もっと……近い誰かを」
風が、一瞬だけ止まった。
「……鋭いなぁ、お前は」
「昔からの付き合いだからな」
しばしの沈黙のあと、ダルシュは小さく息を吐いた。
その声は、戦士ではなく、ひとりの男としてのものだった。
「……混血だ。風と人間の、両方を継いだ娘。
強いけど、脆いとこもある。名は……コルネ」
「……混血か」
オルメガの声がわずかに揺れた。
精霊でもなく、人間でもない存在。
王国が健在だった頃、それは“契りの外側”にいる者として扱われた、境界の子。
「そいつは、強いよ。戦うときも、笑うときも。
けど、夜にひとりになると、ふっと魂が抜けたみたいな顔をする」
「……それを見て、お前は、側にいたくなったんだな」
ダルシュは、黙って頷いた。
その頷きには、語らぬ想いと、赦しきれぬ過去と、
それでも消せなかった希望とが、すべて込められていた。
「……守ってやれよ」
「わかってる。だからこそ、俺は止まらない。
たとえ、あいつが俺のことを嫌いになっても、だ」
その言葉に、オルメガは何も言わずに微笑んだ。
風が吹く。
竪琴の弦が、誰にも触れられずに、ひとつだけ鳴った。
それは、遥か昔石庭で交わした誓いの音。
「……それでも俺は、唄うよ」
オルメガの声は、風と共に、処刑場の岩壁へと染み込んでいく。
「誰かが、やり直したいと願う限り。
失われた契りに、もう一度“名”を与えるために」
夜が、断崖の向こうから昇りはじめていた。
二人の影が、長く伸び、そして静かに、交差する。
──かつて、王国があった。
忘れられた精霊たちが住み、唄が世界を結んでいた国。
その記憶は、もう誰も知らない。けれど、唄はまだ……終わっていない。
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