第2話 幽山の姫(2)

 夜空を蒼い風が駆ける。


 崇悠すうゆうは黒髪をたなびかせ、美麗な顔立ちを歪め、祥獣・獬豸かいちの額に生えた角を右手でぎゅっと握りしめていた。左手は腹部のあたりをぎゅっと抑えている。顔は青ざめ、冷や汗をかいていた。


「胃が……腹が……」

「やっぱり痛いんじゃねえか。無理すんな」

「だが早く動かなくては、縁談が成立してしまうだろう」


 ひゅううんと耳元で風が唸る。

 キリキリキリと痛む胃を気にしないようにしつつ、猛然と突き進む獬豸かいちの背から振り落とされないよう細心の注意を払う。

 高いのも速いのも不安定なのも全く問題ではないが、この身を襲う胃痛だけは如何ともし難い。


蒼生そうせい、あとどれほどで着く?」

半刻一時間ほどかな」

「そんなにか!」


 崇悠は呻き、絶望した。


(持ってくれ俺の体!)


 通常昇陽しょうようから幽山ゆうざんまでは、馬を使っても二十日以上かかる道のりだ。

 それを半刻で着くと言うのだから規格外の速さなのだが、胃袋に爆弾を抱えている身としては気が気ではない。

 一刻も早く着いてくれと願うばかりである。


「はやく。蒼生、はやくはやく!」


 ばふんばふんと毛を叩いて急かすと蒼生はいかにも嫌そうに鼻を鳴らした。


「これ以上速度を出すと生身のお前の体が持たないぞ」

「俺の体は既に限界を迎えそうだ!」


 主に胃腸が。

 切迫した様子にも構わず、「オレの上で漏らすなよ」とだけ言うと、蒼生は速度を速めも緩めもせず淡々と一定の速さで飛び続けた。


 崇悠の祈りが通じたのか、それとも不屈の根性故なのか。

 とにかく粗相もしでかさず無事に幽山の山々が眼下に見え、蒼生は高度を下げた。

 崇悠は幽山に来たことはなく、話に聞いていただけなのだが、第一印象としては「山というより石の柱が林立しているようだな」だった。

 切り立った岩が乱立し、表面を緑が覆っている。


「どのあたりに幽山の一族が住んでいるか、知っているか?」

「あぁ。確か千年ほど前に遊びにきた時には……ちょうど川が蛇行して稲妻みたいな形になっている場所に居を構えていたな。あそこだ」

「何も見えないが」

「人の目ではそうだろう。だがオレの霊力は間違いなく人の気配を感じ取っている。万事任せとけ。むん!」

「ちょ! そこは木が……!」


 蒼生は自信満々で森林に突っ込んでいった。

 がさがさがさと葉っぱをくっつけながら落ちてゆく崇悠すうゆう蒼生そうせい


「おい待て! 衣が木に引っかかった!」


 びりびりびりと絹が裂ける高い音を聞きながら、右手で握った角は離さないようにする。

 もののみごとに袖が破れ、頭に葉っぱをくっつけた崇悠は、蒼生がどすんと地面に着地する音を聞いた。


「きゃっ」


 そして耳に届いたのは、うら若い娘の声。

 そりゃあこんな形で人が降ってきたらさぞかし驚くだろう。

 崇悠はひとまず体面をとりつくろうため笑みを浮かべた。崇悠の正体を知らずとも、大抵の人ならば、己の微笑み一つで籠絡できることを身を持って知っている。


「驚かせてしまったようだね。夜の散歩をしていたら、木に引っかかってしまったようだ」

「はぁ……」


 娘が目をパチパチしながら崇悠をじっと見つめてくるので、崇悠も娘を観察した。

 飾り気のない細い筒状の袖の長衣の下にズボンを履いている。頭には長い布をゆったりと巻いていた。

 一見すると北西地域漠草ばくそうの衣服に似ているがそれよりも装飾が控えめで、かと言って北東部陵雲りょううんの女子が好む男装よりも女性らしい。

 色合いは白くも見えたのだが、月明かりの中でよくよく目を凝らせば紫がかった淡い桃色であることがわかる。蓮の花のような繊細な色だ。


(幽山独自の服装というわけか)


 しかしそんな簡素な服装にあって、月光に照らされた娘の顔立ちははっとするほど美しい。

 布から覗く髪は黒だが、崇悠のような漆黒ではなく、月光に照らされわずかに紫がかっている。さしずめからすの羽根のような色……烏黒ウーヘイ色といったところか。

 肌はミルクのように白くなめらかな甜白ティェンバイ色。ほっそりした見た目であるものの乞食などのようなみすぼらしさはなく、むしろ同じ細身であっても崇悠よりよほど健康的に見えた。


 そして何よりも、娘の瞳の色に惹きつけられる。


 まるで春の柳の葉を思わせるような、命の息吹を感じさせる緑色の瞳。長いまつ毛に縁取られた大きく丸い瞳は潤んでいて、いつまでもみていたくなるほどに美しい。

 衣服が簡素だからこそ、娘の美しさが際立っている感じさえあった。


(なぜだろうか……うっ!?)


 娘を観察していた崇悠であったが、本日何度目かの腹痛に襲われそれどころではなくなった。

 ぎゅう、と衣服を握りしめ、冷や汗を垂らしながら精一杯の体面を取り繕い続け、一言。


「すまないが、娘。かわやを借りられないだろうか?」


 娘は崇悠の唐突な願いに再び目をぱちくりさせたが、おもむろに立ち上がる。


「案内いたしますわ」

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