瞼の上の銀貨
久保ほのか
1
「先生」と呼んでいる人がいる。
両親を亡くしたわたしを雇ってくれた、村外れに住む男の人。元は都市から流れ着いたインテリで、難しい本を読みよく何かを書いている。
文字が読めないわたしに語ってくれるお話は、やっぱり難しくてわからないけれど、楽しそうに生き生きと話す姿が嬉しくて、わたしはよく休憩中の先生にねだったものだ。
3日置きに通う決まりだけど、先日、今日は来なくていいと手紙が来たので、6日ぶりに訪ねる家だ。粗末な造りだけど暖かい素敵なお家。
玄関のドアノッカーを鳴らしたら、いつになく素早い動きで先生がやって来た。
「今日は静かに仕事をしてくれ。客人がいるんだが、酷い怪我なので昼間も寝ているんだ」
知らなかったとはいえ悪いことをしたので直ぐ謝ると、気にするなと軽く笑った。
いつものように散らかった部屋の片付けから始める。先生は物を出しっぱなしにする名人で、本が机に伏せてあるのはまだいい方、脱ぎ捨てたシャツが椅子の下に落ちてたり、靴下が壁の隅に追いやられたり、お玉がなぜか床に転がっている。6日も経つと床が見えなくなるほど散乱し、今日は長くなりそうだ、と思わず溜息をついたほど。
床が見えたら次は流し。汚れた皿がうず高く積んである。山頂で石を積んだら天まで届くんじゃないかしら。崩すのが勿体無いほど見事だが、あまり良い眺めではないのでさっさとお片付け。わたしは家事にかけては完璧で、ものの10分で桶の中の石鹸水に皿を沈めた。
この調子でどんどん勧めたらびっくりするほど早く終わって、見計らったように先生が自室から出て来た。
「すごいなぁ。僕がやったら一週間はかかりそうなのに、2時間でやっつけるとは」
「片付けに一週間、散らかすのに一時間、でしょ?」
苦笑いの先生が、マリアは怖いなあと肩をすくめる。先生の部屋から覗いてる客間のドアは固く閉ざされ、近寄りがたい雰囲気を発している。
「ねえ先生、お客様ってどんな方?酷い怪我だそうだけど、なにかご用意したほうが良いかしら」
「そうだなぁ、水差しとコップぐらいはあったほうがいいかもな。食事はとれないようだから、それ以外はいらないよ」
言われたとおり、汲みたての水を水差しに満たし、念の為濡れたタオルと乾いたタオルを用意して、そっとドアを叩いてみた。よく眠っているのか返事はない。薄暗い部屋に入ってベッドに近づくと、仄白い顔が見えてきた。厚いカーテンをぴっちり閉め、一筋の光も入らない部屋にぼうっと浮かぶその顔は、巻毛に縁取られ闇に美しく映えていた。固く結んだ手を胸の上に置き、時々苦しそうに顔をしかめる。気の毒になってきて、音を立てぬよう運んだ物をテーブルに移し、窓を開けて空気を入れようとカーテンに手を伸ばすと、掠れた声が知らない言葉を呟いた。起こしてしまったのかしら。
振り返るとわたしを見つめて首を横に振る、巻毛の頭が目についた。開けるな、ということらしい。起き上がろうともがいている姿が痛々しく、捲れた毛布の下に血の染みたシーツがチラリと見えた。
「そのままにしてて。起こしてしまってごめんなさい」
言葉が通じないのか尚も身体を動かす彼をそっと押し止める。虚ろな目は灰色のような鉛色のような、鈍い光を宿してゆらめいた。
綺麗、と思った。思ってしまった。
先生の止める声も聞かず、彼のもとに足繁く通った。回復してからは言葉を覚えたがって、わたしの言うことを繰り返し発音し、なにか手帳に書き留めていた。
彼が言い間違えると笑ってしまい、合っていると嬉しくなってキスしてしまう。嬉しそうな恥ずかしそうな彼の顔はいつもより幼く見えて、とてもかわいい。
日に日に会うのが楽しみになって、朝起きるとまず彼のことを思い浮かべるようになった。あの人が笑うと、それだけでその日がいい日になるような気がして、わたしは何かと理由をつけて彼の部屋へ通った。
そういえば最近、先生の顔をみていない。わたしが仕事をサボっているから、ではなく、長く家を空けることが増えたのだ。教会の埃と煙の臭いが、最近の先生の特徴みたい。彼はそれを嫌がって、先生が帰ってくると知ったときはわたしを連れて森へ行く。黒い森と言われていて、わたし達は代々それを恐れた。人のなりをした人外が住むという、物々しい伝承に彩られた針葉樹の森は、しかし昼間は清涼な空気に満ちている。
わたし達は人知れず愛を育み、契を交わした。
どうしても確かめねばならなかった。
わたしの家に伝わる伝承、わたしの両親が残した最期の言葉ーーー「あれがやって来た」
思えば彼の姿は子供の頃に聞いた『あれ』にそっくりだ。青白い顔、冷たい手、強張った動作に灰色の眼。そして最大の特徴は......
それを知るまで、わたしは彼を信じよう。
その特徴以外は普通の人間にだって当てはまる。ほんの少し、勇気を出せば、やさしい彼を見つめ続けることができる。
いつものように、カーテンをぴっちり閉めた暗い部屋で、ベッドに横たわった彼は胸の前で手を組んで、祈るように眠っている。まるで埋葬前の死体のよう……不吉な連想に、軽く身震いして立ち止まった。
あなたは本当に確かめられる?
どんな残酷な真実があったとしても、それを受け容れることができるというの?
わたしの中のもう一人のわたしが問いかけた。
きっとそれは、神様の発した警告だったのだわ。愚かなわたしはそれでも、歩を進めベッドの傍らにひざまずいた。
燐光を発するような美しい彼の顔。
色を失った唇に指を這わせ、そっと押し広げる。粒揃いの真珠のように並ぶ白い歯に、不釣り合いに黄ばんだ大きな歯。上に二対。それは獰猛な牙だった。
鋭い先端が指先の皮膚を破り、流れ出る血を柔らかい舌が受け止めた。彼の目がゆっくりと開く。
見ては駄目だとわかっていても、抗えない何かがある。灰色の瞳がわたしを捉え、わたしは思わず目を閉じた。
次に目を開いたとき、わたしは、自分の骸を見下ろしていた。
体内に一滴の血も残らない無残な死体。
血も涙もない彼の蛮行に怒りを覚えることもなく、諦めきったわたしは見るともなしに事後の彼を眺めている。意外にも優しい手付きで、わたしの乱れた衣服を直し、清潔なハンカチで血塗れの首を拭う。見開かれたまま乾いた瞳をひと撫でし、口づけをして、ギリシャの銀貨を両目に置いた。わたしの瞼に血の唇の跡が付き、それを覆った銀貨に触る彼の細い指は真っ赤に腫れて痛々しい。
それは、かつて先生が話してくれた昔の習わしだった。死者の目に銀貨を置いて、黄泉への船賃にするという。わたしはその話を半分も理解できなかったけれど、彼はそれを知っていた。彼が誰なのか、どこから来たのか、わたしはやっぱり何ひとつ知らなかったのだと、そのときになってようやく気づいた。
洗いざらしのシーツをわたしの体にそっと被せて、自分のマントを取ると、ひょいと羽織って玄関から出て行った。
正当な死者の扱いを心得た彼のおかげ、と言っていいのかしら、わたしの意識はわたしの死体を納めた棺の中に吸い込まれ、冷たい墓穴の底、投げ込まれる花々の音とともに、わたしは永遠の眠りについた。
瞼の上の銀貨 久保ほのか @honokakubo
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