生ぬるい水の味

枩ノ夜半

生ぬるい水の味

 うちの高校はド田舎中のド田舎にあった。それはもう、青春群像劇を基にした映画の舞台として使われそうなくらいにだ。前述した通り、うちの高校は摩天楼に囲まれた都会とは真逆の場所にあった。学校自体は摩天楼とは行かずとも丘みたいな山の頂に建っていて、しかも田んぼや山々に囲まれている。正門に着くまでには緩やかで長い傾斜の道を歩くのだが、これまた辛い。歩いていくにしても五分くらいは掛かるだろうし、自転車を使おうにも緩やかな傾斜が徐々に疲労を蓄積していって、最終的に自転車を押しながら歩くなんてことも頻繁にある。夏なんて地獄そのもの。なんせ陽を遮る木は道の両端にあれど、その影は数ミリあるかないかだ。もう、言葉を尽くさなくても分かるだろう。

今年の夏も僕は当然の如く、その地獄に朝から汗をかかされた。下校する時も汗をかかされる羽目になるんだろうな。そんな風に思いながら、夕焼けに焼かれた田舎の景色を僕もまた夕焼けの熱に当てられながら見下ろしていた。うちの学校は南と北の二つの棟に分かれていてそれぞれ三階建ての校舎だ。その校舎の、二つの棟を繋ぐ連絡通路から僕は眺めていた──夕焼けに焼かれた典型的な田舎を、じきになくなるだろうこの町を──ふと、肩に手を置かれる感触が走った。僕は驚くでもなく、そのまま自然な流れで振り返る。驚かなかったのは、手の置き方が優しかったからだ。振り返ると、友人の林がそこに居た──日に焼けた浅黒い肌と、校則違反スレスレの長い髪に髪色は茶色交じりな黒。さっきまで部活だったのか顔がほんのりと紅潮していた──林の顔は夕焼けにも焼かれて橙色に染まっている。林はそのまま歯を見せて、僕に笑いかけた。林の愛嬌を加速させる犬歯が、見える。犬みたいだなんて思った。

「どうした、林」

僕はそんなくだらないことを思いながら、さりげなく林の手を肩から振り払いながらそう聞く。林は笑みを崩さぬまま答える。こいつの底なしに明るいところ、少し嫌だ。

「イヤ、珍しく水田が学校に残ってんなぁって。ほら、お前いつもすぐに帰るじゃん?」

確かに、林の言う通りだった。でも、それは林にも言えることだ。彼もまた、学校に残り続けるような人間ではない。こいつはいつも、僕ではないこいつの取り巻きらしい人間と帰っているのをよく見かける。僕は林の顔を少し眺めたのち、答えようと口を開いた。

ミンミンミンミン──その途端、蝉が一斉に鳴き始める。そうだ、さっきまであの蝉の軍勢は休息に入っていたんだ──僕達の居る階は二階だから、蝉のうるささからはある程度逃れている。けれども一階ともなればもっと酷い騒音になるだろう。

「そっちこそ、普段はいつメンと帰ってるのに今日は違うらしいね」

僕は夕日に背を向けるようにして体を翻した。それと同時にちらりと林の顔を伺うと、何故かこいつの顔に後ろめたさが滲んでいるのが見て取れる。何かしでかしたのだろうか?

林は何も言わないまま自分の髪を自分の手で弄び始め、ついにはさっきの僕のように目を夕焼けに投げてしまった。僕は、聞き返す。

「言いたくない?」

髪を弄る林の手が止まった。それから、思案を挟むように俯きがちな視線を僕に見せながら林は口を動かした。存外にも林の声色はどこか嬉しそうな調子で、僕は思わずあの後ろめたさは嘘ではないかと疑う。けれども林は、そういう奴だった。林はこっちが振り回されるぐらい、思わせぶりな人間だった。

「ちょい、気まずい感じでさ…ノリ、合わんのよ」

林の表情に、自嘲気味な笑みが浮かべられる。ああ、そうか。こいつはこれを誰彼構わずに言うのは憚られるが、誰かには聞いて欲しいという矛盾があったんだろう。だから、俺に話したんだな。そう思う反面、その件のいつメンと林の現状が気になった。きっと、遅かれ早かれ林は自分と彼らとの現状を漏らすに違いない。それなら、早い方がいいと僕は林に続きを促すような言葉を差し向けた。

「気まずい?そんな風には見えないけど」

蝉の声が、一部止んだ。さっきまで調和が取れていたのに今度はそれが乱れ始めているように感じる。

誘導するような言葉を投げたものの、実際にこいつと彼らの中は周囲から見ても良好なように思えた。林はまた自分の毛先を指で弄びながら僕に言う。

「いやなんかさー…居心地悪りぃの。あいつらと何しても楽しくない」

そう言って笑う林の言葉には、確かに彼らを嫌悪するようでいて、でも顔はこれは冗談だと受け取って欲しいと願うような意図も感じ取れる。僕は林の顔を見て、林を不憫に思うと同時に少しいい気味だとも思った──いや、こんなこと思っていい筈ない。林はいい奴なんだから。

「…それ、僕に言っちゃって大丈夫だった?」

気づけば、夕日が少し山へと入り始めているのを感じ取った──さっきよりも、暑い夕日が体に当たっていない気がする──そろそろ、帰らないとな。

「えー?水田は秘密主義っぽい感じしたから話しちゃったけど、もしかしてそうじゃない感じ?」

にぃ、と歯を見せて林が笑う──後先考えないのも林らしい。僕は笑って答える。林が望む水田になれればいいなと思いながら。そうするより他に手立てなんてないを僕は知っているのだし。

「いやいや、僕を誰だと思ってるの。一回も誰かの秘密を漏らしたことなんて記憶にないよ。だから、安心しろって…そうだ、一緒に帰る?どうせ、ほとんど帰り道は一緒なんだし」

風が、僕からして追い風になって吹く。風は生ぬるく、熱された体を冷やすのには不十分だった。林はさっきの後ろめたさなんてすっかり捨てて、僕と帰れることに喜んでいる。なんだかまた、犬でも見ているような気分になった。犬もこんな感じだろう。散歩だのおやつだのと自分にとって耳触りの良い言葉で瞬時に嬉しそうにする、全く一緒だ。


正門を出て山の麓に降りた頃には、すっかり日が暮れていた。夕日はほとんど山の内へと入り、姿を消そうとしている。少しづつ、少しづつと完全に消えようとする夕日を眺めながら、控えめな虫の声に耳を澄ませた。辺り一帯は田んぼとぽつぽつと家が建っている。虫の静かな囁きと、スニーカー二人分の足音。

「初めてじゃね、二人で帰んの」

二人で歩きながら、不意に林はそう言った。なんだか、会話が無いのを恐れているみたいに聞こえる。

「そうだな…初めてって言っても中学校以来か」

そう返した僕の脳内では、最後に一緒に帰ったあの中学生時代が頭の中で反芻されている。こいつとは昔からの仲だった。小学校も、中学校も今通ってる高校だって一緒。クラスが違っている時があってもそれを障壁だとは感じさせない友情が確かにあったんだ。けど、どういう訳か今の林とは疎遠。それもあって──重ねて言うが──僕は林のとある一部分が嫌いだった。

「あれ、そうだっけ」

「そうだよ。覚えてない?」

不意に、昔の林の記憶が頭の中に割り込まれて上映が始まる。日焼けしていない肌、短く切り揃えられた髪、あれもこれもが今とは真反対だ。それを寂しく思うのは僕だけだろうか──林に目を向けると、林はもっと前から僕の方を見ていたのか僕らは目を合わせた。林は、どうなんだろうか。昔の僕との関係を、どう思っているのだろうか。そんな漠然とした疑問が頭を過ぎる。林は少し笑って僕に言った。

「俺たち、こうやって話すのも今日が久しぶりじゃんね。俺たち、同じクラスなのにな。おかしな話だ」

こうなったのも、お前が僕を避けたのが原因だろうに──口から出かけそうになった言葉を、飲んで別の言葉を吐き出す。それは無理やり話の腰を折るのと同じように、僕らの会話に変化をもたらした。

「…この後、寄り道は?」

嫌いは好きの裏返し。僕は林のことを嫌いだって言いながら、友人としてこいつを誰よりも好意的に思ってる。それに何よりも、林と一緒に居られるのが嬉しかった。ここだけは、昔のようにこいつと通じ合っているなんていう確信が確かにある。お前もそうだよな、林?

僕の言葉を聞いてか、本当に通じ合って僕の意図が林に伝わったのか、林は表情を明るくさせた。それを見て僕は、ああ──何よりも明るい光源だなんて、馬鹿げたことを思う。

「いいね、どこに寄り道する?どうせだし遠くに行こう!」

林の、眩しい表情が僕の目を潰しにかかっている。あんまりにも眩しくて、キラキラしていて──何度でも言おう──こいつは本当に、嘘だって思いたくなるほど純粋で、健気で、大馬鹿者だ。ああ、本当に犬だな。もしかしたら、こいつの前世はシベリアンハスキーだったり、なんて。

僕は林がシベリアンハスキーになる錯覚を起こしながらも、口を開いた。

「うんと、遠くに行くなんてどうだろう」

どこまでかは分からない。けれども、気が遠くなるようなほどの距離を移動して、ここから離れたいという願いはあった。ある種、家出と言ってもいいだろう。

「うんと、遠くに?」

林のそう言う声は僕の言葉に疑問を呈している様だった。でも、馬鹿な林はそれ以上考えるのをやめたらしい。林は尚更目を輝かせて言った。これからする寄り道に期待大!と言った感じだ。

「いいね、どこまでも行こう!行きたいところがあれば、俺はついてくよ」

そうと決まれば、親にも一応根回しは必要だろう──あっ。

「…スマホの充電切れてる」

手の中に収まっているスマホの画面は、どこのボタンを押しても真っ黒のまま。なんてタイミングが悪いんだ──林と顔を見合わせると、にっ、と歯を見せるように笑みを浮かべる。

「俺もない!」

「まじ?…まぁ、いっか」

少しづつ、僕の中でこの遠出が非日常感を帯びる。でも、それが良かった。

自分の顔を反射しているスマホの画面を眺めながら、僕は林に聞く。

「林はさ、どこに行きたい?」

素朴な質問──それが、林らしからぬ、でもそれもある種林らしいものを引き出した。

「海に、行きたい。どうしても」

林は穏やかに笑いながら、目を細めて遠くを睨むように視線を投げる。僕はここで、林がどんだけの海好きかを思い出す。日に焼けた肌も部活で出来たものじゃなく、頻繁に海に通うからだし、こいつが何よりも海を優先するのも思い出した。そう、何よりも、命よりも──犬っぽいくせに、海のことになるとこうやって何かしらの海洋生物に成り代わって海に還りたがる。僕はそれをよくは思わない。それと同時に、林を海に還したいとも思う。

「海、か…」

多分、林が行きたいと言っていた海は僕らの思い出が詰まった場所だ。そこで、何をしようって言うんだろう。

「大丈夫、きっと楽しいはずだよ」

今更門限とか親の叱責を不安に思う必要なんて無いに等しい。僕らの逃避先は海になった。


ガコン、ガコン──継続的に聞こえる音に耳を澄ませていた。車内は、僕らの貸切状態。そりゃそうだ、一時間に一本で日中ならまだしも夜間に利用する人は珍しい。特にこの微妙な時間帯では社会人はまだ都会の方の路線で揺られているはず──ガコンガコン。繰り返し聞こえるそれを、僕らは約一時間ちょっと聞き続けていた。

ちらりと座っている席の反対側にある窓に目を向けると、自分の冴えない顔が反射して視界に映る。ほんとに、冴えない、しがない学生って感じだ。唯一いい点を挙げるとすれば『普通』と揶揄される顔立ちだと言われるくらい。

「そろそろだと思う?」

林が、自分の膝にリュックを抱えながらそう言った。僕は多分、としか答えようがなかった。何せ、スマホ以外の確認方法がない僕らに感覚で着くかどうか判別しろと言われても八割も当たりはしない。時間も分からない、連絡手段も皆無。正直言って、不安だ。しかしながら、林は時間が分からないのを当然だと思っていなかったらしい。こいつはまた、僕に今は何時頃だと思う?と質問を投げかける。こいつ、人になんでも聞いてくるな──。

「さぁ、分からない。ずっとスマホで時間見てたし」

「やっぱそうだよなぁ…」

林の残念そうな顔が、冴えない僕の顔の隣で見えた。そんな顔をしないで欲しい。僕が悪者に見えて仕方がないだろ。

「なんで時間を?」

視線を車窓から下に降ろすと、無意識のうちに手に握ったのか、スマホが手の内にあった。

「今更、門限を気にしただけ。まぁ、どうせ誰も怒らないし心配もしないけどさ」

「ふーん…林の家、そんな感じなんだ」

行き過ぎた放任主義。僕の頭の中ではそんな言葉が思い浮かぶ──スマホの電源を長押しして、淡い希望を抱いた。それから少し間を挟んで、黒い画面に表示が浮かび上がる。残念、電池切れの表示だ。僕は林にまた話を振った。

「結構、ゆるそうだね」

ガコンガコン、ガコンガコン。何度も何度も、電車がそう言わす。少し鬱陶しいな。林はいやぁ、と言い淀んでから言葉を選ぶようにして話し始めた。

「寂しいかなぁ、意外と。もっと俺のこと気にして欲しいってか…ほら、俺、構ってちゃんじゃん?だからゆる過ぎても困るってか、厳しいのも嫌だけどな!…まぁ、周りには放任主義でいいじゃんって羨ましがられるから、これも悪くないのかなぁって」

また林は自嘲的に笑う。滲み出る悲壮感、それを覆い隠そうとする笑み。可哀想な奴だなんて思った。けど、これをそのまま林に言うのは逆にもっと、可哀想な気がする──林はそのまま続けて口を動かした。

「水田は?水田のお母さん、昔のまんま?」

ガコン!一度、強い揺れが起こりそれが僕らの真下を通り過ぎる。

「あー…」

脳裏には、自分の母親の顔が浮かんでいた。いつになく、僕を心配するような眼差しと表情。僕はそれを、真っ直ぐには受け取らなかった。どうせ、自分に酔っている。僕は誤魔化すように笑った。けれども、林の眼差しが誤魔化すのを許してくれない。

「…んー。変わんないよ、僕の母親は。いつも通りの過保護で、よく僕を縛ってくるけどさ。いい親だよ、多分」

──今はやけに、自分の言葉が喉奥に突っかかって上手く話せなかった。ヒステリックに喚き散らす母親の姿が、嫌なくらいにありありと思い出されているからだろうか──いくつもの、それぞれわずかな差違を持つヒステリックな慟哭とか、怒鳴り声が僕の頭の中を満たす。

『貴方のためを思って』母親の口癖はいつもそれだった。僕はその言葉にいつも悩まされている。林は僕の反応を見ては思案を挟んで黙り込み──自分の家庭状況に踏み込まれるのを嫌がったんだろう。そうだとしたら僕も同じだ──そっか、とだけ言って話が終わる。それと同じくして、電車がスピードを落とし始めた。

流れるアナウンスは久しぶりに耳にしたあの駅の名前。

「着いたみたいだ、林…海で、何したい?」

口に出した後で、酷い愚問をしたものだと改めて思う。

電車は一気に減速をし始め、僕らは当たり前のように体が電車の進行方向の方へと体が引っ張られる。ついには一際大きな揺れが終わったのち、振動も継続的に聞こえていたあの音も全て消えた。それからすぐに、扉が変わらずの動作で開く音が聞こえる。

林はうーんと悩んで見せた。夜の海でやることなんて限られているのに、何をそんなに悩む必要があるのだろう。

「…浜辺で寝転ぶ、とかかな」

熱帯夜は日中の暑さを酷いくらいに長引かせるから、そこまでいい気分にはならなさそうだ。それをするくらいならもっと、アイスを買って食べるとか──。

「いいね。僕も、そうしようかな」

そうは思いつつも、僕は他の案を提示するやらそれを拒む前に林のその案を肯定した。車内から駅のホームに移りながら僕は喋り続ける。

「昔、よくしたよね。小学生の時…日焼けがしたくて…でも、上手くいかなかった。林は、覚えてる?」

そう、昔みたいにやれるのが嬉しかったんだ。僕は懐かしくて暑いだけじゃない温かい記憶を語る。林も、覚えていたら嬉しいな。

「他にも、中学生の時は少ない小遣いでさここに来たよな。冬でも、二人で静かに話したい時とか、なんかあった時に行ってさ…うん、懐かしい…だろ、林?」

くるりと身を翻して一歩後ろを歩いていた林の顔を見ると、いつになく嬉しそうだった。僕も、そんな顔が見れて嬉しかった。林は僕らの記憶を確かめ合って照合するように言葉を発する。ああ、なんだか、昔の林の片鱗が見え隠れしていた。

「そうそう、学校で喧嘩をした日もあったけどさ、なんだかんだでここに来てさ、仲直りしたよね」

駅から出てアスファルトの上に足をつけると、潮風──湿っていて、それでいて生温かい──が肺に入り込む。それがより一層、僕らは海に来たんだという認識にさせる。

「やっぱ、夏は嫌だな…」

全くに持って涼まれない潮風に、僕はそう独り言を吐き出した。けれども、林は律儀にもそれを拾った。

「俺は好きだな。夏休みもあるしさ」

「そうじゃなくて、暑いのがたまらなくて嫌なんだよ。この、湿った感じとかも…」

海までの道のりは退屈なくらいシンプルだった。車窓越しに見えた電灯と急な坂道をまっすぐ下った後に着く。本当に、単純な道のり。

「そう?俺は、それ含めて夏が大好きだよ!」

「…物好きだね、相変わらず」

辺りはすっかり暗くなっていた。せめてもの電灯と、海岸沿いに建つコンビニの灯りがせいぜいであとは何もない。小さな店が何個かあったが全て営業時間を過ぎているか、あるいは廃業しているかでシャッターは降りてしまっている。坂を下りながら、僕の横を歩く林の顔を伺う。今回は僕に視線なんてくれないで、海に釘付けだ。僕はそれを、良くないと思った。それと同時に、その熱心さを羨ましくも思った。

「…車一個も通らないな、この時間」

聞こえるのは、わずかな波の音と二人分のスニーカーが塗装された道を蹴る音。林は視線を海にくれたまま、僕の言葉を拾う──林の顔に、笑みはなかった。そこにあるのはただ、海に対する強い執着。林は海に視線を投げたまま口を動かした。

「そうだな。人も、誰もいない」

僕には理解できなかった。林の、その海に還りたいなどという帰属意識が。いや、これは帰属意識なんていうちゃちなものに留まらないのを僕は知っているじゃないか。

そうこうしているうちに、僕らの足は止まって目の前に一際高い──と言っても僕らの頭一個分上と言うだけなのだが──防波堤が立ちはだかる。左右を見回すも、階段などが用意されていることはなく、この防波堤を相当歩いていかないとこの隔たりの向こうには行けなさそうな雰囲気を醸し出していた。

「林、どうす…」

林の方に顔を向けると、こいつはどうってことないと言わんばかりに防波堤を登ろうとしていた。そしてそのまま、こいつは軽々と登って防波堤の上部で仁王立ちをする。流石、運動能力抜群の林と言ったところだろうか。それに対して僕はというと、林の行動で呆気に取られて間抜けな顔を晒しているんだろう。そう思えるくらい、僕はなんとなしに林を見上げていた。

「水田、ほら、手ぇ貸すから早く登ってよ」

林が防波堤の上でしゃがみ込みながら、僕の方に手を差し出す。僕は少し躊躇しながらもその手を掴み、コンクリで作られた防波堤に足をつけて登ろうと踏ん張る。その途端、林が僕を引っ張り上げようと力を込め、僕はそれに合わせてコンクリの防波堤を登り切った。慣れないことをしたせいか、単に運動をするよりも何倍も疲れた気がする。

「……あー、すっごい…何も見えないな…」

堤防から見下ろした砂浜の景色は、最高とは程遠いものだった。うっすらと見えればいい方かと思ったが、その『うっすら』ですら高望みだったらしい。浜辺ですらほぼ目視が不可能で、堤防から見下ろす海の景色はなんとも言えない。そのくらい、見えなかった。こんなんじゃここから飛び降りるのも躊躇するのだが──林は躊躇することをしなかった。まるで、頭の中にある辞書にその言葉がないみたいな感じだった。

「水田、降りよう」

林は清々しいほどの笑みを見せてから僕の手を取って、そう言う。僕は慌てて──流石に怖かったんだ、こんな暗闇の中に飛び降りていくのが──林を止めようとした。けれども、林は止まらない。林は僕の慌てぶりなんか無視して、飛び降りるカウントダウンを始める。

「ごー…よーん…さーん…」

呑気なカウントダウンが、尚のこと僕の恐怖心を煽る。僕の手を握る林の手はいつになく強固だ。

「にーい…いーち」

「ちょっとまって林、」

林が少ししゃがんで、飛び降りる準備をしている。僕はまだ準備ができてないってのに!

「ゼロ!」

林が、前方へと飛び出す。それと連動するように僕の腕から始まって、体ごと僕も前へと引っ張られて──ああもう、飛べばいいんだろ飛べば!堤防のコンクリートを蹴って、林の後に続くように前方に飛んだ。

「っ〜…!」

「ひゃっほーい!」

浮遊感、底すら見えない深い暗闇、耳元を横切る風の音。叫び声を上げることができないくらいの恐怖感が、僕を包む。けれども、僕が思っていたよりもその浮遊感はすぐに終わった。むしろ、短すぎたおかげで着地に失敗したくらいだ。失敗したせいか、膝を思いっきり砂に突っ込んでしまったし靴には砂が大量に入ってきた。嫌に不快感がある。

「いてて…林、大丈夫?」

対して林は、着地に失敗していないどころか僕から手を離した。僕は手を離されると思っていなくて、離された手をそのまま空中に残してしまう。それから、生温かい風がまた吹いた。空になった手の内に汗が溜まっていたのかその部分だけは涼しさを感じる。風は僕の頬も撫でていった。

「林?」

僕は目を細めながら、暗闇の中を見つめる。林は僕の呼びかけにも応じず、歩く足を止めやしなかった。不意にドサ、と重々しい音──おそらくは林のリュックが砂浜に落とされたのだろう──が響き、それから林の駆ける音が聞こえる。僕はなんだか嫌な予感がして大声で林を呼んだ。けれども、林は足を止めるどころかさらに足を早めて海へと向かっていって──ぱしゃん──林の足はついに海へと入り込んだ。

「おい!靴ぐらい脱げよ!」

悠長な言葉とは裏腹に、僕は焦っていた。背負っているリュックを下ろすのにも手間取って、尚のこと焦りが加速する。その間にも林はばしゃばしゃと水を蹴りながらも海へと入っていく音が聞こえる。林は完全に、海に意識を奪われていた。

僕は乱暴にもリュックを放り出し、林の後を追った。冷や汗と暑さによる汗が全身を濡らしていたせいか、今は生ぬるい潮風も涼しい。波打ち際に立つ頃には、林はすっかり海の中に身を落としていた。辺りに漂うのは熱帯夜の空気と繰り返される海のさざなみ。

ふと、ここまで来たらどうしようもないな、なんて言う諦めがあった。僕はさっきまでの焦りを一切合切忘れて、暗闇に目を凝らす──ここまで冷静になってしまうと、最初から僕は林を助けようなんて思ってないのかもしれない。むしろ、僕はこの先に興味があったんだ──水面から林の顔が出てくる気配はない。本当にこのまま林が死んでしまったら、どうしよう。そんな一抹の不安が頭を過ぎりながらも僕は林が居るであろう水面に目を凝らし続けた。さすがに目が暗闇に慣れてくる。

正直、このまま死んでしまっても構わないと思ってすらいた。林が一番に望んでいることなんだからそれを止めるなんて野暮だろうし、ただでさえ僕には林を止めるような資格を持ち合わせていない。

不意に、水面から何かが吹き上がるような音が聞こえた。林が顔を水面から出したのだ。

「はーっ…!」

林が必死に息を吸い込む音が聞こえる。やっぱり、林は海の中で息を止めていたんだ。それだけじゃ海に還ることなんて不可能なのを林は分かっているんだろうに。僕は海と砂浜の曖昧な境界線に立ち続けながら、林の様子を眺め続けた。林は息を荒くしながらも、何が嬉しいのか笑みを浮かべて肩から下を海に沈めている。僕はそんな林をどこか冷めた眼差しで眺め、次いで声をかける。

「…満足したか〜?」

僕がそう呼びかけると、林が僕と目を合わせる。林は歯を見せて僕に笑いかけた。多分、満足したって言いたいんだろう。それから林は重そうに体を動かしながら海から体を引っ張り出した。案の定下から上まで全身びしょ濡れだ。シャツは林の体にびったりと張り付いて、運動部らしい肉体が透いて見える。

「はぁ〜…ほんとスッキリするよ…」

「…全身びしょ濡れだけど、着替えはあるの?」

いつから林が海に救いを見出したのかは分からない。尋常ではない帰属意識はもはや、今更拭ったところで林をさらに苦しめるだけだ。林はびしょ濡れになって顔に張り付く前髪を手でかき上げながら答える。

「もちろん着替えなんてないけど…まぁ、どうせ暑いしいいじゃん?」

僕の前までやってきた林は髪の先から海水が滴っていた。林は僕の手を掴む。海水で涼しくなったみたいで、林の手は僕の手よりも少し冷たい。いや、僕がさっき走ったのもあるんだろう。余計に林の手が、涼しく感じた。

「何、林…」

僕は掴まれた手に視線を下ろした。林の肌に纏った海水が、僕の手を伝い、腕へと滴る。まるで、自分の体が林に侵食されてきているような、そんな気がした。

「水田も、一緒に入らない?」

水の伝う感触が擽ったい。僕は視線を上げぬまま林の誘いを断った。僕だって着替えがないんだ。それに、暗い海の中で林と同じようにするなんて、正気の沙汰じゃない。断った後、少しの沈黙が僕らの間に流れた。僕が断ったことを不満に思ったんだろうか?

林は僕の手を離すことなく、逆に僕の左耳に顔を寄せてきた。僕は、顔を上げれなかった──僕の肩に海水が落ちてシャツに浸透する。

「…水田。『いいよ』って言って?」

言葉と言葉に挟まれる息遣いが、身を捩って逃げてしまいたくなるほど擽ったい。つい暴れてしまいそうになるのを抑えて僕は林に反抗した。

「いや、だ…」

僕の手を掴む林が強まる。それから落胆を思わせるようなため息が耳を擽ぐる。僕は少し怖くなって、一瞬息が詰まった。

「なんで?」

林の声のトーンが一段下がって僕にそう囁いた。僕は努めて冷静であろうとしたけど、長年の僕ですら知らない林のその態度に耐えられなくなってしまった。

「だか、ら…怖いんだって…!」

ついに僕は林の手を振り払ってしまって、林と距離を置いた。林の顔には今しがた作ったような、微妙で歪みのある笑みが浮かべられている。なんてことだろう。今までは分かっていたつもりの林の感情が、ついにはよく分からなくなっていた。その顔の裏に隠されているのはなんだ?何を思ってる?ああ、僕はどんな顔をして林を見ているんだろう。

「残念だなぁ、水田…足だけでもダメ?」

林は僕の方に手を差し出してきた。僕はそれを、馬鹿正直に掴めない。僕は林によって濡らされた肩を手で確かめながら言葉を返す。僕はもう、海に入る気を失くしていた。

「靴の中まで、濡れちゃうだろ…」

「そっ、か…」

差し出された手が、ゆっくりと下ろされていった。僕はそれに心底安堵すると同時に何かとんでもなく大きいものを逃したようでいて、損をした様な気分でもあった。

ちらり、と林の足元を見る。あいつの足は海水に、繰り返される波に幾度となく足を捲られようとしている。対して僕は、動のないまさに静の象徴であろう砂浜の上に足をついていた。

「…そろそろ、帰る?」

大して涼めなかったし、僕と林の距離は依然として遠いままの様に感じる。だからだろうか、これ以上ここに停滞する理由が僕には無かった──ある一点を除いて。

「えぇ?もう帰っちゃうなんて勿体無い!それに、さ…俺、知ってるから」

途端に心臓が跳ね上がって視線が林の顔に移った。必然的に林と目を合わせるが、林は僕と目を通わせたことを嬉しく思ったのか、はたまた狙い通りにいったのに心を良くしたのか──真っ直ぐで馬鹿なこいつがそこまで計算高いとは信じられないが、もし後者だとしたら──先ほどとは違った心底嬉しそうな笑みを僕に見せる。

僕としては、気が気では無かった。

「お前が何を知ってるって言うんだ?」

どうせ、ハッタリだろう。僕は挑発する様に、気丈に振る舞っているのを見せつけたく笑ってみるが、それは僕の憶測を裏切るものとなった。

「逃げたかったんでしょ、水田も」

返す言葉も無かった。僕が間抜けにも口を開けて黙りこくっていると、林は嬉々として舌を動かし続ける。林の屈託のない笑みが今は動悸を悪化させるトリガーとなったのは言うまでもない。

「…帰ろう、林」

取り繕う暇も、余裕も僕には少しの欠片もなかった。ただ、林に弱みを握られたのが酷く恐ろしく、悍ましく、今にでも林を置いて逃げ帰りたかった。けれども、目の前のずぶ濡れの犬を誰が置いて行けよう?こんなずぶ濡れの犬なんて置いて帰ってしまったら目の前にいるこいつは風邪を引いて、自分を置いていった僕を恨んで、寂しがってしまうに違いないんだ。だから、だから──身を翻したい内心を必死に抑えて自分に言い聞かせる──僕はこいつを世話しなきゃならない。責任を持って、最後まで世話をしなきゃならないんだ。

「じゃぁ、最後にちょっとだけ歩こうよ」

林の少し寂しそうな顔が、尚更僕を困惑させる。

「…まぁ、それくらいなら」

波打ち際を線引きに、僕らは歩き始めた。林のことだから、まぁ歩くだけには留まらなかった。林は波の中を僕より一歩早く歩きながら言葉を発する。

「そういえば、なんで海が好きかって言ったっけ?」

林の背中は、海に身を浸からせたおかげかスッキリとしていてどこか清々しい。僕は林の言葉に聞いたことが無いと答えつつも、随分と前の林が言った執着の訳を口で反芻する。

「自分を跡形もなく、消してくれそうだから…」

僕の視線は自然と下へと移り、ほとんど見えもしない砂浜とすぐそばで波打つ海がわずかな光を反射させていた。それから数歩、足を進めた所、僕はやっと林が足を止めていたことに気づく。僕も足を止めた。僕は、林に顔を向けない。

「なぁんだ…案外、覚えてくれてんだ…」

「そりゃ、誰でも覚えるもんだろ。林のあの言い草が…まさに…自殺志願者みたいで…嫌でも記憶に残る。それに、どうにかしてその好きを別のものに逃したくなる」

僕にしては柄にもなく、ベラベラと本音を喋ったものだと思う。けれども、林が返してきた言葉は僕の心を刺すようなものだった。

「それで…その『別のものに逃す』ってのは、上手くいった?」

皮肉にも程がある。僕は思わず苛立っては振り返り、林の顔を見た。ああ、まただ。また、林の顔は寂しそうな顔をする。こういう時は決まって林との距離がどんどんと開いていく感じがした。そういう所も嫌いだ。僕は苛立ちの滲む声で林に言った。

「それは、林自身が一番よく分かってるだろ…それに、僕はその試みをしたことで、尚更お前のその好きがどんなに強固で、どうにもできないことも知った…」

話していくにつれ、僕の中にあった腹立たしさとかが少しづつ消えていく。それは口に出すことで僕が冷静になれたのもあるだろうし、それ以上に林のその悲壮感溢れる『寂しい』顔が僕の苛立ちを沈めたのもあるだろう。

「へぇ、そう…水田も、俺とおんなじだったら良かったのにね」

ますます、林との距離が開く。どんなに言葉を柔らかくして包もうが、今の林には僕が思い通りに動く以外、望んでいないって訳か。けれども僕は、このまま何を考えずに従うわけにはいかなかった。

「僕にはお前の海の良さは分からない。だけど、ここまで来たからには林を置いていくのはなんだか、気に食わないから」

林の表情が一変して、驚きから始まりそれから純粋潔白であろう嬉しさの滲み出た失笑に変わる。それが、僕をどっと安心させた。肩の力も抜けるくらいにだ。林は笑いながらも僕に歩み寄り──彼はあのさざなみから一歩、足を出したのだ──そして、僕の腕を掴んだ。

「俺だって気に食わないよ」

「えっ──うわっ!」

唖然としたのも束の間、腕を強く引っ張られ、林と共に波の中へと僕は両足を突っ込む。林は大声で笑った。僕を手玉に取れたのが嬉しいらしかった。僕は依然として何も言えないままでいる。靴の中に入り込む海水に不快感を覚えながらも、林の声が鼓膜を通った。

「あーいい気味!アハハ!」

「何、すんだよ…!うーわめっちゃ気持ち悪い、最悪…!」

ここまで来てしまったら抵抗しても意味はないのだと、自分の中で理由もなく確信した。林は僕の顔に不快感が顕になったのを見てもっと愉快になったらしい。今度は僕の両手を握り、海にまた沈み込むようにと波打つ方向とは真逆に──しかも僕と目を合わせたままだ──背を向けずに歩き始める。

「俺さぁ、お前の冷静なとこ、大っ嫌いなんだわ!それがさ、今こうやって崩れてる!それが最高!」

僕は抗えぬまま林に手を引っ張られるまま海へと沈み込む。まだ足底に染み込む程度だった海水は深度を増し、膝にまで到達する。僕は腹立たしくも、林がこんなにも笑っているのが久しぶりで、それがなんだか嬉しくて、全てをひっくるめ複雑な感情になっていた。それ故に、林になんて言い返せばいいか分からなくなった。もう、雁字搦めとしか言いようがない。

「ほら、水田!」

いつの間にか、海水は腰ほどまでに来ていた。パンツも、制服のズボンも海水で重くなり水中でぐちゃぐちゃだ。こんなに気持ち悪いのに、林が平気そうにしているのを見ると腹が立ってしょうがない。

「ちょっと!これ以上濡れたくないのに…!あっ!」

もう一度、林に強く腕を引っ張られ僕は体勢を崩し──あっという間に僕の顔面に真っ黒な水面が迫ってきて、僕は目を閉じて──全身は海に浸かってしまった。いつの間にか林は僕の手を離しているし、そのせいで海に浸かっているこの瞬間が恐怖でしかない。

「はぁーっ…!ゲホ、ゲホ…!」

慌てて海から顔を出すと、海水でぼやけた視界に林が映った。ちゃんと目を瞑ったのにも関わらずどうやら僕は焦って目を開けたらしい。ただ最悪だ──服が海水を吸って、重しとして僕の上に乗っかってくる──立ち上がる気も失せて、僕は浅瀬の底に膝をついて林を見上げた。

「気分はどう?」

ぱちぱち、ぱちぱち──何度も瞬きをするごとに、暗闇に紛れた林の姿が見えてくる。林は、愉快そうに、満足そうに笑って僕を見下ろしていた。海水の流れが僕の体を柔らかく撫でるのを今は気持ち悪く思いながら、吐き捨てるように林に言葉を返す。

「最悪だよ。最悪……」

そうは言いつつも、僕はどこか、笑いを堪えていた。それは、この奇怪で理解不能な現状を笑おうとしているのか、腹の中を蠢く憤怒やら背筋を凍らせるほどの恐怖から目を逸らしたいのか。まぁ、どちらでもあるだろう。

林は天を仰ぐように顔を上げ、笑った。そう、林は豪快に笑った。僕はそんな林をぼーっと見ながらも、僕自身、霧がかかった様な感じが目の前にあるような気がした。林は、林らしからぬものを僕に露呈させた。では、僕は?僕は何か一つでも林に見せつけられたであろうか──自然と、足が立ち上がった──林の胸ぐらを両手で掴む。僕の体は倦怠感に埋もれそうになっていた。胸ぐらを掴めども、ほとんど林に寄りかかっている様な状態だ。

「なんだよ、急に…あは、怒っちゃった?」

余裕綽々だと言わんばかりの笑みを、林は浮かべていた。今にでも殴ってやりたい。今にでも林の顔を原型がないくらいにぐちゃぐちゃにして──と思うだけタダだろう。僕はずっと、林に聞けず終いだったことがあったんだ。もしかしたら、林のその余裕ぶりをぶっ壊せるかもしれない。

「なんで僕のこと避けたんだよ…」

僕の顔は、無理やり作り出した笑みが刻まれていた様な気がした。対して林の顔ときたら!面食らった様な顔をしたもんだから傑作だ!

林は目を見開いたまま僕を見つめ、固まっている。僕は揺さぶった。精神的にも、物理的にも。胸ぐらをぎゅう、と握り──シャツから海水が滲み出るのを感じる──林をぐらぐらと揺さぶる。

「なんとか言えよ!林!どうして僕を避けた!なぁ!どうし──」

ピタリ、と僕の手と口が止まった。それから、僕は手を離す。それから僕は林の顔から目を逸らし、ぶっきらぼうにごめんの一言を吐き出した。林に僕の言葉が届いたかは分からない。僕の声は、存外にも小さくなって吐き出されたからだ。

「…帰ろう、林」

ついに僕は、顔を見ないどころか林に背を向ける。林は何も言わない。何も言わないが、なんとなしに僕とともに海に出てくれるような雰囲気が、そこにはあった。海水を大股で掻き分けながら、僕は砂浜に急いだ。砂浜に足を進めるごとに、当たり前だが海水から体がで出ていく。だが、肌にびったし引っ付く感覚が嫌だった。これなら水中にいたほうがマシに思える。

暗闇の中で階段を探すというのは中々に大変──という訳ではなかった。体に階段の位置がどこか、とうの昔に染み付いていたからだ。階段に着く頃には、僕らは臭いものに蓋をするかの如く振る舞い始めた。いや、そうしたのは僕だけだろう。

僕は倦怠感の纏う体を半ば無理やり動かすようしながら足を動かす。それと同時に、林に話かけた。もちろん、林の顔に目は向けなかった。

「林…今年の夏休みはさ、どっか行こう。山とかさ。ほら、うちは山がそこらじゅうにあるし、それと同じくらい川もある。魚取りに行くのもありだろ」

地面が砂からコンクリへと変わる。片手に持っていたリュックの重みはますばかり──撥水性でないばかりにリュックを背負えないのだ──林は、幾分か、いや僕としてはかなり長い間黙りこくってから言葉を返してきた。林の言葉が耳に届く頃には、僕らは階段を登りきろうとするところだった。

「海がいい」

僕はため息をつきそうになった。けれども、それを必死に胃の中に押し留めて林の言葉に耳を傾ける。僕らの足はいつの間にか階段を登り切る三段くらい前で止まった。

「ねぇ、またここに来ようよ。山は虫が嫌だし、川は安易に潜れない。それに…とにかく、俺はここが好きだから。ここしか考えられないから」

林の声には、はっきりとした意思が現れていた。それと、やはりと思わせる執着が声色として現れていた。僕がそれに抗ったら、林は僕をどうするつもりなんだろうか。また、僕の意思など問わずに僕を海に沈める真似でもするんだろうか?そう思うと、僕の足は尚のこと重く重く重力をかけられる。林の言葉に怖気づくのは、林の声色が迫真的で切実、且つ物悲しいからか。物悲しいのは僕が林を変えられなかった悔しさからくるものだろう。

林が口を閉ざしたのを感じたのに、僕の足は全く、動こうともしない。僕は、僅かに思案を挟んだ──この思案すら、無駄なのだろうけど──それから、体の向きを変え、林と向き合った。林は、僕より一段下に居るからか、僕を見上げる形となっている。僕は林に笑いかけた。ほとんど、微笑に近しいものだったと思う。いや、分からない。僕にそこまでの余力が残っていたのか、怪しいからだ。

「仕方ないなぁ…じゃぁ、お前の為にまた、ここに来よう」

一時的な安息を得るために吐いた言葉。薬になんてならない、遅効性の毒。いつ、その毒が僕かはたまた林か、あるいは両方に効き始めるかは知らないし知りたくもない。言わば『優しい嘘』だ。でも、この瞬間を生きたい僕らにとってはとんでもなく些細で、どうでもいい未来不確定な事象であることは確かだ。

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生ぬるい水の味 枩ノ夜半 @bookyowa_0515

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