この夜に、名前などなくても

林檎多層

誘惑に、名前をつけるとしたら

人生経験だよ、と言われるがままに友達に連れてこられた初めてのナイトクラブは、想像以上に人が多くて息苦しかった。

光と影が入り乱れる空間はどこか現実味がなくて、低いベースの音が床をつたって心臓まで響く。


「踊りに行くけど由梨は?」

「んー、私はいいかな」


私がそう言うと友達は「私は今日勝負かけるから。応援してて!」と言ってダンスフロアに向かい、あっという間に人混みに紛れて見えなくなった。


この雑踏の中、探すことなんてできるのだろうか。


やることもなくただ一人バーカウンターの近くの壁際で佇む。

グラスの中を空にするしかやることがない私は、完全に場違いだった。


もう少ししたら帰ろう。


そう思ったとき、さりげなく近付いてきた男性に声をかけられた。


『おねーさん一人なん?』


音楽にかき消されないよう、耳元に顔を寄せる。

長い前髪が顔に影を作った。


「友達ときました。あっちにいますけど」


私がフロアの中心を指さすと彼は少しだけ笑った。


『俺も。連れてこられただけやから』

「一緒ですね。でももう帰ろうかと思って」

『せっかくきたのに帰っちゃうんや』

「はい。なんか落ち着かなくて」


ふぅん、と言って彼は私の空になったグラスに目をやった。


『ご馳走しますよ。おねーさん』


少しだけ迷いはあった。

こんなに気安く声をかけてくる彼に、警戒心を持たないわけではない。

だけどせっかくきたのにこのまま帰るのも、なんか悔しくも思えてきて。


「じゃあ…ジントニックで」


私がそう言うと、彼はバーカウンターに肘をつき、店員と言葉を交わした。

その手慣れた動作に、きっと何度も来ているんだろうな、と察してしまう。


私にグラスを手渡してまた隣に並ぶと、軽くグラスを重ねた。


『おねーさんお名前は』

「由梨です」

『ん?』


喧騒に声が飲み込まれる。

彼がさっきよりも私に近付いて顔を寄せると、ふわっと香る香水に少しだけ混ざるタバコの匂いがして、大人の雰囲気にクラクラする。


「由梨です。お兄さんは?」

『和樹』


このまま首筋にキスをされるんじゃないかと思うくらいには、距離が近い。

ああ、やばいなこれ。

この人、慣れてる。


「和樹さんはよくくるんですか」

『こおへんよ。初めて』


嘘ばっかり。

こんなに手慣れてるのに。


「トイレ行ってもいいですか?」


このままここを離れて友達を探しに行こう。

そう思っていたのに彼はグラスを置いて、私の手を取った。


『場所わからへんやろ。連れてくわ』


驚いて彼の顔を見ると『ん?』と不思議そうに眉毛を上げた後、繋いだ手を見て何かを理解したような顔をした。


『人やばいから。はぐれるやん』


表情も変えずに当たり前のことのようにそう言われたら、確かに人も多いしうるさいしこれがクラブの常識なのかな、とか思う。

もうよくわかんない。



トイレの中で友達に連絡をしようとスマホを開くと、メッセージが入っていた。


"ごめん!いい人いた!先帰る"


よかったね、という気持ちと共に、私は一人でこんなところで何しているんだろう、とも思う。


トイレから出るとすぐそばで彼が腕組みをして壁にもたれて待っていた。

その姿がかっこよく見えて、絵になるなぁ、とか思っていると、私を見つけてすぐに顔を上げた。

また距離が近付いて、自然と手を繋がれる。


『タクシー呼んだんやけど、乗る?』

「…どこに行くつもり?」

『どっかで飲み直してもええし』


苗字も知らない、今日会ったばかりの人。

知ってるのは彼の名前と、話す関西弁が心地よいことと、今日ここが初めてなんて嘘をついてるということ。


『まあ、俺んちすぐやけど』


彼の期待することがわからないほど、子供なわけでも経験がないわけでもなかった。


きっとそこにあるのは欲望と衝動だけで、それ以上でもそれ以下でもない。

だけどもう、なんでもいいような気がして。


「じゃあ、行こっかな」


私がそう言うと彼は少しだけ目を丸くして驚いていたけど、すぐに口角をあげた。


『ほんまにくるんや』

「行かないほうがいい?」

『…意外やっただけ』


繋いでいた手をもう一度握り直して、焦るように私を出口まで連れていく。

これから起こる出来事に意味なんてない。

彼は抱ける人を探していて、私は寂しかったからついてきた。

ただそれだけのこと。


ご馳走になったジントニックの余韻が、喉の奥にまだ残る。

このまま私は、どこへ流れていくんだろう。

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