第21話
翌朝、身支度を整えた俺は、セレネアのもとへ向かった。
テーブルには、森で採ったであろう木の実と茸のスープ、焼いた根菜が並んでいる。質素だが、湯気の立ちのぼるそれは、不思議と心を落ち着かせた。
「しばらくは、豊かな食事がとれないでしょう。残さず食べなさい」
セレネアは静かな声で告げる。その言葉には厳しさよりも、どこか母のような響きがあった。
食後、革袋を手渡される。中には水袋と乾燥した携帯食。
そして――彼女の視線が、俺の相棒に向いた。
「その子は置いていってもらいます。不安でしょうが、あなたが強くなるためです」
俺はしばらく言葉を失い、やがて黙って《フェルマータ・リデヴォルト》を壁に立てかけた。心臓の奥がざわついたが、逃げ場はない。
「……準備はいいですか?」
深くうなずくと、セレネアの掌から光が溢れ、俺の全身を包み込んだ。
次の瞬間、足元の大地が変わった。
そこは、時間の流れさえ曖昧な森。東西南北の感覚も失われ、木々はどこまでも同じ姿で立ち並び、空は淀んだ灰色に閉ざされている。
一歩踏み出すたび、泥の中に足を取られるような抵抗感がある。
それだけではない。全身の魔力が、空気中に溶け出すように吸い取られていく。
頭の中に、セレネアの声が直接響いた。
「あなたに課された試練は、ただひとつ。その森を抜けること」
俺は無意識に唾を飲み込み、一歩を踏み出す。だが――
数歩で足が止まった。全身が鉛のように重く、思うように動かない。
「その森が普通の森ではないことには、もう気づいたはず。……では、幸運を祈るわ」
声はそこで途絶えた。
孤独と静寂の森を、俺はただ歩き続ける。
一歩ごとに心が摩耗していくのがわかる。
そして――均衡は唐突に崩れた。
木々の間に、人影が立っていた。見知った顔。
元パーティーメンバーたちが、俺を見下ろし、罵声を浴びせる。
「お前は俺たちの足を引っ張るだけの、ただの重荷だ!」
(違う……これは幻だ! 騙されるな!)
必死に己に言い聞かせるが、声は止まらない。
「正直、お前はもう必要ないんだ」
「何のためにそこに立ってるの? まるで置物じゃない」
(やめろ……俺だって……努力してるんだ……!)
嘲笑は幻であるはずなのに、胸を抉る痛みは現実だった。人影は歪み、憎悪に満ちた顔で俺を指差し、嗤う。
歯を食いしばって進み続けたとき、彼らはさらに姿を変え、獣のごとき魔物となって襲いかかってきた。
鋭い爪が肉を裂き、焼けつくような痛みが走る。
(どうなってる……!? 幻じゃないのか!?)
魔力を吸われた俺は満足に戦えない。それでも――無詠唱スキルを発動し、必死に応戦する。頭の奥から脈打つように痛み、意識が何者かに干渉されていく。
「まだ……いける!」
そう思った刹那、何かに突き飛ばされた。体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。
立ち上がったとき、視界に広がったのは――出発点。
振り出しに戻されていた。
この試練は、ただ精神を削るだけではない。
精神力を枯渇させる直前で強制的に止められ、その境界を身体に刻み込ませるものなのだ。
それから何度も、何度も繰り返された。
嘲笑と罵声から逃げるように歩き続け、幻の魔物に襲われては無詠唱で応戦する。精神力が限界に近づけば、また吹き飛ばされ、最初に戻る。
何度も同じ失敗をし、同じ場所に戻される。なぜだ? わかっているはずなのに。
胸の奥を掻きむしるような焦燥が、冷静な判断を奪っていく。
心は削られ、孤独は鋭く胸を刺す。――それでも進まなければいけない。俺には成し遂げねばならないものがある。
時間の感覚はとうに失われていた。
一週間か、一か月か、十年か――永遠とも思える孤独の中で、俺はただ己と向き合い続けた。
そしてある時。
ふと、意識の底で、かすかな暖かさを感じた。それは燃え盛る炎ではなく、氷点下の闇に灯る小さなロウソクの火のようだった。嵐に吹き消されそうになりながらも、決して消えない。それが、どれほど深く傷ついても、なお折れることのない俺自身の魂なのだと悟った。
その瞬間、胸の奥を覆っていた濃い霧が一気に晴れ渡る。
焦りも苛立ちも消え、ただ澄んだ思考だけが残った。
そこから俺は、決して無理をせず、一歩ずつ歩んだ。
魔物を倒した後は立ち止まり、力が戻るのを待つ。
かつての仲間がどれだけ急かそうと、罵倒しようと――完全に回復するまで動かない。
囁く幻の声も、いまでは遠くの雑音にすぎない。
静まり返った心は揺らがず、森の闇さえ穏やかな影に感じられた。
そして――
幾多の試練を越えた果てに、俺はついに光差す出口へと辿り着いたのだった。
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